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1.事例##81

 昼休みの教室は、うるさいようで、どこか退屈だった。


 前の方では誰かが恋バナで笑っていて、後ろではカードゲームの勝敗で揉めている。

 机を叩く音、椅子を引く音、ペットボトルのキャップが弾ける音。

 窓の外では運動部の掛け声が規則的に跳ね、体育館の床を叩く音が遠い雨みたいに続いていた。


 世界はちゃんと回っている。

 誰もが、自分の人生を「今ここ」で使っている。


 窓際の席で、俺は机に頬をつけたまま、その全部を映像みたいに眺めていた。

 ガラスに映る自分の顔が、ぼんやりと二重に揺れている。

 目だけが開いていて、口元は無表情。


 制服の袖の縫い目を指でなぞる。

 糸が一本、ほつれていた。


 笑い声の輪に入れないわけじゃない。

 入る気が起きないだけだ。

 入れば、それっぽく笑える。

 相槌も打てる。

 空気を読める。

 誤魔化せる。


 ——誤魔化して、何になる。


 俺の頭は、無駄に回る。

 人の視線の動き、声のトーン、誰が誰をどれくらい好いているか。

 誰が誰に嫌われているか。

 次に何が起きるか。

 いちいち予測できる。

 そういうのは得意だった。


 だけど、そのくせ、自分の人生の「次」は予測できなかった。


 授業を受けて、昼を超えて、家に帰って、寝て、起きて、また同じ教室に来る。

 テストの点数が多少上下しても、部活の大会があっても、卒業式が来ても、流れは一つの川みたいに決まっている。


 俺はその川を見下ろしながら、「泳げるよ」と言い続けて、結局一度も飛び込まなかった。


 頭は悪くないと思う。

 少なくとも、そう言われる程度には。

 でも同時に、バカだった。


 考えることに時間を割く人生で、考えたぶんだけ何かが進むと信じていた。

 吟味して、最悪を想定して、最良の選択肢を並べて、結局どれも選ばない。

 選べない自分を「慎重」と呼んで、怠けている事実から目を逸らす。


 だから、何もなかった。


 頬の下で、机が冷たい。

 夏の教室の熱の中で、そこだけが妙に冷える。

 冷えるのが、心地いい。


 (……はぁ、つまんね)


 心の中で吐き捨てる。

 声に出したら負ける気がして、出せない。

 どうせ誰も聞いていないのに。


 そのまま、妄想にふける。

 内容は、いつも同じだ。


 ここじゃない場所、ここじゃないルール。

 黙っていても「すごい」と言われる世界。

 選ばれたら、逆転できる世界。

 努力が報われるんじゃなくて、努力する前に、選ばれている世界。


 異世界、チート、最強スキル。


 小説の中の主人公は、初めての戦いで怖がりながらも、なぜか必要な言葉を口にできる。


 言葉が通じる。

 チュートリアルがある。

 優しい人がいる。

 都合よく地図が手に入る。

 都合よく金が手に入る。


 都合よく、救われる。


 (頼む、こんな俺にも最強をくれ。俺の人生、ここでひっくり返してくれ)


