第18話 腕、貸して
繋いだ手の熱は、廊下の冷たさを忘れさせるほど強かった。
けれど、天道玲奈様に“見られた”という事実が、その熱に別の意味を足してくる。
シルフィは手を離さないまま、硬い声で言った。
「……今のは、事故だ」
「事故って」
「偶然だ。不可抗力だ。私は悪くない」
悪いかどうかの話じゃない。
僕がそれを口にする前に、シルフィは自分に言い聞かせるように続けた。
「玲奈様は、優しい方だ。だから……からかわれても、怒ってはいけない」
「からかわれてたの?」
「……違う。教えられていた」
言い換えた瞬間、シルフィの声が少しだけ柔らかくなる。
僕はその変化に、何も言えなくなった。
「今日は、解散だ」
「うん」
「……貴様は、早く寝ろ」
「シルフィもな」
「私は……」
言いかけて、止まる。
シルフィは指先だけを動かして、僕の手を一度、握り直した。
それは“さよなら”の代わりみたいで、僕は胸の奥が詰まった。
「……私は、少しだけ、考える」
そう言って、シルフィはようやく手を離した。
手袋越しの温度が、空気にさらされていく。
僕は自分の手を見下ろしながら、ひとつだけ理解した。
もう“任務”では、戻れない。
***
翌日。
僕は特別棟の廊下で、ありえない光景を見た。
天道玲奈様が、シルフィの髪に手を伸ばしていたのだ。
距離が近い。近すぎる。
「ちょっとじっとして。ほら、昨日渡したピン」
「……私は、できる」
「できてないわよ」
玲奈様は笑顔のまま、シルフィの銀髪を指で梳き、耳のあたりの髪をすっと整えた。
その動きが、やけに慣れている。
シルフィは微動だにできず、耳だけが真っ赤だ。
「……天道玲奈……さま……っ」
「うん、なあに?」
玲奈様が近いまま返事をするから、シルフィの呼吸が変になる。
僕は咳払いをした。
「おはようございます」
「あ、おはよう。鈴木くん」
玲奈様は何事もなかったように手を引いた。
シルフィは救われた顔をしたかと思うと、すぐに僕を睨む。
「……見たな」
「見た」
「忘れろ」
「無理」
即答すると、シルフィが言葉に詰まった。
その隙を縫うように、玲奈様がさらっと口を挟む。
「忘れなくていいよ。白森さん、髪がきれいだから。触りたくなる」
シルフィが固まる。
「さ、触りたく……?」
「うん。だめ?」
玲奈様は“だめ?”を本当に無邪気に言う。
シルフィは抵抗の仕方が分からない顔をして、目を泳がせた。
「だ、だめでは……ありませんが……! 聖女様がそのような、軽率な……!」
「軽率じゃないよ。ちゃんと許可取ったでしょう?」
取った、というより、取らされた。
シルフィは口を開けて閉じて、最後に小さく唸った。
「……貴女は、ずるい」
「褒め言葉として受け取っておくね」
昨日と同じ台詞を、玲奈様は笑って言った。
それから、ふっと真面目な目になる。
「白森さん。今日、放課後、時間ある?」
「……放課後は任務が」
「任務、ないでしょう?」
玲奈様は僕の方を一瞬だけ見た。
逃げるな、という圧がそこにあった。
僕はすっと視線を逸らした。巻き込まれたくない。
シルフィは背筋を正して言う。
「……ありません。任務は、ありません」
「よかった」
玲奈様は嬉しそうに頷く。
「じゃあ、デートしよ」
廊下の空気が止まった。
シルフィが、聞き間違いを疑う顔で玲奈様を見る。
「……で、でーと?」
「うん。二人で。街の方に出てみたいの」
玲奈様の声は軽いのに、言葉の破壊力が重い。
シルフィの耳が一気に熱を帯びた。
「二人、で……?」
「だめ?」
また“だめ?”だ。
シルフィは、だめと言えない。
聖女様だから、じゃない。
玲奈様が“嫌がってない方のだめ?”を、分かって言っているからだ。
「……だめでは、ありません……」
「よし、決まり」
玲奈様は満足そうに笑って、僕へ向き直った。
「鈴木くん」
「はい」
「今日は白森さん、お借ります」
お借ります、という言い方が、妙に所有っぽく聞こえた。
シルフィが反射で僕を見る。
その目が、ほんの少しだけ、助けを求めている。
僕は言ってやりたい。
助けてほしいのは、こっちだ。
「……了解です」
「ふふ。いい子」
玲奈様はそう言って、シルフィの手首を軽く取った。
手を繋ぐのではなく、手首。
逃げられない掴み方だ。
シルフィの喉が小さく鳴る。
「……玲奈様、これは……」
「迷子になったら困るでしょう?」
玲奈様は当然みたいに言う。
シルフィは反論を探して、見つけられなかった。
***
放課後。
特別棟の玄関で、僕は見送る側に立たされていた。
玲奈様は制服の上にコートを羽織り、マフラーを巻いている。
シルフィはなぜか、いつもより髪が整っている。ピン留めも、きっちり耳のラインに沿っていた。
そして、落ち着きがない。
「……ハルト」
「なに」
「私は……聖女様の護衛として同行するだけだ」
「デートって言ってたけど」
「言葉の綾だ!」
綾で済む威力じゃない。
玲奈様が、僕らの会話に笑って割って入る。
「心配しないで。手は繋がないから」
シルフィが露骨にほっとした。
次の瞬間、玲奈様が付け足す。
「今日は腕、貸して」
シルフィの顔が終わった。
「う、腕……?」
「うん。人混み、苦手だから。白森さんがいると安心する」
安心する。
それは、シルフィが一番弱い言葉だ。
シルフィは武装解除されたみたいに、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。私の腕でよければ……」
「よかった」
玲奈様は自然な動作で、シルフィの腕に自分の腕を絡めた。
シルフィの身体が一瞬だけ硬直して、それから観念したように力を抜く。
その横顔が、悔しそうで、少しだけ嬉しそうだった。
僕は何とも言えない気持ちで、玄関の柱にもたれた。
「行ってきます、鈴木くん」
「……行ってらっしゃいませ」
僕がそう言うと、玲奈様は小さく首を傾げて笑う。
「鈴木くんも、いい子にしててね」
いい子、の意味が怖い。
玲奈様はそのまま、シルフィを連れて歩き出した。
夕暮れの校門へ向かう二人は、並んでいるだけなのに、どこか絵になった。
シルフィは最後に一度だけ振り返った。
僕を見る。
何か言いたそうで、言えない顔。
僕は口を動かして、音にしないまま伝えた。
――死ぬなよ。
シルフィは、分かったような分からないような顔で、すぐ前を向いた。
その耳が、また赤い。
校門の外へ消える直前。
玲奈様が、シルフィの耳元に何か囁いた。
シルフィが、ぎくりと肩を揺らす。
そして、聞こえないはずの距離なのに。
玲奈様の声だけが、なぜかはっきりと届いた。
「ねえ。白森さんの“好き”って、誰に向けるの?」
僕の背中に、冷たいものが走った。




