第19話 聖女の問いと、答えられない心臓
玲奈様の声が、まだ耳の奥に残っている。
「ねえ。白森さんの"好き"って、誰に向けるの?」
あの言葉は僕に向けられたものじゃない。シルフィに囁かれたものだ。
なのに、僕の胸を刺した。
校門の前で立ち尽くしたまま、僕は自分の手のひらを見た。昨日まで繋いでいた手。今日は、空っぽだ。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟いて、僕は男子寮への道を歩き始めた。
風が冷たい。手袋はある。両方ある。玲奈様がくれた新品のペア。
なのに、片方だけ貸していた昨日の方が、ずっと温かかった。
***
部屋に戻っても、落ち着かなかった。
教科書を開いても文字が滑る。スマホを見ても通知はない。
僕はベッドに仰向けになって、天井を見た。
シルフィは今頃、玲奈様と街を歩いている。
腕を組んで。人混みの中を。イルミネーションの下を。
僕が隣にいた場所に、玲奈様がいる。
「……別に、いいだろ」
いい。いいに決まっている。シルフィは聖女様を愛でたいのだ。最初からそうだった。僕はただの従者で、壁で、世話焼きで。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が重い。
スマホが震えた。
画面を見ると、シルフィからだった。
初めてのメッセージ。
『ハルト。緊急連絡だ』
心臓が跳ねる。
何かあったのか。怪我か。迷子か。
僕は起き上がって、すぐに返した。
『どうした』
既読がつく。
三点リーダーが出て、消えて、また出る。
長い。
ようやく届いたメッセージは、緊急でも何でもなかった。
『玲奈様が、私の耳を褒めた』
僕は画面を見つめたまま、三秒くらい固まった。
「……それが緊急?」
声に出してしまった。
返信を打つ。
『よかったな』
すぐに返ってくる。
『よくない。動揺している。心拍が異常だ』
『それは嬉しいんだよ』
『嬉しいのか? これが?』
『そうだよ』
また三点リーダー。長い沈黙。
次に届いたメッセージで、僕の指が止まった。
『……貴様は、私の耳をどう思う』
質問の意味が分からない。
いや、分かる。分かるから困る。
僕は慎重に言葉を選んだ。
『きれいだと思う』
送信してから、後悔した。
素直すぎる。もっと軽く返せばよかった。
シルフィからの返信は、しばらく来なかった。
五分。
十分。
僕はスマホを握ったまま、天井に目を戻した。
やがて、震えた。
『……ふん。当然だ』
それだけだった。
それだけなのに、僕は笑ってしまった。
笑って、それから、少しだけ苦しくなった。
***
翌朝。
教室に入ると、シルフィはすでに席にいた。
いつもより早い。そして、いつもより静かだ。
僕が近づくと、シルフィは顔を上げた。
目が合う。
一瞬だけ、何か言いたそうな顔をして――すぐに、いつもの尊大な表情に戻る。
「……遅いぞ、従者」
「いつも通りだけど」
「いつも通りが遅いと言っている」
理不尽だ。でも、声に棘がない。
僕は隣の席に座りながら、聞いた。
「昨日、どうだった」
「……何がだ」
「デート」
「デートではない」
即答。予想通り。
「……玲奈様と、街を歩いた。それだけだ」
「楽しかった?」
「……」
シルフィは答えなかった。
代わりに、鞄の中から何かを取り出す。
小さな紙袋。中身は見えない。
「……これは、昨日、玲奈様が買ってくださったものだ」
「へぇ」
「私に、似合うと」
シルフィは紙袋を開けた。
中から出てきたのは、細いシルバーのブレスレット。
華奢で、光を受けると淡く輝く。エルフの銀髪に合う色だった。
「……きれいだな」
「……そうか」
シルフィはブレスレットを見つめたまま、小さく言った。
「玲奈様は、私に似合うものを知っている」
「うん」
「私の好みではなく、私に似合うものを」
その言い方に、僕は何かが引っかかった。
シルフィは続ける。
「……あの方は、見ている。私のことを、よく見ている」
声が、少しだけ震えていた。
「嬉しいのに、怖い。見られていることが」
僕は黙って聞いた。
