表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

第19話 聖女の問いと、答えられない心臓

 玲奈様の声が、まだ耳の奥に残っている。


「ねえ。白森さんの"好き"って、誰に向けるの?」


 あの言葉は僕に向けられたものじゃない。シルフィに囁かれたものだ。


 なのに、僕の胸を刺した。


 校門の前で立ち尽くしたまま、僕は自分の手のひらを見た。昨日まで繋いでいた手。今日は、空っぽだ。


「……帰るか」


 誰に言うでもなく呟いて、僕は男子寮への道を歩き始めた。


 風が冷たい。手袋はある。両方ある。玲奈様がくれた新品のペア。


 なのに、片方だけ貸していた昨日の方が、ずっと温かかった。


 ***


 部屋に戻っても、落ち着かなかった。


 教科書を開いても文字が滑る。スマホを見ても通知はない。


 僕はベッドに仰向けになって、天井を見た。


 シルフィは今頃、玲奈様と街を歩いている。


 腕を組んで。人混みの中を。イルミネーションの下を。


 僕が隣にいた場所に、玲奈様がいる。


「……別に、いいだろ」


 いい。いいに決まっている。シルフィは聖女様を愛でたいのだ。最初からそうだった。僕はただの従者で、壁で、世話焼きで。


 分かっている。


 分かっているのに、胸の奥が重い。


 スマホが震えた。


 画面を見ると、シルフィからだった。


 初めてのメッセージ。


『ハルト。緊急連絡だ』


 心臓が跳ねる。


 何かあったのか。怪我か。迷子か。


 僕は起き上がって、すぐに返した。


『どうした』


 既読がつく。


 三点リーダーが出て、消えて、また出る。


 長い。


 ようやく届いたメッセージは、緊急でも何でもなかった。


『玲奈様が、私の耳を褒めた』


 僕は画面を見つめたまま、三秒くらい固まった。


「……それが緊急?」


 声に出してしまった。


 返信を打つ。


『よかったな』


 すぐに返ってくる。


『よくない。動揺している。心拍が異常だ』


『それは嬉しいんだよ』


『嬉しいのか? これが?』


『そうだよ』


 また三点リーダー。長い沈黙。


 次に届いたメッセージで、僕の指が止まった。


『……貴様は、私の耳をどう思う』


 質問の意味が分からない。


 いや、分かる。分かるから困る。


 僕は慎重に言葉を選んだ。


『きれいだと思う』


 送信してから、後悔した。


 素直すぎる。もっと軽く返せばよかった。


 シルフィからの返信は、しばらく来なかった。


 五分。


 十分。


 僕はスマホを握ったまま、天井に目を戻した。


 やがて、震えた。


『……ふん。当然だ』


 それだけだった。


 それだけなのに、僕は笑ってしまった。


 笑って、それから、少しだけ苦しくなった。


 ***


 翌朝。


 教室に入ると、シルフィはすでに席にいた。


 いつもより早い。そして、いつもより静かだ。


 僕が近づくと、シルフィは顔を上げた。


 目が合う。


 一瞬だけ、何か言いたそうな顔をして――すぐに、いつもの尊大な表情に戻る。


「……遅いぞ、従者」

「いつも通りだけど」

「いつも通りが遅いと言っている」


 理不尽だ。でも、声に棘がない。


 僕は隣の席に座りながら、聞いた。


「昨日、どうだった」

「……何がだ」

「デート」

「デートではない」


 即答。予想通り。


「……玲奈様と、街を歩いた。それだけだ」

「楽しかった?」

「……」


 シルフィは答えなかった。


 代わりに、鞄の中から何かを取り出す。


 小さな紙袋。中身は見えない。


「……これは、昨日、玲奈様が買ってくださったものだ」

「へぇ」

「私に、似合うと」


 シルフィは紙袋を開けた。


 中から出てきたのは、細いシルバーのブレスレット。


 華奢で、光を受けると淡く輝く。エルフの銀髪に合う色だった。


「……きれいだな」

「……そうか」


 シルフィはブレスレットを見つめたまま、小さく言った。


「玲奈様は、私に似合うものを知っている」

「うん」

「私の好みではなく、私に似合うものを」


 その言い方に、僕は何かが引っかかった。


 シルフィは続ける。


「……あの方は、見ている。私のことを、よく見ている」


 声が、少しだけ震えていた。


「嬉しいのに、怖い。見られていることが」


