2.事例#1#9
夕方の街は、やたらと優しい顔をしている。
駅前の喧騒も、コンビニの光も、横断歩道の人だかりも、全部 「今日の終わり」 を告げる。
制服の袖口に残る洗剤の匂い、焼き鳥屋の煙、電車のブレーキ音。
みんな帰る場所を持っている顔だ。
疲れていても、どこか安心している顔だ。
俺はそれら眺めながら、ただぶらぶら歩いていた。
変わり映えしない、いつもの景色。
(……はぁ、どこか遠いところに行きたい)
なんでもいい。
ここじゃないところなら、どこでも。
強いて言うなら、異世界とかパラレルワールドみたいな非現実的な場所でもいい。
理由は単純だ。
ここで生きることに向いてない気がするからだ。
他人の声が近すぎる。
空気が薄い。
誰かの冗談に合わせて笑うたびに、体のどこかが擦り減っていく。
何もしていないのに、帰り道だけでぐったりする。
上手に生きられないくせに、上手に生きているフリだけは出来てしまう。
別のルールの世界なら、俺の性格にも仕様が合うかもしれない。
ご都合チートでも貰えれば、なお良い。
いや、絶対それがいい。
そんなことを考えながら歩いていたら、交差点の角で——世界が、歪んだ。
空気がゼリーみたいに重くなって、視界の端が引き伸ばされる。
目の前の信号機が、溶ける。
ビルの角が柔らかい布みたいに波打つ。
耳の奥で低い音が鳴り始め、街の音が遠ざかっていく。
足元がふっと無重力になった。
「え、ちょ——」
声が途中で潰れた。
喉が締まり、息が吸えない。
手を伸ばした先に街があったはずなのに、もう手触りが違う。
空を掴んでいる感触じゃない。
膜だ、透明な膜が、指先に絡む。
――足元が抜ける。
落ちる、というより巻き込まれる。
膜みたいなものが視界ごとねじれて、街が一枚の紙みたいに裏返った。
コンビニの光も、人の顔も、駅の看板も、薄くなって漂い始める。
世界が「遠いところ」へ退色していき、巨大な渦に、街ごと吸い込まれていく——。
——意識がもうろうとする頃、次に足が着いたのは、土の上だった。
どすん、と骨に響く衝撃。
草の匂いに冷えた風。
夕焼けの色は似ているのに、街の人工的な音が一切ない。
虫の声だけが、やけに生々しく、風が木の葉を擦る音が耳元で囁く。
背中がぞわりとした。
「……マジで?」
言いながら、俺は笑った。
笑ってしまった。
だって、叶った。
俺の妄想が、そのまま現実になった。
怖いはずなのに、嬉しい。
興奮が先に来る。
胸が熱くなり、世界が自分の願いを聞いた、という錯覚が甘く広がる。
視界の中央に、半透明の板が浮いた。
《スキル付与:〈未来視〉》
《効果:複数の未来を同時に観測》
《備考:行動により分岐する未来も並行して表示》
《注意:観測中も現実時間は経過する》
《発動方法:非危険時 任意(念じる) / 危険時 自動》
「うわ、チートじゃん」
未来が見える。
それも一つじゃない。
選択で変わる未来まで並行して見えるなんて。
「すばらしい……」
俺は板を掴もうとした。
掴めない。
(まぁ、こういうのって大抵が掴めないよな)
皮膚の下がくすぐったい。
頭の中に新しい回路が繋がる感覚がある。
吐き気と、涙が出そうな眩しさ。
この現象を体が理解していく。
とりあえず、試しにスキルを使ってみよう。
未来視が、ふっと立ち上がる。
自分の意思で起動したのが分かる。
念じるだけで、視界の奥が開く。
そして、映像がいくつも視界に重なった。
ガラス越しの映画みたいに、現実の上に未来が流れ込む。
「す、すげぇ」
——俺が一歩踏み出す未来。
——俺が何もしない未来。
——俺が振り返る未来。
どれも似ているが少し違った。
違いは些細で、でも確かに枝分かれしている。
足元の石の踏み方、手の位置、呼吸の速さ。
それだけで、次が変わる。
視界に未来が重なり、同時に現実が薄くなる。
(……え、現実、見えにくっ)
未来の映像を見ている間も、俺の足は前に出ている。
現実は動いている。
時間も進む。
なのに、現実の輪郭だけがぼやける。
俺は未来視を切ろうとして、切り方が分からないことに気づいた。
考えたら勝手に入る。
じゃあ、考えないでいれば——
映像が薄れ、現実が戻る。
「……なるほどぉ」
俺はまた笑った。
笑いが、安心の形をしている。
便利だ。
必要なときだけ見ればいい。
危険なときは勝手に出る。
完璧だ。
——完璧だと思った。
俺は少し歩いた。
森を抜けて、道に出る。
踏み固められた土の道、人の通った跡。
馬の糞の匂いが混じる。
遠くで水の流れる音。
人がいて、文明がある。
そこに——鎧姿の人間がいた。
二人、槍、兜。
兵士っぽい。
革の匂いと汗の匂い。
金属が擦れる乾いた音。
(あ、村か国か、そういうのが近いんだ)
安心しかけた、その瞬間。
兵士の片方が、俺に気づいた。
空気が変わる。
距離が詰まり、目が細くなる。
槍先がわずかに下がり、次にこちらへ向く。
——危険。
その認識と同時に、未来視が勝手に起動した。
視界が、未来で埋まる。
いくつもの映像が、現実の上に重なる。
同時に、現実が見えなくなる。
見えないのに、現実は動いている。
