第30話 転起
他の隊員たちがすっかり寝静まった深夜、ひとりの青年がベッドの上で静かに身を起こした。
彼が所属するのは、精鋭で編成された瘴境制圧チーム。魔域掃討チームのような大所帯とは違い、このチームでは一人ひとりに個室が与えられている。
その個室の中で、青年は黙ったままベッドの端に腰をかけ、足元をじっと見つめていた。
――コンコン。
やがて、約束の時間になったのか、扉を叩く軽い音が部屋に響いた。
青年は立ち上がり、静かに扉を開ける。
「……あれ? もしかして寝てました?」
現れたのは、軽く笑いながら中を覗き込んでくる別の青年だった。薄暗い室内に一歩踏み込み、辺りを見回す。
「いや、寝ちゃいねえよ。……この前、灯りつけっぱなしで怒られたから、最初から消してただけだ」
苦笑いを浮かべながら、訪問者は部屋の唯一の椅子に腰を下ろした。
ベッドに戻って再び腰を下ろした青年が声をかける。
「……で? ショーゴは?」
椅子の男が肩をすくめて答える。
「来るはずですけどね。まーた寝落ちしてんじゃないですか?」
二人同時に、はぁとため息をついた――そのタイミングで、再び扉がノックされた。
「おっ、来たみたいだな。ハヤト、開けてやってくれ」
「はいはい」と応じて、椅子から立ち上がったハヤトは、静かに扉の取っ手に手をかけるのだった。
「すまん! 遅れてもうたわ!」
軽く右手を挙げながら、男が部屋に飛び込んできた。だが、室内の様子を見てすぐに足を止める。
「あれ? なんでこんなに暗いんや?」
最後に姿を現したショーゴが、薄暗い部屋の中でベッドに腰かけている男に問いかける。
「いろいろ事情があるんだよ。……それより、早速始めよう」
ベッドの男はそう答えると、ナイトテーブルの引き出しから光源体を一つ取り出し、そっと灯す。そして、その小さな灯りをベッドの下へと転がした。
ぼんやりとした明かりが、部屋の床や仲間の表情を仄かに照らし出す。
「俺は地べたでええよ」
そう言って、ショーゴは自ら床に腰を下ろし、代わりにハヤトを椅子へ促した。そして、ベッドの男に向かって問いかける。
「で、ケンジ。何かわかったんか?」
ケンジは小さく首を振り、深く息を吐いた。
「いや……収穫ゼロだ。そもそも本当にそんな奴がいたのかどうか、その確証すら取れてない」
「じゃあ、やっぱり……デマですかね?」
ハヤトが不安げな声で口を開く。
「その可能性が高い。市民の目撃証言も一件も上がってないからな」
静かに、しかしどこか焦りを滲ませながら、三人の夜の密談が始まっていった。
彼らが静かに語り合うこの部屋は、地下都市カルネア王国・第三層にある傭兵ギルド専用宿舎の一室だった。 そして、今その部屋の灯りの下で交わされている話題は――つい先日、この国に現れた“転移者”についてのものだった。 いや、より正確に言えば、“幽霊になった転移者”のことだ。
「でもなぁ……もし本当に転移者なら、同じ日本人って可能性が高いやろ?」
そう呟いたのはショーゴだった。畳みかけるような関西弁が、この異世界の静けさに妙な現実味を与える。
「とは言っても、幽霊ですよ? 地縛霊がそのまま転移してきた……なんて話、あるわけないじゃないですか」 苦笑混じりにハヤトが応じる。
「いや、元は人間で、泉の神殿で幽霊になったって話だ。……だとすれば、ショーゴの言う通り、あいつも“日本”の人間の可能性は高い」
ケンジが淡々と返す。目を伏せながらも、どこか信じたくて仕方がないような口ぶりだった。
だが――その転移者の情報は、王国内で広く知られることはなかった。
王国上層部は判断を下した。 ――国民に余計な不安を与えぬよう、情報の公開は控える。 ――それが“希望”として誤解される危険を避けるためにも。
結果として、傭兵ギルドの精鋭たるこの三人にすら、公式な情報は一切伝わっていなかった。
もちろん彼らも手をこまねいていたわけではない。ギルド内外の関係者に、非公式な聞き取りを繰り返し行っていた。 だが――
「神殿で肉体を捨てて幽霊になっただの、地表をすり抜けて地上に出ただの、少女に憑依して入国しただの、フェングレイを連れてただの……」
ケンジが手元のメモを指で弾き、ため息を吐く。
「どれもこれも、荒唐無稽ってやつやな……」 ショーゴが苦笑混じりに首を振る。
「信じたいけど、証拠がないんじゃどうしようもないです」
ハヤトが静かに締めくくる。
――皮肉なことに、伝え聞いたその全ては事実だった。 だが、信じるにはあまりにも常識外れで、あまりにも“幽霊じみて”いたのだった。
