第4話 幽霊(前編)
ザイルは口をぽかんと開けたまま、言葉を失っていた。
神託を授かるために泉の神殿を訪れ、帰ってきたら“人ではなくなっていた”などという話は、これまで一度たりとも聞いたことがない。
本来なら力に目覚めたヒナタを探索班に誘い、できれば自分のパーティに加えて一緒に活動できないかと考えていた。だが、その本人が――今やまるで幽霊のような姿になって戻ってきたのだ。
ヒナタと神との会話は、ザイルには一切聞こえていなかった。距離が離れていたこともあるが、何より神の声は祈る者の頭の中に直接響くため、周囲の者には認識できないのである。
ヒナタの返答らしき声がかすかに耳に届いた気はしたが、ザイルにそれを止める術はなかった。
「お、おい……ヒナタ……お前、なんなんだよ、それ……」
ザイルはおそるおそる問いかけた。
幸い、ここは神聖な泉の神殿。地下都市の人々はめったに足を踏み入れない場所であり、騒ぎになる心配はなかった。
「……うん、ヒナタだよ。中身はまったく変わってない。だから安心して」
ヒナタは穏やかに答えたが、その姿はどう見ても“人”ではなかった。
現代地球の言葉を借りるなら、まさしく“ゴースト”と表現するのが近いだろう。
ザイルの感覚では「魔物」と言われた方がまだ理解しやすい。
もちろん、この世界にも幽霊のような存在は噂として語られてきた。真偽の定かでない目撃談は数多くあるが、確かな証拠は一切なく、半ば迷信扱いだった。
だが今、目の前にいるヒナタは、確かに存在し、喋り、意思を持っている。
魔物であれ幽霊であれ――それが「実在する」と初めて認識された瞬間だった。
実体を持たない存在など、これまでは神くらいのものだと思われていたのに。
「か、神に……神様に、なったのか?」
ザイルの震える声に、ヒナタは無言で応じた。
表情というものは持ちえない幽霊の姿だが、それでも二つの白く光る目と、ぽっかりと開いた口が、驚いたような印象をかすかに伝えていた。
ポカンとした表情――そう言っても差し支えないだろう。
「いや、神様にはなってないよ。俺は……魔物になったんだ。これからは、魔物として生きていくことにした」
ザイルの顔がみるみるうちに青ざめていく。
その目には混乱と不安、そして涙の気配がにじんでいたが、ヒナタはそれには触れず、淡々と語り続ける。
「この世界では瘴気のせいで、人類が地上を捨てざるを得なかったんだろ? だから俺は、瘴気に耐えられる魔物になって、地上を探索する役目を引き受けようと思ったんだ」
言いながら、ヒナタは小さく肩をすくめる――もちろん、本当に肩が上がったわけではないが、そんな雰囲気だった。
「……進化なのか退化なのか、正直わかんないけどね」
苦笑するような声音で、そっと言葉を締めくくった。
「でも……そんな姿じゃ、もう地下都市には住めないだろ! お前、一人で、孤独に生きていくつもりなのかっ――」
叫ぼうとしたその瞬間、ザイルは言葉を飲み込み、強く下唇を噛んだ。
そんなことは、ヒナタ自身が一番わかっている。わかっていて、なお選んだ道だ。
地上の探索は、今もほとんど進んでいない。
このカルネア王国以外の国家は発見されておらず、周囲にあるのは交流のある二つの小都市のみ。それらは国と呼ぶには程遠い、小規模な集落にすぎない。
つまり、ザイルの知る限り、この世界の大半は、いまだ未知に包まれたままなのだ。
そんな未踏の地へ、ヒナタは魔物となることで足を踏み入れようとしている。
その決断は、人類にとってかつてない希望となり得る。もし感情を捨てて功利だけを語るならば、ヒナタの選択は偉大な一歩だ。
だが――
ザイルは、その偉大さをただ称えることができなかった。
割り切れなかった。冷たくなりきれなかった。
ヒナタを、一人で行かせるなど、そんな簡単な気持ちでできることではなかったのだ。
「と、とにかく……傭兵ギルドへ行こう! 一緒に相談しよう! ……なっ!」