 僕は黙って聞いた。


「昨日、腕を組んで歩いた。あの方の体温は、低かった。なのに、触れているところだけが熱かった」


 シルフィの耳が、じわりと赤くなる。


「……あの方が囁いた。"好きって、誰に向けるの"と」

「……聞こえてた」

「聞こえていたのか」


 シルフィが僕を見る。驚いた顔。


「……答えたのか?」

「答えられなかった」


 シルフィは視線を落とした。


「玲奈様は笑って、"答えなくていいよ"と言った。"でも、いつか教えてね"と」


 優しい。優しいのに、逃がさない。


 それが天道玲奈だ。


「……ハルト」

「ん」

「私は、玲奈様が好きだ」


 はっきり言った。


 僕の胸が、ぎゅっと縮む。


「……知ってる」

「知っているか。ならば、もう一つ」


 シルフィは僕の目を見た。


 碧い瞳が、揺れている。


「貴様のことも……分からなくなっている」


 分からない。


 好きとは言わない。嫌いとも言わない。


 ただ、分からない。


 それが、今のシルフィの正直な場所なのだと、僕は理解した。


「……いいよ。分からないままで」

「……許すのか」

「許すとかじゃない。シルフィのペースでいい」


 僕がそう言うと、シルフィは一瞬だけ、泣きそうな顔をした。


 すぐに隠した。強がりの仮面を被り直す。


 でも、声だけは正直だった。


「……貴様は、本当に……ずるい」

「ずるいのはお前だろ」

「……うるさい」


 シルフィはブレスレットを鞄にしまって、前を向いた。


 授業が始まる。


 日常が戻る。


 でも、僕の胸の中では、何かが静かに動いていた。


 シルフィの"分からない"は、いつか答えになる。


 その答えが僕に向くかどうかは、分からない。


 分からないけど、隣にいる。


 それが今の僕にできる、全部だった。


 ***


 昼休み。


 廊下の自販機前で缶コーヒーを買っていると、後ろから声がした。


「鈴木くん」


 振り返ると、玲奈様が立っていた。


 いつもの柔らかい笑顔。だけど、今日は少しだけ、真剣な色が混じっている。


「昨日、ありがとう」

「……僕、何もしてないですけど」

「送り出してくれたでしょう。白森さんのこと」


 玲奈様は自販機にもたれて、小さく息を吐いた。


「白森さん、かわいかった」

「……そうですか」

「うん。すごく緊張してて、でも一生懸命で。腕を組んだとき、心臓の音が聞こえそうだった」


 玲奈様は楽しそうに言う。


 でも、次の言葉は楽しそうじゃなかった。


「……鈴木くん。私ね、白森さんのこと、好きよ」


 僕の手から、缶コーヒーが落ちそうになった。


「……え」


「人として。友達として。……でも、それだけじゃないかもしれない」


 玲奈様は自分の言葉に、自分で驚いたような顔をした。


「おかしいよね。聖女なんて呼ばれてるのに」

「……おかしくないです」


 僕は咄嗟に言った。


 玲奈様が僕を見る。


「おかしくないですよ。誰かを好きになるのは」


 玲奈様は少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくり笑った。


 いつもの完璧な笑顔じゃない。もっと柔らかくて、もっと弱い笑顔。


「……ありがとう。鈴木くんは、やっぱり優しいね」


 そして、玲奈様は姿勢を正した。


「でも、私は白森さんを困らせたくない。だから、ゆっくりにする」

「……はい」

「その代わり」


 玲奈様の目が、少しだけ鋭くなる。


「鈴木くんも、ゆっくりじゃだめよ」

「……え?」

「白森さんの"分からない"は、待ってるだけじゃ答えにならない」


 刺された。


 優しい声で、正確に。


「……肝に銘じます」

「うん。期待してる」


 玲奈様はそれだけ言って、廊下の向こうへ歩いていった。


 僕は缶コーヒーを握りしめたまま、壁にもたれた。


 聖女と従者が、同じ人を見ている。


 三角形の真ん中にいるシルフィは、まだ何も知らない。


 いや――知り始めている。


 だから、怖がっている。


 僕は冷めたコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。


 冬の空は高くて、どこまでも青い。


 シルフィの瞳と、同じ色だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