 祈りというより、命乞いに近い願いだった。

 自分の努力じゃどうにもできないから、世界のほうを変えてくれ、と言っている。

 恥ずかしいくらい、情けない。


 その瞬間だった。


 ぷつん、と世界の音が切れた。


 運動部の声も、笑い声も、椅子を引く音も、途中で途切れて消えた。

 耳が詰まるのとは違う。

 音そのものが世界から抜き取られたみたいに、静けさだけが残る。


 ——静かすぎる。


 俺は顔を上げた。


 教室はいつものままで、みんなもいる。

 なのに、誰も動いていない。

 瞬きすら起こらない。

 黒板の粉が空中で止まり、窓の外の鳥が羽ばたきの途中で固定され、時間だけが薄い膜になって張り付いているみたいだった。


 俺の隣の席のやつの髪が、風でふわっと持ち上がりかけたところで固まっている。

 笑っていた女子の口が開いたまま凍っている。

 誰かが投げた消しゴムが、空中で水平のまま止まっている。


 世界が、俺だけを残してフリーズした。


 「……え?」


 自分の声だけがやけに大きく響いた。

 教室の壁にぶつかって跳ね返り、少し遅れてまた耳に入ってくる。

 その遅れが怖い。

 自分の声が自分のものじゃないみたいで。


 視界の端が、ゆっくり白くなる。


 色が抜けていく。

 輪郭が溶け、机の木目も人の顔も、水に滲んだインクみたいに広がっていく。

 足元の感覚が消え、次に落下感に襲われた。


 胃が、締め付けられる間隔。

 喉の奥が痛く、空気が薄くなる。

 まぶたの裏に何かが滲む。


 ——俺は、落ちる。


 全てを真っ白に埋め尽くし――




 どすんっ、と地面が戻った。


 頬が草に擦れ、湿った土の冷たさが皮膚に染みる。

 鼻の奥に、草の匂いが刺さった。

 湿った土の匂い、青く苦い葉の匂い。

 空気が生き物みたいに肺へ入り込む。


 教室の匂いじゃない。


 俺は地面に転がっていた。

 頬に草が張り付き、口の中に砂が入った。


 ザラザラする。


 吐き出したいのに、喉がうまく動かない。


 「……っ、は、はっ」


 息をするだけで、胸が痛い。

 肺が、世界に馴染もうとして軋む。


 ――森だ。


 木が密で、空が細い。

 葉が重なって光を遮り、地面にまだらの影を落としている。

 隙間から、夕焼けの世界が薄っすらと見えた。


 肌に当たる風は、教室のエアコンの風とまるで違った。

 冷たく、湿る。

 汗を奪わない、皮膚の上を撫でて、通り抜けていく。


 これは、現実だ。


 そう思った瞬間、遅れて恐怖が来た。

 背中に氷の板を当てられたみたいに、体温が落ちる。

 誰もいない森で、俺はひとりだ。

 どこかわからない、戻るという選択肢はないのかもしれない。


 なのに。


 「来た……」


 声が震える。

 怖いのに、嬉しい。

 笑ってしまう。

 口角が勝手に上がる。

 涙が出そうになる。

 こんなに怖いのに、脳のどこかが歓声を上げている。


 やっと、やっとだ。


 俺は笑いながら起き上がった。

 ここは異世界なんだと、答えを急ぐ。


 制服についた草。

 異世界なのに、制服。

 

 ダサい。

 