声が震えていた。
ザイルの中には、事態の異常さを重く見たギルドマスターが、何らかの助け舟を出してくれるのではという淡い期待があった。だが、それは打算であり、焦りでもあった。
そんな彼の申し出に対し、ヒナタは首を振るように、浮遊する身体をゆっくり左右に揺らして応えた。
「ありがとう、ザイル。でも……今はやめておくよ。ある程度、探索を進めてから戻ってくる。」
穏やかな口調だったが、その声には微かな寂しさが滲んでいた。
ヒナタはふと、視線を上へ向ける。見えない空を仰ぐように。
地下都市の第一層――そこで聞いた話を思い出す。
この世界の地上は瘴気に覆われ、人々はそれを避けて地下に逃げ込んだ。限られた資源の中で、必死に命を繋いでいる。
その現実を知った今、ヒナタにははっきりと分かっていた。
――この地下では、誰もが平等に幸せを得られるわけではないのだ。
ヒナタにとってザイルだけは信じられる。だが――他の人間たちはどうだろうか。
魔物の姿で現れた自分を、果たして理解してくれる者がいるだろうか。
いや、それ以前に。恐れられ、拒絶され、そして排除されるだけかもしれない。
それは、当然の反応だ。彼らが悪いわけではない。
だから、今はこれでいい。
――まだ、人の世界には戻れない。
「そうか。分かったよ。たぶん、お前の考えてることも――だいたい察しがつく。」
「うん。ありがとう……。まあ、また戻ってくるつもりだからさ。その時は俺を討伐対象にしないでくれよ?」
「バカ言うな!ヒナタを見間違えるわけがないだろ!」
ザイルはそう言って、迷いなく右手を差し出した。
手首まで覆った薄手のグローブ越しに、温もりを分けようとするかのように。
ヒナタは力強く右手の甲で弾こうとする――が、
すり抜けた。
「「……はははははっ!!」」
目が合った瞬間、吹き出すように笑い合う二人。
たとえ触れられなくても、そこに確かに絆はあった。
最後に「じゃあね」と短く言い残して、ヒナタは静かに微笑んだ。
そのまま音もなく宙を舞い、第三層の天井へと昇っていく。
岩盤に触れることなく、その身体はすうっと霧のように溶けるようにして、姿を消した。
ぽつんと残されたザイルは、しばらくの間、ヒナタが消えていった天井を見上げていた。
その顔には寂しさと、どこか誇らしさの混ざったような、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……行っちまったな。」
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ヒナタは上へ、さらに上へとすさまじい速度で上昇し、誰にも見つかることなく第二層を通過して、第一層へとたどり着いた。
第一層にも、数こそ少ないが、宙に浮かぶ照明球が周囲を柔らかく照らしており、真っ暗というわけではなかった。
その照明がどのような原理で光を放っているのかは分からなかったが、設置されている数から見て、それほど高価なものではないのだろう。 そもそも洞窟内では火の使用は制限されるため、こうした光源の存在は不可欠だ。
第一層全体を照らすだけの照明が備わっているなら、生活に支障はなさそうだ。 心配していた瘴気も、まったく感じられない。 地上に近づくにつれ、第一層は瘴気に満ちているのではと懸念していたが、どうやらそれも杞憂だったようだ。
もしかすると、(地上とどこかで大きな穴で繋がっているのかも?)とも一瞬考えたが、今のところ大きな問題はなさそうだった。
実は、第三層にある傭兵ギルドには、地上とを繋ぐワープゲートが設置されている。 探索班たちはそのゲートを通じて地上に出ており、帰還の際も同様に、地上に設けられたワープゲートから戻ってくる。
さらに、各階層には地上まで続く空気穴が複数存在している。
