第12話 焦げたクッキーと、甘くない指先
「――邪魔しないでちょうだい。これは、わたくし一人で成し遂げなければならない聖戦なのよ」
休日の昼下がり。学園の第二調理実習室に、凛とした、しかしどこか切羽詰まった声が響き渡った。
声の主は、銀髪の美少女エルフ・シルフィ。
普段は制服を完璧に着こなす彼女だが、今はフリル付きのエプロンを身につけ、小麦粉まみれになりながらオーブンの前で仁王立ちしている。
その光景は、絵画のように美しい。……手元のボウルの中身が、ドス黒い粘土状の物体でなければ、だが。
「いや、聖戦って……ただのクッキー作りだろ? 手伝うよ。見てて危なっかしいし」
心配して手を伸ばすと、シルフィはピシャリとその手を払いのけた。
「気安く触らないで! これは聖女様への愛の結晶……不純物が混ざっては台無しになってしまうわ」
「僕は不純物扱いかよ」
「ええそうよ。貴方はそこで指をくわえて見ていなさい。……あ、やっぱり見ないで。視線が背中に刺さって気が散るから」
シルフィはツンと顔を背け、再びボウルの中の生地(?)と格闘し始めた。
事の発端は昨日、聖女様がポツリと「最近、素朴な焼き菓子が恋しいです」と漏らしたことだ。それを聞き逃さなかったシルフィは、早朝から僕を叩き起こし、食材の買い出しに付き合わせ、こうして実習室を占拠しているわけである。
健気だ。それは認める。
だが、問題が一つだけあった。
高貴なる森のエルフ族は、狩りと魔法には長けているが、繊細な火加減を要する「料理」という概念が壊滅的に欠落しているのだ。
「……シルフィ、それ砂糖じゃなくて塩だぞ」
「なっ!? う、嘘をおっしゃい! 白くてサラサラしているのだから砂糖に決まって……しょっぱっ!?」
味見をしたシルフィが、優雅な顔をくしゃくしゃに歪める。
「ほら、貸してごらん。僕が計量し直すから」
「いらないと言っているでしょう! これはわたくしの愛なの! 貴方の無駄に高い世話焼きスキルなんて求めてないわ!」
「無駄に高いってなんだよ。生活力と言ってくれ」
彼女は頑なに僕の介入を拒む。
『世話焼きたい僕には冷たい』。まさにタイトルの通りだ。
僕はため息をつきつつ、少し離れたパイプ椅子に座り直した。手を出せば怒られるし、出さなければ失敗する。このジレンマこそが、彼女の従者(仮)である僕の日常だった。
ガシャン、というボウルがぶつかる音。
「ああっ、もう!」という苛立ちの声。
それらをBGMに、僕は文庫本を広げるフリをして、エプロンの紐がねじれている彼女の背中を見守り続けた。
――それから一時間後。
「ようやく……ようやく生地が完成したわ……!」
シルフィが額の汗を拭いながら、勝利宣言をした。
天板の上には、歪な形をした塊が並んでいる。象形文字のようにも見えるが、本人はウサギやクマを作ったつもりらしい。
「あとは焼くだけね。聖女様、待っていてくださいませ……!」
彼女は予熱したオーブンを開け、天板を滑り込ませようとした。
その時だった。
「あつっ!?」
短い悲鳴と共に、天板がガタンと音を立てて傾く。
オーブンの縁に指先が触れたのだ。
「シルフィ!」
僕は反射的に椅子を蹴り倒し、彼女のもとへ駆け寄った。
さっきまでの「手出し無用」という命令など、頭から吹き飛んでいた。
「言わんこっちゃない! どこだ、見せてみろ」
「だ、大丈夫よ、これくらい……ちょっと触れただけで……」
「赤くなってるじゃないか。すぐに冷やさないと」
今度は拒否させなかった。
強引に彼女の細い手首を掴み、シンクへと引っ張っていく。蛇口を捻り、流れる冷水にその白い指先をさらした。
冷たさに驚いたのか、シルフィの華奢な肩がビクリと跳ねる。
「……うう、子供扱いしないでよ」
「子供みたいなミスをするからだろ。ほら、じっとしてて」
流水で十分に冷やした後、僕はポケットから清潔なハンカチを取り出し、丁寧に水気を拭き取った。
シルフィの指は、折れそうなくらい細く、そして驚くほど柔らかい。こんな手で、よくあの硬い魔獣を弓で射抜けるものだと感心してしまう。