「昨日、腕を組んで歩いた。あの方の体温は、低かった。なのに、触れているところだけが熱かった」
シルフィの耳が、じわりと赤くなる。
「……あの方が囁いた。"好きって、誰に向けるの"と」
「……聞こえてた」
「聞こえていたのか」
シルフィが僕を見る。驚いた顔。
「……答えたのか?」
「答えられなかった」
シルフィは視線を落とした。
「玲奈様は笑って、"答えなくていいよ"と言った。"でも、いつか教えてね"と」
優しい。優しいのに、逃がさない。
それが天道玲奈だ。
「……ハルト」
「ん」
「私は、玲奈様が好きだ」
はっきり言った。
僕の胸が、ぎゅっと縮む。
「……知ってる」
「知っているか。ならば、もう一つ」
シルフィは僕の目を見た。
碧い瞳が、揺れている。
「貴様のことも……分からなくなっている」
分からない。
好きとは言わない。嫌いとも言わない。
ただ、分からない。
それが、今のシルフィの正直な場所なのだと、僕は理解した。
「……いいよ。分からないままで」
「……許すのか」
「許すとかじゃない。シルフィのペースでいい」
僕がそう言うと、シルフィは一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
すぐに隠した。強がりの仮面を被り直す。
でも、声だけは正直だった。
「……貴様は、本当に……ずるい」
「ずるいのはお前だろ」
「……うるさい」
シルフィはブレスレットを鞄にしまって、前を向いた。
授業が始まる。
日常が戻る。
でも、僕の胸の中では、何かが静かに動いていた。
シルフィの"分からない"は、いつか答えになる。
その答えが僕に向くかどうかは、分からない。
分からないけど、隣にいる。
それが今の僕にできる、全部だった。
***
昼休み。
廊下の自販機前で缶コーヒーを買っていると、後ろから声がした。
「鈴木くん」
振り返ると、玲奈様が立っていた。
いつもの柔らかい笑顔。だけど、今日は少しだけ、真剣な色が混じっている。
「昨日、ありがとう」
「……僕、何もしてないですけど」
「送り出してくれたでしょう。白森さんのこと」
玲奈様は自販機にもたれて、小さく息を吐いた。
「白森さん、かわいかった」
「……そうですか」
「うん。すごく緊張してて、でも一生懸命で。腕を組んだとき、心臓の音が聞こえそうだった」
玲奈様は楽しそうに言う。
でも、次の言葉は楽しそうじゃなかった。
「……鈴木くん。私ね、白森さんのこと、好きよ」
僕の手から、缶コーヒーが落ちそうになった。
「……え」
「人として。友達として。……でも、それだけじゃないかもしれない」
玲奈様は自分の言葉に、自分で驚いたような顔をした。
「おかしいよね。聖女なんて呼ばれてるのに」
「……おかしくないです」
僕は咄嗟に言った。
玲奈様が僕を見る。
「おかしくないですよ。誰かを好きになるのは」
玲奈様は少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくり笑った。
いつもの完璧な笑顔じゃない。もっと柔らかくて、もっと弱い笑顔。
「……ありがとう。鈴木くんは、やっぱり優しいね」
そして、玲奈様は姿勢を正した。
「でも、私は白森さんを困らせたくない。だから、ゆっくりにする」
「……はい」
「その代わり」
玲奈様の目が、少しだけ鋭くなる。
「鈴木くんも、ゆっくりじゃだめよ」
「……え?」
「白森さんの"分からない"は、待ってるだけじゃ答えにならない」
刺された。
優しい声で、正確に。
「……肝に銘じます」
「うん。期待してる」
玲奈様はそれだけ言って、廊下の向こうへ歩いていった。
僕は缶コーヒーを握りしめたまま、壁にもたれた。
聖女と従者が、同じ人を見ている。
三角形の真ん中にいるシルフィは、まだ何も知らない。
いや――知り始めている。
だから、怖がっている。
僕は冷めたコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
冬の空は高くて、どこまでも青い。
シルフィの瞳と、同じ色だった。