「外に探しに行くこともできへんしなぁ……」
ショーゴがベッドの縁に肘をつけ、ぼやくように呟く。
「俺らの身体じゃ、瘴気に一日も耐えられないですからね」
ハヤトも苦笑混じりに肩をすくめた。
どちらも、地下に留まるしかない自分たちの境遇に歯がゆさを感じている。
そんな中、ケンジがぽつりと切り出す。
「……このまま情報を掘ってても、埒が明かない。だから、アレンさんに直接聞いてみようと思ってる」
その一言に、二人の顔がピンと強ばる。
アレン――それは傭兵ギルドの頂点に立つギルドマスターの名だった。
「お、おいケンジ……正気か? 俺らが“異世界からの転移者”やってこと、バレたらどうすんねん……!」
「そうですよ! いくらなんでも、それは危険すぎますって……!」
思わず声を上げるショーゴとハヤト。 二人の反応に対して、ケンジは少し困ったように頬をかきながら、それでも真剣な目で言い返した。
「けどよ……このままだと、何の手も打てないまま、ただ地下で老いていくだけだ」
言葉に熱がこもる。
「地上に出られない。外の世界も見えない。知りたいことも何一つ分からないまま、俺たちの人生が終わるなんて――それだけは、御免だ」
その言葉には、焦燥と渇望が滲んでいた。
重い沈黙が、一瞬、部屋に落ちる。
その後も三人は、言葉を交わしながら考えを巡らせ続けた。
迷いもあったが、結局のところ――彼らなりの結論に辿り着く。
まずは、情報の発端となった若者――ザイルに、再び接触して話を聞いてみる。 以前も試みた方法だが、今度はより慎重に、違った角度から探りを入れてみようということになった。
それでもなお幽霊の情報が得られなかった場合には、ケンジが一人でギルドマスターのアレンに話を持ちかける。
正面切ってではなく、あくまで雑談の中に紛れ込ませるような自然な形で、だ。
策をまとめ、流れを確認し合ったところで、ショーゴが立ち上がる。
「……ほな、そろそろ部屋に戻るか」
「ですね。お二人とも、お疲れ様でした」
ハヤトも椅子から腰を上げ、軽く頭を下げた。
二人を見送りながら、ケンジは足元の光源体に手を伸ばす。 拾い上げたそれの灯りを、ゆっくりと指先で消した。
室内が静寂に包まれる。
そして、ぽつりと呟く。
「……とにかく、俺は――早く、元の世界へ帰りたいんだ」
その声は誰に向けたものでもなかった。 ただ、自分自身の奥底に染みついた焦燥を、吐き出すように。
ケンジはベッドに身を横たえ、天井の見えない暗闇をじっと見つめていた。
翌朝――
いつものように、味気ない朝食を腹に収め、形ばかりの朝礼を終えたケンジは、その足でまっすぐギルドマスターの執務室へと向かった。
本来であれば、幽霊に関する情報源――ザイルへの再接触が先のはずだった。だが、ケンジはその手順を飛ばした。
以前ザイルと話した際、彼の口は固かった。ただ黙して語らぬのではなく、「話せない」という、強い制約があるようだった。上層部の圧力さえ感じさせるあの反応に、ケンジは踏み込むことを諦めていた。
――同じ相手に、同じやり方で迫っても、得られるものはない。
そう判断し、彼は次の一手を選んだのだった。
コンコン。
ノックの音に続けて、ケンジは声を張った。
「ヴェールブレイカー、三番隊所属のケンジです」
間もなく、室内から静かな声が返ってきた。
「入ってくれ」
その一言を受け、ケンジは扉を開けて室内へと入る。
「失礼いたします。マスター、朝から恐縮ですが、お時間を少々頂けますか」
扉を閉めた後、彼はその場に立ったまま両腕を背に回し、丁寧に姿勢を正した。
アレンはデスクから視線を上げると、やや意外そうな顔を向けた。
「……一人か?」
この手の訪問は、通常パーティ単位での緊急報告に限られる。一人で探索を行うことは原則として無く、ましてや最近は死亡報告も上がっていない。つまり、ケンジの仲間たちが全滅したというような事実も存在しない。
その不自然さに、アレンは訝しむような視線を送った。
「はい。今回は業務ではなく、私的な相談です。もしご都合が悪ければ、また改めて参ります」
それを聞いて、アレンは少しだけ口元を緩めた。
彼は他のマスターと比べて親しみやすく、かつて部下たちと肩を並べて酒を酌み交わしたこともある人物だ。 そうした過去があるからこそ、こうした非公式の訪問も、まったくの例外ではない。
「……いや、構わんよ。座るといい。ちょうど紅茶でも淹れようと思っていたところだ」