——俺が手を上げる未来:兵士が叫び、槍を突きつける。
——俺が逃げる未来:兵士の投げた槍が、背中に突き刺さる。
——俺が座り込む未来:槍で殴られ、引きずられる。
——俺が笑う未来:殴られる。
——俺が黙る未来:殴られる。
どの未来にも、共通点がある。
逃げられない。
「え?」
声が自分のものじゃないようだった。
薄く、指先が冷たい。
心臓が、首のあたりで跳ねている。
現実にいる兵士が何か叫んだ。
でも俺には見えない。
未来映像が、視界を塞ぐ。
現実の輪郭が曖昧で、音だけが遅れて届く。
遅れて届いた音は、意味を持たない。
意味を持たない音は、恐怖だけを増やす。
俺は、反射で手を上げた。
敵意はない、のつもりだった。
同時に、未来で見えた 「手を上げる未来」 の続きが再生される。
槍が突き付けられた後、縄が飛び、腕が背中に回される。
地面が近づく。
「待っ……!」
避けようとした。
だが、避けるために必要な現実の情報が見えない。
現実の距離。
現実の足の位置。
現実の槍の角度。
——それが分からない。
未来だけが鮮明で、現実だけがぼやける。
未来が「答え」だと思っていたのに、未来はただの映像だ。
地面の硬さも、筋肉の反射も、呼吸のタイミングも映さない。
次の瞬間、腕が痛んだ。
縄が食い込む。
背中から押し倒される。
土が口に入った。
砂が歯に噛み、舌がざらつく。
現実の痛みは確かにあるのに、視界はその先の未来でチラつき続ける。
——薄暗い部屋。
——怒鳴り声。
——俺の返事、意味不明な音。
——拳が飛ぶ。
——歯が鳴る。
——血が床に落ちる。
あまりにも速く、あまりにも多い。
未来視は、優しくなかった。
未来は 「助け」 ではなかった。
気が付けば、俺は引きずられる未来を見ながら、引きずられていた。
殴られる未来を見ながら、殴られていた。
映画館の中で殴られているみたいだった。
しかも、スクリーンは目の裏だ。
痛みが鈍くなるほどに、どのくらい時間が経ったかわからない。
言葉も分からない。
未来が見えても、正解の言い方が存在しない。
未来は 「結果」 を見せるだけで、「対話の方法」 を教えない。
俺は未来視を何度も切ろうとした。
考えない、考えない。
けれど危険が近づくほど、勝手に映像が濃くなる。
自動で、現実を隠す。
便利なはずのチートが、逃げ道のはずの能力が、逃げ道そのものを塞ぐ。
こんなの、どうやって、使うんだよ……。
薄暗い部屋、石の壁、湿った匂いに鉄の錆の匂い。
手首が痛い。
縄の跡が熱い。
指先が痺れている。
兵士が短い刃物を抜く。
脅しなのか本気なのか——判断しようとした瞬間、未来視がさらに濃くなる。
見えた。
見えすぎた。
——俺が首を振る未来:殴られる。
——俺が頷く未来:殴られる。
——俺が泣く未来:殴られる。
——俺が笑う未来:殴られる。
最後は、決まっていた。
切られる。
いや、もっと正確に言うなら。
どんな行動も、もう結果を変えない。
未来が枝分かれしているようで、全部同じ幹に戻ってくる。
逃げ道は、ない。
「……なんで俺が……」
通じない。
通じるはずがない。
声は音として空気に出ていくのに、意味としては戻ってこない。
相手の目が、さらに冷たくなるのを感じる。
命令が短く下る。
刃物が近づく。
首元に触れる。
冷たい。
未来視は勝手に再生する。
息が漏れる未来、視界が歪む未来、暗くなる未来。
見えても、避けるための現実が見えない。
見えても、避けるための行動がもう残っていない。
最悪だ。
未来は助けじゃなかった。
未来は、ただの予告だった。
刃が入った。
熱い。
痛い。
呼吸が変な音を立てる。
喉の奥で泡が弾ける。
世界の輪郭が、街で歪んだときと同じように、歪む。
床が近づき、血の匂いが濃くなる。
目が開いているのに、見えるのは未来ばかりだ。
自分が倒れる未来、手が痙攣する未来、足が動かなくなる未来。
未来視は、まだ続いていた。
死ぬ数秒先まで、丁寧に、残酷に、映像が流れ続ける。
逃げられない未来。
叫ぶ未来。
止まっていく未来。
——全部、同時だ。
そして、ある瞬間。
ぷつん、と。
未来映像が途切れた。
映像が消える。
重なりが消える。
視界に残ったのは、ただの暗さだけだった。
戻った現実からは、未来が消えていた。
当然だ。
俺が死ぬなら、未来を見る 「俺」 がいない。
だから、未来はそこで終わる。
息が止まる。
そして——
「これから」 も、見えなくなった。
夕方の街も、コンビニの光も、横断歩道の人だかりも、全部、最後の最後に遅れて思い出した。
あれは 「退屈」 なんかじゃなかった。
あれは、いい場所だった。
俺はそこから逃げたかった。
逃げて、別のルールを望んだ。
望んだ結果、未来だけが見える目をもらった。
終わりを何度も見せ、現実を奪っていく。
最後まで俺は、未来に殴られながら死んだ。
どん底に落ちたのは、首を切られた瞬間じゃない。
未来が途切れた、その瞬間だった。
——俺の中から 「これから」 が、完全に消えた。
対象:御堂筋 直哉/男/20代前半/凡個体
目的:***
付与:未来視
結果:初日死亡