魔物や動物が入り込まないよう細工されており、層ごとに空気口が何本も通じていることで、新鮮な酸素が常に供給されているのだ。
ちなみに瘴気は地表から発生しているものであり、空気中では特別に重いわけでもない為、地下へと深く入り込むことはほとんどない。 もちろん、こうした事情をヒナタが理解するのは、もう少し後のことである。
ただ、この時点のヒナタにとっては、(実際に地下に人が住んでいて問題がないのだから、まあ何とかなっているのだろう)程度の認識だった。
その後、ヒナタは第一層の天井を抜けるため、さらに上昇を続けた。 他の層と比べて明らかに厚みを増した岩盤の天井を、精神体となった身体で突き抜けると———そこには、地上の風景が広がっていた。
空を見上げると、時刻は夕方か、あるいは早朝か。 ふたつ並んだ、縦に数字の「8」を描いたような形の太陽が、地平線の近くで淡く光を放っていた。 それが沈もうとしているのか、それともこれから昇るのかは、しばらく様子を見ればわかることだろう。
辺りには何もなかった。 広がっているのは、草も木もない平坦な大地。大小の岩がところどころに転がってはいるが、人工物の痕跡は一切見当たらない。
反対側を向けば、遠くに森が見えた。おそらくあの森でザイルと出会ったのであろう。
地上に出たばかりのヒナタは、まず周囲の空気に瘴気の気配がないか、慎重に確認した。 わずかに瘴気は混じっているようだったが、身体に害を及ぼすほどではなく、ほとんど気にならない程度だった。
おそらくこの地域では、ギルドによる瘴気拡散防止の対策班が、定期的に活動しているのだろう。 あるいは、瘴気は地上全体に均等に発生しているわけではなく、特定の場所で生まれたものが、風に乗って流れてきているだけなのかもしれない。
(まあ、そのあたりはこれから少しずつ調べていけばいいか。今はまず、この身体が地上の瘴気にどこまで耐えられるのか、確認しないとな)
そう考えたヒナタは、身体を捻って軽く助走つけ、視界の先に広がる森へ向かって飛び出していった。
森にたどり着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。どうやら夜になったようだ。 夜になると、魔物が活発になる……というのはよくある話だが、この世界でも同じなのだろうか。もし襲われたらどうしよう。
ヒナタは不安になった。なにせ、自分は生まれたばかりの子供の魔物なのだ。しかも、戦闘用のスキルなど一つも持っていない。無闇に森の奥に入っていくのは危険すぎる。
慎重を期して、森の手前で立ち止まり、まずは目的である「瘴気への耐性」の確認だけを行うことにした。
しばらく様子を見た結果、瘴気による悪影響はまったく見られなかった。むしろ、ステータスを確認してみると、経験値が一秒ごとに少しずつ増えていることに気づく。
一秒につき1ポイント。これがどれほどの意味を持つのかはまだわからないが、悪いことではなさそうだ。経験値は多くて困るものではないだろうし、それが自動的に蓄積されていくのなら、むしろ歓迎すべき現象だった。
次にヒナタは、試しに空高く舞い上がってみることにした。 地上からおよそ300メートルの高さまで上昇しても、寒さを感じることはなく、風による揺れも感じられない。音の反響や木々のざわめきから風が吹いているのは分かるが、自分の身体にはそれがまったく影響しないのだ。
「……なんだか、この身体、意外とすごいかも」
ヒナタはそう呟きながら、自分の今の状態について改めて考える。
物理的な干渉を受けず、風さえもすり抜けていく。まるで幽霊のような存在。というより幽霊そのものなのだが、その軽やかさと自由さには確かな魅力があった。
物理攻撃が通じない身体になった今、魔物相手でも案外いけるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、ヒナタは森の中へとフワリと進んでいくのであった。