そう言って、アレンはデスクから立ち上がり、ソファのある一角へとゆったりと歩を進めた。
アレンの言葉にうながされ、ケンジも静かにソファへと腰を下ろした。
ふわりと紅茶の香りが漂う。
アレンは朝の食事時に淹れておいた紅茶を、銀のポットからティーカップへ注いでいく。湯気の立つその琥珀色の液体が、カップの中でゆらりと揺れた。
「さて――それで、何の話だ?」
穏やかながらも、鋭さを秘めたアレンの問いに、ケンジはティーカップを手に取りながら静かに答えた。
「ありがとうございます。……実は、最近この国で噂されている“幽霊”の件で、伺いました」
紅茶を一口含む間もなく、核心へ踏み込む。
アレンは特に表情を変えず、ただ短くうなずいた。
「……ああ、あの話か。確かに、風のうわさ程度には耳に入っている」
そして、少し間を置いてから――低い声で続けた。
「だが、幽霊などというものが実在すると思うか? いや、仮に存在したとして……お前にとって、それが何の関係がある?」
的を射た質問だった。
ケンジは一瞬言葉に詰まり、目を伏せた。
――ここで真実を語るわけにはいかない。
自分が“異世界からの転移者”であるという事実は、ギルドの中でもごく一部にしか知られていない。迂闊に口に出せば、異端者扱いされ、追放される可能性すらある。
慎重に、だが迷いなく、ケンジは言葉を選んだ。
「……マスターもご存知の通り、自分は《転移者》です。元いた場所も、同じように地下に広がる都市でした。似た環境であったからこそ、この世界の瘴気には適応できませんでした」
そして、まっすぐにアレンの目を見つめる。
「ですが……噂にある“幽霊”が本当に存在するなら。もし、それが人間だった頃に瘴気へ適応したのではなく、“変質”によって適応したのだとしたら……自分にも、同じ可能性があるのではないかと、そう思ったのです」
その言葉に、アレンは無言のまま顎に手を添えた。
沈黙。
やがて、低く漏らすような声でつぶやく。
「……なるほどな。だが、仮にその“幽霊”が実在したとしても、お前が同じ方法を辿れるという保証は無い。そうだろう?」
含みのある視線が、ケンジに向けられる。
問いかけというより、“確認”のような口調だった。
だが、ケンジは怯まなかった。
「はい。その通りです。ですが……可能性があるなら、追う価値はあると考えます」
静かに、だが確かな意志を込めた声音。
その一言は、彼が単なる好奇心で動いているのではないということを、アレンに示すに足るものだった。
そして、初めてこの世界に転移した時のことをケンジは思い返していた。
三年前のことだった。
それは突然だった。ケンジは、自宅のソファに寝転び、テレビを眺めながら何の変哲もない夜を過ごしていた――はずだった。
急に、ふわりと浮かぶような感覚に包まれ、意識が白く飛ぶ。
気づいたときには、草原のど真ん中に立っていた。
「……は? なんだ、ここ……?」
足元は草に覆われ、見渡す限り人工物はない。どこまでも続く緑の大地。遠くで風に揺れる木々の音だけが耳に届く。
ケンジは思わず自分の姿を見下ろす。
スウェット姿に素足――間違いなく、さっきまでいた自宅での格好のままだ。
(さっきまで……テレビを見てた。そうだ、夜中のニュースが始まって、そろそろ寝ようかと思った、その直後だった)
つまり、今のこれは――夢ではない。
だが、現実とも思えなかった。
空を見上げる。そこには、信じがたい光景が広がっていた。
二つの太陽が、燦々と真上から照りつけていたのだ。
「は……? ふたつ……?」
間の抜けた声が、思わず口から漏れる。
信じたくない現実。だが目の前の風景は、現実以上に鮮やかだった。
そのときだった――
遠くの丘の向こうから、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
あの瞬間の異様な光景と空気は、今でもはっきりと覚えている。
――そんな記憶を思い出しながら、ケンジはふたたび紅茶に口をつけた。そして、アレンに向き直って、静かに言葉を継いだ。
「……あの時、自分が転移してきた直後、マスターに助けていただいた際にもお話しましたが……。急な転移に自分は混乱していて、精神的にも限界でした」
ケンジは一度目を伏せ、深く息をついてから、静かに続ける。
「今だからこそ、正直に申し上げます。――実は、自分はこの世界の“中”から来たんじゃないと思うんです」
