第14話 近すぎる吐息と、触れてはいけない耳
生徒会室の扉が閉まったあとも、廊下の空気は妙に熱を残していた。
玲奈が最後に言った「楽しみにしてる」の余韻と、シルフィの「貴様が隣にいてよかった」が、頭の中で変なタイミングで再生される。
「……帰るぞ、ハルト」
「う、うん」
シルフィはいつも通り偉そうに歩き出した。
歩き出したのに、さっきから視線が落ち着かない。僕の靴先を見たり、窓の外を見たり、急に天井を見上げたりする。
分かりやすい。
でも僕も、分かりやすく動揺している自覚があった。
校門を出ると、空気が一気に冬になった。
吐く息が白く、街路樹の枝は薄く凍っている。
「寒いな」
「……寒いなどと言うな。弱いと思われる」
「誰にだよ」
「……貴様に、だ」
聞き返す前に、シルフィはマフラーをぐいっと上げて口元を隠した。
耳の先だけが赤い。
「この世界は冷える。森はもっと優しかった」
「じゃあ、手袋しろよ。前にあげただろ」
「……あれは、装備している」
シルフィは言いながら、ポケットからもこもこの手袋を取り出した。
でもなぜか、片方だけ。
「……片方、どこやった?」
「なくしてない! 置いてきただけだ!」
「置いてきた場所、つまりどこ?」
「……わからん」
僕は笑いそうになって、こらえた。
可愛い、と思ってしまった自分に腹が立つ。
「貸せ。探す」
「い、いい! そんな些末なこと……」
「些末じゃない。手、冷えてるだろ」
僕がそう言うと、シルフィは小さく「うるさい」と言って、歩く速度を上げた。
駅前の広場はクリスマスのイルミネーションで眩しかった。
カップルが多い。やたら多い。世界の人口の半分くらいが恋人同士に見える。
「……なあ、シルフィ」
「なんだ」
「ちょっと待て。……人、多すぎる」
言い終える前に、後ろから来た誰かに僕は肩をぶつけられた。
よろけた勢いで、シルフィの腕に触れる。
——その瞬間。
シルフィが、反射みたいに僕の腕を掴んだ。
「危ないだろ」
「……今、君が急に掴むから」
「掴まないと、貴様が転ぶ」
正論。正論なのに、掴んだ場所がまずい。
僕の手首を握る指が、手袋越しじゃない。生の指だ。冷たいはずなのに、触れたところだけ熱い。
「……手、冷たい」
「だから寒いと言うなと言っただろうが」
「寒いのは事実だろ」
シルフィはむっとした顔をした。
そのまま僕の手首を離そうとして、離せずにいる。掴んだまま、言い訳を探している。
「人混みで逸れるのは不味い。作戦上、接触が必要だ」
「作戦って……家に帰るだけだろ」
「帰還作戦だ」
「なんでも作戦にするなよ」
軽口を叩いても、心臓の音は落ち着かない。
触れられている。
彼女の方も、気づいているのにやめない。
それが一番、ずるかった。
イルミネーションの下で、突然シルフィが立ち止まった。
前を歩いていた人の流れが一瞬止まり、僕とシルフィの距離が、ぎゅっと詰まる。
「っ……」
僕の胸に、シルフィの頭が軽く当たった。
マフラー越しに、彼女の髪の匂いがした。森みたいな、冷たいのに落ち着く匂い。
「……ごめん」
「謝るな。貴様が悪いわけではない」
シルフィはそう言ったのに、顔を上げない。
上げたら、僕と目が合うのを分かっているから。
僕も目を逸らした。
逸らした先で、イルミネーションが白く滲んだ。
「……ハルト」
「ん?」
「さっき……玲奈様が、貴様のことを『いつも見てる』と言ったな」
「……言ってたな」
「……あの方は、見る目がある」
唐突に褒められて、僕は言葉を失った。
「だから、その……」
シルフィは小さく息を吸って、続ける。
「見ていろ。私は、もっと上手くやる」
「上手くって、何を?」
「……わからん。だが、わからんままにしておくのは嫌だ」
その言い方が、少しだけ弱くて。
いつもの尊大な仮面が、隙間から覗いた気がした。
僕は、気づいたら言っていた。
「……シルフィ」
「なんだ」
「無理すんな。分からないなら、分かるまで一緒に考えればいいだろ」
言った瞬間、しまったと思った。
甘すぎる。優しすぎる。勘違いされる。
でもシルフィは、勘違いしなかった。
勘違いする代わりに——
僕の手首を掴んでいた手を、少しだけ上にずらして、指を絡めてきた。
「……それは、貴様が言ったのだぞ」
「え?」
「一緒に、考えると」
絡まった指先が、少し震えている。
シルフィの耳が、マフラーの上で赤い。
「……手、冷たいんじゃなかったのか」
「冷たい。だが、貴様は……温い」
温い、という言い方が反則だった。
僕は変な声が出そうになって、喉の奥で飲み込んだ。
周りの喧騒が遠くなる。
イルミネーションの光だけが、僕らの間で瞬いている。
そのとき、強い風が吹いた。
シルフィのヘッドホンが少しずれて、銀髪が跳ね、——隠していた耳が、半分だけ覗く。
僕は反射的に、空いた手を伸ばした。
「シルフィ、耳——」
言い終える前に、シルフィが固まった。
僕の指先は、あと数センチで、尖った耳に触れてしまう距離。
「……触るな」
「ご、ごめん。つい」
「……触られたら、困る」
困る、という言葉が、妙に柔らかい。
「……なんで?」
「……貴様に触られたら、変になる」
シルフィは、そう言ってから自分で気づいたのか、顔を真っ赤にした。
「い、今のは違う! 貴様の指先が冷たくてだな! 耳は敏感で——」
「待て待て、情報が多い」
僕は笑いそうになって、必死にこらえた。
でも、胸は笑ってなかった。心臓がうるさい。
シルフィは悔しそうに唇を噛み、僕の手をぎゅっと握り直す。
「……今日だけだ」
「何が」
「……手を繋ぐのは」
その言い方は、まるで「また明日も繋ぐ」と言っているのと同じ様に聞こえた。
家の近くまで来た頃には、僕の指先はすっかり温かくなっていた。
いや、温かくされた、が正しい。
「じゃ、じゃあ……ここで」
僕が言うと、シルフィは頷いた。
でも、手を離さない。
「……シルフィ?」
「……最後に確認だ」
「何を」
「今日の件は、玲奈様への作戦に関係ない。……つまり、これは——」
そこでシルフィは言葉を詰まらせ、耳まで赤くしてそっぽを向いた。
「……ただの、帰還作戦だ」
「帰還作戦、長すぎだろ」
「うるさい!」
シルフィは勢いよく手を離し、くるりと背を向けた。
そして二歩だけ進んで、振り返らずに言う。
「……明日、手袋を探す。付き合え」
「はいはい」
「……絶対だぞ」
「分かったよ」
シルフィは満足したのか、小さく頷いて去っていった。
残された僕は、握っていた手の感触が消えないまま、しばらく動けなかった。
——聖女を愛でたいはずのエルフに、手を繋がれてドキドキしている僕は、
どこで道を間違えたんだろう。




