第17話 冷たい顔のまま、指先だけが嘘をつく
部屋に戻って、僕はしばらくベッドに腰掛けたまま動けなかった。
暖房は効いている。マグカップから湯気も上がっている。
それなのに、右手だけが、まだ外気に触れているみたいに熱い。
「……手って、こんなに記憶力あったっけ」
自分で言って、馬鹿みたいだと思う。
でも、笑えない。
眠ろうとして目を閉じても、昨日のイルミネーションの光と、シルフィの「必要、なくはなかった……」が、勝手に再生される。
僕はため息をついて、スマホの画面を点けた。
通知はない。シルフィからも、もちろんない。
「……まあ、あいつが送ってくるわけないか」
送ってきたら送ってきたで、僕が死ぬ。
そんなことを考えている時点で、もう手遅れだと思う。
翌朝。
教室に入った瞬間、僕は分かった。
今日のシルフィは、“冷たい”モードだ。
背筋は伸び、顎は少し上がり、視線は僕の額のあたりを貫いてくる。
つまり、目を合わせない。
「……おい、従者」
「おはよう」
「挨拶を私語にするな。業務連絡だけでいい」
「業務って何だよ」
シルフィは僕の机の横に立ち、ノートを置くみたいな雑さで一枚のメモを置いた。
『本日:放課後の任務なし。各自解散』
「……解散?」
「そうだ。昨日の件は解決した。よって任務は終了した」
「へぇ」
「異論は認めん」
言い切った瞬間、シルフィの耳がほんの少し赤くなった。
嘘が下手すぎる。
「分かった。じゃあ今日、僕は普通に帰る」
「帰れ」
「うん。帰る」
僕はわざと、さらっと言った。
するとシルフィは一瞬だけ、肩がびくっと跳ねた。
それから、怒った顔を作る。
「……貴様は、本当に鈍い」
「鈍い鈍い言うけどさ。鈍い方が生きやすいよ」
「生きやすくなどない!」
声が大きい。周りの視線が集まる。
シルフィはハッとして口を閉じた。
僕は咳払いして、わざと話題を変える。
「昨日の手袋、玲奈様にちゃんとお礼言った?」
「……言った」
「そっか」
「……何だ、その顔は」
「別に」
別に、じゃない。
“冷たい”を装ってるのに、反応が全部、温かい。
昼休み。廊下の自販機前。
僕が飲み物を買っていると、後ろから足音がした。
振り返るとシルフィ――ではなく、天道玲奈だった。
「鈴木くん、少しだけいい?」
「はい」
玲奈は笑顔のまま、声を落とす。
「白森さん、今日ちょっと不機嫌でしょう」
「……バレてます?」
「うん。あれはね、“戻ろうとしてる”顔」
玲奈の言葉に、僕の喉が詰まった。
「戻る、って……」
「いつもの距離に。いつもの言い方に。いつもの安全な位置に」
玲奈は優しいのに、刺すところだけ正確だ。
「鈴木くん。昨日のこと、白森さんに“なかったこと”にさせないで」
「……僕が?」
玲奈は小さく頷く。
「あなた、優しいから。相手が逃げたら、追わないでしょう」
「……」
「でもね。白森さん、逃げてるようで……本当は追ってほしいタイプよ」
あまりに的確で、僕は笑って誤魔化すこともできなかった。
「……天道さん、怖いです」
「ふふ。褒め言葉として受け取っておくね」
玲奈はそう言って、去り際にさらっと爆弾を置く。
「放課後、特別棟でお茶会なの。二人とも来てね」
「……二人とも、ですか」
「うん。二人とも」
拒否権はない、という笑顔だった。
放課後。
シルフィは「任務はない」と言い切ったくせに、特別棟へ向かう道で僕の半歩前を歩いていた。
そして時々、僕がついてきているか確認するみたいに振り返る。
「……来るなと言っていない」
「言ってないね」
「貴様は言葉尻を取るな」
「じゃあ、取られない言い方してよ」
シルフィはむっとして、歩く速度を上げた。
でも、廊下の角で人とすれ違うときだけ、僕の袖を掴んだ。
ほんの一瞬。
掴んだ自覚があるのか、すぐ離す。
「……今、掴んだ」
「掴んでない」
「掴んだ」
「……黙れ」
僕は小さく笑ってしまった。