その言葉に、アレンの表情が一変した。
大きく見開かれた瞳。眉が持ち上がり、呼吸がわずかに止まる。
それはただの驚きではなかった。彼が思考を巡らせている証拠だった。
「それは……本当なのか?」
低く、絞り出すような声。
アレンの脳裏には、一人の存在――幽霊としてこの世界に現れた、ヒナタの姿がよぎっていた。
あの者も、確かに“異なる世界”から来たと語っていた。そして、瘴気に順応する異質な存在として、この世界に影響を与え始めていた。
ならば、目の前のケンジも――。
そんなアレンの懸念を見透かすように、ケンジは表情を変えずに答えた。
「はい。少なくとも、自分のいた世界には瘴気なんてものは存在していませんでした。――まったくの、別物です」
そう言うケンジの内心では、別の算段を巡らせていた。
(ここで“別世界”と言っても、“この世界内のどこか瘴気のない地下都市から来た”って話にすれば……地球のことは誤魔化せる)
ケンジの作戦はシンプルだった。
“異質”な存在としてアレンの興味を引きつけ、瘴気への適応法に繋がる情報を引き出す。
もしアレンが疑いを強めたら、すぐに「記憶違いでした」と引き下がればいい――その程度の伏線で。
だが、次の瞬間だった。
ケンジがさらなる嘘を紡ごうと口を開きかけたところで、アレンの落ち着いた低音が、その言葉を制した。
「……お前の言っていることは、理解した。ならば、こちらも正直に話そう」
アレンは静かに息を吐き、言葉を続けた。
「――例の幽霊は、実在している」
その一言で、今度はケンジの方が目を見開いた。身体を固くし、声が震える。
「そ、それじゃあ……本当に、実体を捨てて幽体になったってことですか!?」
アレンは、どこか諦めたように、あるいは覚悟を決めた者のようにうなずいた。
「ああ。彼は、自分がこの世界とは“別”の場所から来たと語っていた。……そして、瘴気の本質を探るため、自ら肉体を手放し、地上を目指した」
その話は、どこか現実離れしているはずだった。だが、アレンの語り口には虚飾がなかった。
ケンジは思わず前のめりになり、食い入るように尋ねる。
「その……幽霊の名前は? 名乗っていたのなら、ぜひ教えてください!」
アレンは黙ってティーカップを手に取り、ゆっくりと紅茶を啜る。
そして、カップを置いたその瞬間――
「ヒナタ。彼は、そう名乗ったよ」
その名を聞いたケンジは、静かに息を飲んだ。
ヒナタ――その響きは、日本で何度も耳にしたことのある、ごく自然な名前だった。 偽名の可能性も否定できない。だが、あえてこの名を選ぶというのは、やはり――
「……やっぱり、噂は本当だったんですね」
そう呟くケンジの声には、驚きと安堵、そして焦りが滲んでいた。
そんな彼を見つめながら、アレンがふと問いかける。
「確か、お前たち以外にも……この国に転移してきた者が、あと何人かいたはずだ。今、四人だよな?お前やヒナタと同じ世界から来たのか?」
もうここまで来れば、隠し立てをしても意味はない――そう判断したケンジは、正直に答える。
「自分とショーゴ、ハヤトの三人は同郷です。日本という国から来ました。……ただ、ショウスケに関しては、正直わかりません」
「わからん?」
アレンが眉をひそめる。
ケンジは小さく苦笑しながら続けた。
「彼は“日本という世界の過去から来た”なんて言ってまして。侍口調で話して、刀を持ち歩いてるんです。……まあ、演技だと思ってますけど」
ケンジ、ショーゴ、ハヤトの三人は、日本という同じ文化圏の記憶や感覚を共有していた。だが、ショウスケだけは明らかに異質だった。彼が本当に別の時代から来たのか、それとも何かを演じているのか――それは今も判断がつかなかった。
「……なるほど。よくは分からんが事情は理解した」
アレンは頷き、しばし思案した後、真剣な口調で言葉を継ぐ。
「ならばいずれ、全員に話しておくべきことがあるな。……近いうちに、四人とも部屋に来てもらおう」
その言葉通り、後日ケンジ、ショーゴ、ハヤト、そしてショウスケの四人はアレンの私室に呼ばれ、幽霊ヒナタに関する真実――その出自、変化、そして地上へと向かった目的について、包み隠さず知らされることとなった。
話の中には、百年前の異世界からの転移者についても語られることとなった。
そしてこのあと彼らが、瘴気に適応するために《泉の神殿》へと足を運び、肉体を捨てるべく“神様”との交渉に四苦八苦することになるのだが――
それはまた、別の話である。