僕が真剣な顔で患部を確認している間、シルフィは唇を尖らせて不満げな顔をしていた。
けれど、決してその手を振りほどこうとはしない。
文句は言うけれど、僕の手当てを大人しく受け入れている。こういう所が、ズルいのだ。
「……貴方って、本当に過保護よね。ただの協力者のくせに」
「協力者が怪我で倒れたら困るからな。それに、僕は世話を焼くのが好きなんだよ。性分だ」
「物好きなこと。……ふん」
シルフィはふいっと顔を背けたが、その尖った耳先がほんのりと赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
「よし、火傷は軽そうだ。……で、クッキーはどうする? この指じゃ細かい作業は無理だぞ」
「う……でも、今日中に渡したいし……」
悔しそうに俯くシルフィ。
僕は腕まくりをして、散らかった調理台の前に立った。
「僕がやるよ。成形と焼き加減の管理だけな。味付けはお前がやったんだから、これは『シルフィの手作り』で通るだろ」
「……屁理屈ね」
「いいから。ほら、そこのボウル取って」
結局、怪我をした彼女に代わって、僕が残りの作業を引き継ぐことになった。
手慣れた手つきで生地を整え、オーブンの温度を調整する。
シルフィは隣で、僕の作業をじっと見つめていた。時折、「そこ、もう少し可愛くしなさいよ」とか「耳の角度が違うわ」などと口を出してくるが、その声には先ほどまでの刺々しさはなかった。
やがて、実習室に甘く香ばしい匂いが漂い始める。
チーン、という軽快な音が鳴り響いた。
「できたぞ」
取り出した天板の上には、綺麗なきつね色に焼き上がったクッキーたちが並んでいる。
僕が修正した後半分は、売り物のように完璧な仕上がりだ。
しかし――シルフィが一人で強行し、最初に突っ込んだ前半部分は、無惨にも黒焦げの炭と化していた。
「ふふん、後半の出来はまあまあね。これなら聖女様も喜んでくださるはずよ」
シルフィは満足げに頷き、綺麗な方のクッキーだけを選別して、持参したラッピング袋に詰め始めた。
残されたのは、僕の目の前にある黒い物体Xの山だけだ。
「……なぁ、この黒いのはどうするんだ? 捨てるか?」
「なっ、食べ物を粗末にするなんて野蛮人のすることよ! エルフの森では、命への感謝を忘れてはいけないの」
シルフィは心外だと言わんばかりに憤慨し、そして少しだけ視線を泳がせてから、その黒い塊を僕の前に突き出した。
「……あげるわ」
「は?」
「失敗作の処分……じゃなくて、その、手伝ってくれた駄賃よ。特別にわたくしの手作りを食べさせてあげる。光栄に思いなさい」
「いや、これ完全に炭……」
「食べるの? 食べないの? どっち!?」
潤んだ瞳で睨まれて、断れる男がいるだろうか。いや、いない。
ここで断れば、彼女のプライドは傷つき、僕はまた「冷たい態度」の集中砲火を浴びることになるだろう。
僕は覚悟を決めて、黒焦げのクッキーを一つ摘み上げ、口に放り込んだ。
ガリッ。
苦い。硬い。まるで石炭を齧っているようだ。
口の中の水分が一気に奪われていく。
けれど、必死に噛み締めていると、奥の方から不器用な甘さがじんわりと広がった。
分量を間違えた砂糖の甘さと、彼女が一人で頑張った時間の味がした。
「……どう?」
ラッピングの手を止めて、不安そうに上目遣いで見てくるシルフィ。
僕は苦笑して、肩をすくめた。
「うん、悪くない。コーヒーには合うかもな」
「そ、そう! なら良かったわ。……次はもっと上手く焼けるように、また手伝わせてあげてもよくてよ」
「はいはい。気が向いたらな」
そう言って彼女は、聖女様用のクッキーを抱え、嬉しそうに実習室を出て行った。
僕には冷たいし、態度はデカい。
おまけに、僕の口の中は焦げの苦味でいっぱいだ。
それでも、去り際に彼女が小さく呟いた「ありがと」という言葉だけで、僕の世話焼き心は満たされてしまう。
これだから、このポンコツエルフの世話係はやめられないのだ。
僕は残りの黒焦げクッキーを全てハンカチに包むと、苦笑いを浮かべながら彼女の後を追いかけた。