 でも、それが逆に「マジだ」と証明してくれている気がした。


 夢なら、もっと都合よく服が変わっているはずだ。

 妄想はいつも、俺を格好よくしてくれる。

 現実は、そうはしない。


 そのとき、視界の中央に半透明の板が浮かんだ。


 透けたガラス板みたいなUI。

 文字だけが鮮明に浮いている。

 冷たい光で、目を逸らしても視線の中心に貼り付く。


 《スキル付与:〈因果律編集〉》

 《効果:事象の原因と結果の接続を編集可能》

 《発動条件:対象・原因・結果・環境・時間・因果の鎖を、完全に一文で定義し、矛盾なく宣言すること》


 「……ッ!!」


 喉の奥から変な声が漏れた。

 胸の内側が熱くなる。

 心臓が、今まで眠っていた分まで暴れまわる。


 「やべえ……」


 涙が出た。

 嬉しさと、悔しさと、何かの混ざった涙だ。

 教室で退屈していた俺の人生が、ここでひっくり返る。

 待ちに待った世界が、心を躍らせる。

 やっと、俺にも「特別」が来た。


 ——俺は、選ばれた。


 その確信は甘い蜂蜜みたいに脳を満たした。

 そこに、溺れた。


 背後で鳴った草の音など気にもならなかった。




 ——次の瞬間、世界が回転した。


 どん、と胸が前に引っ張られる。

 それは、胸倉をつかまれたように。


 そして、空気が、肺から勝手に抜けた。


 「……っ」


 声が出ない。

 驚く暇もない。

 痛みも、ない。


 ただ、膝が崩れた。

 地面が近づき、頬が草に当たる。

 湿った匂いが、一気に濃くなる。


 俺は転んだと思った。

 足がもつれただけだと。

 異世界の地面は滑るな、と。


 でも胸が重い。

 身体が、重い。

 呼吸が入らない。


 視界の中心には板が残っている。

 冷たく、整って、正しい顔をして。


 ——そうだ、とりあえず、試そう。


 俺は指を伸ばした。

 指が震えている。

 板には触れない、触れる必要もない。


 口を開く。


 「因果律——」


 その瞬間、口の中が鉄の味で満ちた。

 唾の味じゃない。

 熱くて、ぬるくて、粘る。


 ――血。


 俺は瞬きをした。

 喉が勝手に鳴る。

 飲み込もうとして、咳が出かける。

 咳をしたら、何かが裂ける気がして、必死で堪えた。


 視線を落とす。


 制服の胸元に、小さな穴が開いていた。

 針で突いたみたいで、確実に終わりへと繋がっている穴。

 そこから赤が、じわ、と滲んで広がっていく。


 「あ……」


 声が空気だけになる。


 背中が、冷たい。


 背中を撫でようとして、腕が途中で止まった。

 回らない。

 肩が固まる。


 ——そこに、何かがある。


 木の柄の感触が、皮膚の内側から伝わってくる。

 背中に突き立つ硬い異物。


 棒のような……槍だ。


 背中から胸へ。

 まっすぐに。


 刺されている。


 刺されているのに、痛みがまだ追いつかない。

 痛みより先に、理解が俺を殺しに来た。


 男の足が視界に入った。

 三対。

 泥がついた裸足と革らしき履物。

 俺の血の上に、ためらいなく踏み込んでくる。


 男たちは何かを言っている。

 意味は、分からない。


 俺は板を見上げた。

 目の前が暗くなるのに、文字だけは鮮明だ。


 《発動条件:対象・原因・結果・環境・時間・因果の鎖を、完全に一文で定義し、矛盾なく宣言すること》


 対象、原因、結果、環境、時間、因果の鎖。

 全部、分かってる。

 分かってるはずだ。


 なら言え。

 一文で。

 矛盾なく。


 俺は、頭の中で文章を組んだ。

 森、夕焼け、付近の男、槍、背中、胸、血、俺の死。

 全部を一つの線で繋ぐ。

 その線を、別の線へ繋ぎ替える。


 簡単だ。

 俺の得意分野だ。

 いつも妄想でやってきた。


 ——なのに。


 言葉が出ない。


 喉が血で塞がる。

 息が足りない。

 文を最後まで運ぶ空気がない。


 しかも、頭の中で組んだ文章は、勝手に分裂した。


 原因が一つじゃない。

 結果も一つじゃない。

 刺さった時点で、俺はもう「死にかけ」という結果の中にいる。


 環境は森だけじゃない。

 湿度、風、体勢、距離、男の手元、槍の角度。


 時間は「今」じゃ足りない。

 刺さった瞬間と、今この瞬間は違う。


 因果の鎖は一本じゃない。

 枝分かれして、絡まり合って、どれが正しい鎖か分からない。


 俺の得意だった「考える」が、ここで牙を剥いた。

 考えれば考えるほど、定義が増える。

 増えれば増えるほど、一文が崩れる。

 崩れれば崩れるほど、矛盾が生まれる。


 ——矛盾なく、なんて無理だ。


 板が静かに光っている。

 俺の焦りも、痛みも、血も、関係ない顔で。


 「……っ、うぶ……」


 声を出そうとした。

 でも出たのは泡だった。

 血の泡が唇で弾けて、頬に落ちた。


 板が点滅する。


 《宣言不成立:定義不足》


 「……」


 俺は息を吸おうとした。

 吸えない。

 胸が膨らまない。

 槍がそこにある。


 板がまた点滅する。


 《宣言不成立:矛盾》


 矛盾。


 ——そうだ。


 俺の言葉は、いつも矛盾していた。

 「変わりたい」と思いながら「変わらない」選択をした。

 「泳げる」と言いながら飛び込まなかった。


 ここでも同じだ。


 「助かりたい」と思いながら、条件を満たせない。

 「一文で」と言われて、分裂する。

 「矛盾なく」と言われて、矛盾だらけになる。


 俺は板を睨んだ。

 睨んでも、板は変わらない。

 世界は、俺の視線で変わらない。


 男の一人が槍の柄を握り直した。

 それだけで、終わりが近づくのが分かった。

 迷いがない。


 ゆっくりと、柄が引かれた。

 身体が少し浮き上がる。


 ずるり、と。


 体内で何かが擦れる感触がして、遅れて痛みが爆発した。

 痛みが熱に変わり、熱が寒さに変わり、寒さが視界を白くした。


 俺は叫ぼうとした。

 でも喉は血で濡れて、音にならない。


 板が視界の中心で冷たく光っている。

 まるで「できただろ」と言うみたいに。

 まるで「お前が悪い」と言うみたいに。


 俺は最後に、教室の昼休みの音を思い出した。

 恋バナの笑い声。

 カードゲームの罵声。

 ペットボトルのキャップの軽い破裂音。

 体育館の床を叩く遠い雨みたいな音。


 あれが、どれほど幸せだったか。


 俺はそれを退屈だと思った。

 つまんないと思った。

 捨てた。


 捨てた場所に、戻れない。


 いや、捨てたというのかはわからないな。


 視界が暗くなる。

 音が遠のく。

 呼吸が途切れる。


 最後まで板は消えなかった。

 最後まで最強はそこにあった。


 ただ——俺には、その最強を成立させるための能力がなかった。

 だから俺は、選ばれたと思った瞬間だけを頂点にして、あとは一直線に落ちていった。


 落ちて、森の匂いに溶けて、土に吸われて、誰にも気づかれずに終わる。


 この世界は、俺の妄想のために用意された舞台じゃない。


 俺の人生は——最期まで、ひっくり返らなかった。

対象:久世くぜ つかさ/男/10代前半/凡個体

目的:***

付与:因果律編集

結果:初日死亡

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