溢れ出た涙
「あー!カセットコンロ、あと1つしかないわ!」
母親がそう声を上げたのを聞いて、祐子は驚いてキッチンに振り返った。
「あと1つしかないん?」
「ん…さっき、朝食作る時に結構使ってしもたから…これもあんまり残ってないなぁ」
「もうポットの水、冷めてしもたやろか?」
「冷めたんちゃうかなぁ…。あやめのミルクだけでも作れる分、置いとかなあかんわ。」
…さすがに、もう母乳は出ないよなぁ…と祐子は思った。その時、トイレに行っていた妹が、リビングに飛び込んで来た。
「お母さんっ!電気通ってるっ!トイレの便座のランプついてんねん!」
「えっ!?ほんまっ!?」
全員がそう言って取った行動はバラバラだった。
母親は、あやめのミルクを作るために抜いたポットのコンセントを差した。
父親は、テレビの電源をつけた。
祐子は、こたつのスイッチを入れた。
妹は(もう明るいのに)電灯の紐を引っ張っていた…。
すべてがついたのを確認して、皆が同時に「おーーっ!」と声を上げた。…上げてから、全員で笑ってしまった。
…だが、すぐにその笑い声は途絶えた。
テレビに映る神戸の様子があまりにも悲惨な状況だったからだ。
ヘリコプターから撮影されたものだった。アナウンサーの悲痛な声が響いている。
「まるで戦争の後のようです!火がまだ消えません!焼け野原のようになっております!」
本当にその通りだった。神戸の綺麗だったはずの街並みが、真っ黒になっていた。そして、至る所にまだ火が残っている。
「あっ!揺れましたっ!今…地面が揺れたような様子です…」
アナウンサーがそう言ったとたん、祐子達も揺れを感じた。だが、小さな揺れだ。…祐子達はもう余震になれてしまっていた。ただ、あやめだけが火がついたように泣き出した。
「ごめんごめん!あやめ!大丈夫!何もないんやで!」
祐子はそう言って、あやめの体を自分の方に向かせて抱き締め、背中を撫でた。
「ほら、あやめミルク!ミルク飲も!」
母親がやっと温まったミルクの入った哺乳瓶を差し出した。あやめは泣きやんで、両手で受け取った。
祐子はあやめを膝に下ろした。あやめはゴクゴクと喉を鳴らして、ミルクを飲み始めた。
「…でも、お母さん、こんなに飲ませて大丈夫か?まだ残ってる?」
「ミルクは、大きいのが後2缶もあるねん。私ら死んでも、あやめは生き残れるで!」
その母親の言葉に全員が思わず吹き出した。
「誰か1人、ミルク作る人が残ってなあかんやろ。」
「…あ、そうか。」
全員が笑った。…電気が通っただけで、何か気持ちに余裕が出てきたような気がした。
……
その頃、守は心配のしすぎで、ベッドに倒れ込んでいた。
会社に行く前に、パンを1つだけ食べた後は何も食べていない。
(あやめもお腹を空かせてるんや。俺だけが食べるわけにいかへん。)
何も知らない守は、その思いで何も口にする気にならなかったのである。
「俺、このまま餓死してしもたりして…」
守は思わずそう呟いて「そらあかんっ!」と言って、慌てて起き上がった。
「俺が死んでしもたら、誰があやめを迎えに行くねんっ!そや!死んでる場合やないっ!!」
守は慌てるようにキッチンに入った。そして冷蔵庫の中を覗き込んで、卵を取り出した。
「あやめ!待ってろよー!パパが絶対に迎えに行くからなっ!!」
守はそう言いながら、フライパンを取り出した。
……
電話が鳴った。母親が慌てて電話機に走った。
「はい!ああ、守さん!あれからも断線してたようやねぇ!待ってね!祐子に代わるから!」
母親はそう言いながら、祐子に手招きをしている。祐子は、手を差し出している父親にあやめを預けて、電話に駆け寄った。
「守さん、こっちやっと電気が通って…えっ?」
祐子が驚いた声を上げたので、皆祐子の方を見た。
「こっち来るって、どうやって?…うん…途中まで車で来て…?…あかんかったら、そっから歩くっ!?いや、待って守さん!そこまでせんでも…」
祐子が慌てふためいているのを見て、母親が何か笑いながら祐子に駆け寄っている。
「いや、大丈夫やねんて!あやめのミルクだけはいっぱいあるし、とりあえず電気が通ったから、ご飯も作れるねん。…えっ?食べ物?…うーん…私らのは、後2日分くらいしかないけど…いや、だからぁっ!」
祐子が笑い出した。母親が何か隣で笑いながら立っている。
「途中から歩いて来るにしても、歩いとったら3日で着かへんやろ?…気持ちは嬉しいけど、守さんは逆にそっちで待ってて欲しいねん。そっちに帰った時に、また何もなかったら困るから!うん、うん!お父さんの車もあるから、道さえ通ったら、こっちから動けるから!あーもう、何泣いてんの!!」
祐子がつられたのか、そう言って泣き出した。
「泣かんといて、守さん。その気持ちだけで嬉しいから。…うん、うん…とりあえず、あやめは大丈夫やし、皆元気やから…。うん…。」
母親が隣で涙を拭い始めた。その時祐子は、自分達が必死に元気ぶっていたことに気付いた。父親もさっと涙を拭った。明子は両手で顔を覆っている。
「うん、ありがと。とにかく、もう少し様子見て…うん。そっち、店開いてるんやったら、いっぱい何か買っといて。…うん、守さんもちゃんと食べなあかんで。うん、うん…じゃぁね。また明日こっちから電話するから。うん。あ、あやめな。ちょっと待ってや!」
祐子は受話器を母親に渡した。そして父親が抱きあげたあやめを受け取ると、何か話している母親の元へ戻った。
「…ほら、あやめ「パパ」やで…」
祐子がそう言うと、向こうに聞こえたのか、守が「あやめ!」と言った。あやめは受話器を両手で握りしめるようにして「パパ、パパ」と言った。
…祐子と母親は思わず溢れ出た涙を拭った。