忘れられたパパ
祐子が大阪市に帰れたのは…1週間後だったか、2週間後だったか…記憶があやふやである。ただ月は変わっていなかったと思う。
2、3日しかなかった食料も、すぐに近所の道路は通ったため、底をつく前に買い足すことができた。
ただ情報がほとんどないので、どこまで行けるのかわからなかった。そのうちにご近所からの情報で、電車なら大阪まで出られることがわかり、父親の運転する車で最寄りの駅まで送ってもらった。その時、母親もついてきた。祐子は遠慮したが「家にずっといると気が滅入る」と言われ、大阪まで一緒に行こうという事になった。
父親は「電車が途中で止まれへんやろか」と心配していたが、最後まで止まることはなかった。
…だが電車の中から見える風景に、母親も祐子も驚愕した。
「あの…マンション、斜めになってる…。えらいことになってるねぇ…」
「うわ…!古い家が…あれ燃えたんか?」
そんな祐子たちを、乗客が冷たい目で見ていたような気がする。…今頃何を言ってるんだ?…というような様子だった。
……
「あやめっ!」
祐子がかばんから鍵を取り出そうとしていると、すぐに守が玄関を開けて出てきた。
あやめは祐子の母親にだっこされたまま、きょとんとした目で守を見ている。
祐子は、荷物を玄関に置きながら言った。
「守さん、会社は?」
「今日は休んだんや!あやめが帰ってくるのに行ってられるかいな!なぁあやめ!」
守はそう言ってあやめに両手を差し出した。だがあやめは守から顔を背けて、母親の首に抱きついた。
「あやめ?」
守も祐子もあやめに抱きつかれた母親も、驚いてあやめを見た。
「あやめ?どうした?パパやで…ほら、こっち見てや…」
守はそう言ったが、あやめは母親に抱きついたまま動かない。
「…まさか…俺の事忘れたんか?」
守が愕然として言った。祐子は驚いた。電話では守の声をちゃんと認識していたのに、顔を忘れてしまったのか…?…だが、考えてみればあやめはまだ1歳だ。1週間以上も離れれば、確かに忘れてしまうのかもしれない。
「うそや…」
守が玄関に座り込んでしまった。
「守さんっ!すぐ思い出すって!ちょっと向こうでいろいろあったから、あやめもまだ混乱してんねんて!」
祐子が慌てるように、守の肩に手を乗せて言った。母親は必死に「ほら、あやめの好きなパパやんか!あやめ!」と言い、あやめの体を守に向けようとした。
だが、あやめはしがみついたまま動かなかった。
……
「ショックや…」
結局、守を見ないで寝入ってしまったあやめの寝顔を見ながら、守がつぶやいた。
「目が覚めたら、だっこしたり。思い出すって。」
ダイニングで祐子がコーヒーを淹れながら言った。母親がコーヒーを一口飲んでから言った。
「…だけど…ほんの短い時間で忘れてしまうんやねぇ…。」
「私らにしたら短くても、あやめには長い時間やったんかもしれんね。…ほら、小学校の時、卒業までの6年間って長く感じたけど、今、1年経つのがすごく早く感じるやん。」
「そういやそうやねぇ…」
「…親子でも…子どもが小さいうちは、ちょっとでも離れたらあかんね。」
祐子はそう言いながら「守さん、コーヒー入ったよ。」と言った。守はあやめの寝る布団のそばであぐらを掻いて座り、あやめの小さな手を優しく握りながら黙っている。
祐子はコーヒーカップを持って、守の傍に置いた。
「大丈夫?守さん。」
祐子はそう言って、守の顔を覗き込んだ。守は真剣な表情で、あやめの寝顔を見ている。
「俺…これからはあやめから離れへん。」
「は?」
「ずっとあやめの傍におる。」
祐子は笑った。
「そんなこと言うとったら、仕事も行かれへんやないの!」
「…そやけど…!」
守が祐子に向いて、涙をボロボロ流して言った。
「お前にわかるっ!?俺の今の気持ちっ!!娘に忘れられたんやぞ!!さっきのあやめの表情見とったか!?俺の顔をまるで「誰このおっちゃん」みたいな目したんやぞ!」
「もおおお、守さん!」
祐子は守の頭をなでなでしながら言った。
「考え過ぎ!目が覚めたら、一番に顔を見たり。思い出すから!」
「お前なぁ!あやめを鳥みたいに言うなっ!!」
守が涙をこぶしで拭いながら言った。祐子は笑ってしまった。
その時、あやめが目を覚ました。
「あやめ!」
祐子が先に気づいて言った。守は、はっとしてあやめを見た。
「あやめ!」
あやめはしばらく守の顔を見つめてから「パパ」と両手を差し出した。
祐子は「ほら!思い出した!」と言った。
「うおおおおおっ!あやめーっ!!」
守はそう言うと、あやめを抱え上げて抱きしめた。
祐子と母親は顔を見合わせて、笑ってしまった。
……
「はいはい。次はどこですかー?」
守はあやめを背中に乗せ、四つん這いで和室を回っている。あやめはきゃっきゃっと喜んで、守の背中を叩いていた。
祐子と母親は、笑いながらそんな2人を見ていた。
「あー…どうなるかと思った。」
祐子はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
「ほんまやね。」
母親がそう言って笑ってから「ごちそうさま」と言って、立ち上がった。
「帰る?」
祐子がそう不安そうに言うと、母親は微笑みながら「うん」と言った。
「今夜泊まったら?お父さんもええ言うとったやんか。」
「いや、明子もいるしな、帰るわ。」
「…そうやね…」
祐子も立ち上がった。
「守さん、お母さん帰るって。」
「え?泊まらないんですか?」
「ええ、ありがと。うちにも子どもが2人いるようなもんでね。」
母親がそう言って笑った。祐子が守の背中から、あやめを抱き上げた。
「あやめ、ばあば帰るって。」
あやめは「ばーば」と言って、両手を母親に差し出した。母親はそのあやめを抱き上げた。
「じゃぁ、あやめ元気でね!また来るからね!」
母親はそう言ったが、あやめは母親の首に抱きついたまま離れようとしなかった。
「あやめ、ほら…」
祐子が離そうとするが、あやめは離れようとしない。
「祐子ごめん、お願い。」
母親が涙ぐみながら言った。祐子も涙ぐみながら、ゆっくりとあやめを母親から引き剥がすように、抱き上げた。あやめが火がついたように泣き出した。
母親は急ぐように靴を履いた。
「お母さん、気を付けて!なんかあったら、どこからでもええから電話してな。」
「うん。」
母親は、泣いているあやめを見ないようにして、玄関を自分で開け外へ出てしまった。
「守さん、あやめお願い。」
祐子は隣に立っている守に言った。守がうなずいて、泣いているあやめを抱いた。
祐子は階段を降りる母親を追いかけた。
「お母さん、駅まで一緒に行くわ!」
「…うん…」
母親は涙を拭っている。祐子も涙を拭いながら、母親について階段を降りた。
……
「もう…大きな余震もないとは思うけど…とにかく気を付けてな。」
祐子は改札を入ろうとする母親に言った。
「うん。家についたらすぐに電話するわ。」
「うん、そうして。待ってるから。」
「うん。」
大した言葉もかけられないまま、祐子は手を振る母親に手を振り返した。母親の背がエスカレーターに消えた。
「…今度、いつ帰れんのやろな…」
祐子は思わずそう呟いていた。