その笑い声に、シルフィの耳が赤くなる。
どうしようもない。
特別棟のサロン。
昨日と同じソファ、同じテーブル。
玲奈が淹れた紅茶の香りが、やけに甘く感じる。
「いらっしゃい。座って」
玲奈は僕とシルフィを向かいの席に座らせた。
逃げ道なしの配置。
テーブルの真ん中には、小さな皿が二つ。
片方にはクッキー。片方には、――細いリボンで結ばれた小袋。
玲奈は小袋をシルフィの方へ滑らせる。
「白森さん。これ、昨日のお礼。っていうより……“あなたに必要そう”だったから」
「……必要?」
シルフィが警戒しながら小袋を開ける。
中に入っていたのは、小さなピン留め――銀色の、耳の形に沿うようなデザイン。
「耳飾り……?」
「耳を隠す用じゃなくて、整える用。冬は風で髪が乱れるでしょう」
「わ、私は乱れてなど……」
「乱れてるわよ」
玲奈が笑顔で即答する。
シルフィは黙り込んだ。悔しそうに。
「……ありがとうございます、玲奈様」
玲奈は満足そうに頷いて、今度は僕に目を向けた。
「鈴木くんには、これ」
「僕にも?」
玲奈が差し出したのは、薄手の手袋――新品の、ペア。
「昨日、片方だけで寒かったでしょう」
「……」
昨日の光景を、完全に把握している。
僕が言葉を失っていると、玲奈はさらっと言う。
「これなら、もう“片方貸す”という言い訳はいらないね」
シルフィが紅茶を吹きかけそうな勢いで咳き込んだ。
「れ、玲奈様! 言い訳ではなく! 合理的判断で……!」
「うん。合理的合理的」
玲奈は笑いながら、視線だけで僕らを刺してくる。
逃がさない。
お茶会が終わり、サロンを出た廊下で。
シルフィは耳飾りの小袋を胸に抱いたまま、僕の前に立ち塞がった。
「ハルト」
「なに」
「……あの方は、分かっている」
「うん」
「……貴様も、分かっているのだろう」
僕は息を吸った。
正直、分からないふりを続ける方が楽だった。
「……分かってるよ。昨日のこと、なかったことにできない」
「……そうか」
シルフィの目が揺れた。
「なら、貴様は……どうする」
「どうするって」
「このまま、私が“冷たい”顔に戻るのを、許すのか」
許すのか。
その言葉に、僕の胸がきゅっとなる。
シルフィは命令口調じゃない。
ただ、怖がってる。
僕は、昨日の自分の手の熱を思い出す。
「……許さない」
言った瞬間、シルフィの呼吸が止まった。
「……何?」
「冷たいの、無理してるだろ。僕にだけは、無理すんな」
「……貴様は、何を言って……」
シルフィは強がろうとして、失敗した。
視線が落ちる。耳が赤くなる。
僕はそっと手を差し出した。
今度は、言い訳抜きで。
「……繋ぐ?」
「……っ」
シルフィの指先が、迷って空を彷徨った。
そして、手袋越しに僕の手を掴む。
「……一つだけ言っておく」
「うん」
「これは任務ではない」
「うん」
「作戦でもない」
「うん」
「……貴様が、そうしろと言ったからだ」
責任を押し付ける言い方なのに、声が小さくて震えていた。
僕の心臓が、またうるさくなる。
その瞬間――廊下の奥から、聞き覚えのある足音。
「……あら」
玲奈の声。
振り返る前に、僕は確信した。
今のは、見られた。
玲奈は曲がり角から顔を出し、僕らの繋いだ手を見て、にこりと笑った。
「……仲直り、早いね」
「ち、違っ……!」
シルフィが手を離そうとする。
でも、離せない。指先が絡まっている。
玲奈は優しく、でも確実に追い詰める一言を落とした。
「白森さん。“大事にする”って、言葉じゃなくてもできるのよ」
シルフィが固まる。
玲奈はそれだけ言って立ち去った。
廊下に残ったのは、僕らの沈黙と、繋いだ手の熱。
シルフィが、小さく呟いた。
「……言葉ではなくても、か」
それは、昨日までのシルフィじゃない声だった。
逃げる声じゃなく、決める声。
僕は握った手に、少しだけ力を込めた。
シルフィも、逃げなかった。




