第23話 添縁
青い甲虫は、蜜の木をすべて舐め終え、満ち足りた様子でとことこと歩いてきた。
その小さな体からは、まるで一仕事を終えた職人のような満足感がにじみ出ている。
その様子を、洞窟の番人だったゴーレムがじっと見つめていた。
表情を変えることはないが、その佇まいからはどこか穏やかな空気が伝わってくる。
甲虫が満たされたのを見届けたことで、彼自身にも静かな充足があったのかもしれない。
「ぷはーっ! うまかったっち! ありがとっち!」
甲虫がゴーレムに向かって礼を述べ、くるりと背を向けてその場を後にしようとする――が、ふと何かを思い出したように足を止め、ヒナタたちの方へ振り返る。
「おまい達も、ありがとっち! おらっち、満足だっち!」
その一言に、リーネが優しい笑みを浮かべて答える。
「良かったね、むしちゃん!」
その声に誘われたように、ゴーレムも重たげな足取りでズシン、ズシンとこちらに近づいてくる。
「ゴーレムさん……もう、あそこを守らなくていいの?」
リーネがゆっくりと問いかけると、ゴーレムは一瞬の間を置いてから、静かに首を縦に振った。
守り続けてきた意味はもう薄れつつあり、そして今日、初めて誰かを洞窟へと導いた――
その瞬間、彼の中で何かが解き放たれたのかもしれない。
「……これから、どうするんだ?」
ヒナタが声をかける。
ゴーレムはごく短い沈黙を置いた後、空を仰ぐように顔を上げ、思案するそぶりを見せた。
だがすぐに、視線をヒナタへ戻し、わずかに肩を揺らすようにして頷いた。
決意というには静かすぎる合図。けれど、確かな意思がそこにはあった。
「特にやることがないんなら――俺たちと一緒に来るか?」
その問いに、ゴーレムは迷いなく二度目の頷きを返した。
仲間になったのだ。ヒナタたちと、これからを共に歩む存在として。
「なら……名前、付けてあげないとな」
ヒナタはふっと表情を和らげ、横にいるリーネに目を向ける。
「何がいいと思う? リーネ」
するとリーネは、まるで子供がぬいぐるみに名前をつけるような様子で、次々と候補を挙げては首を傾げ始めた。
「うーん……“グラニス”ってどう? あ、でも“ストン”もいいかも……いや、もっとかっこいいのが……!」
楽しそうに悩みながら言葉を転がすその姿は、見ているこちらまで微笑ましくなるほどだった。
そんな中、突然ヒナタの目の前に青い甲虫がやってきた。
「おまい、おらっちも連れてってくれないかっち?」
その唐突な申し出に、ヒナタは目を見開いた。
「えっ……俺たち、もうここを離れちゃうけど? 木の蜜、もう舐められなくなるけど、本当にそれでいいのか?」
蜜に執着していたあの様子を思い出し、ヒナタは思わず問い返す。だが甲虫は、ツノを持ち上げて堂々と胸を張った。
「この森ぜーんぶ、おらっちの庭だったっち! でももう、あの木の蜜はこの場所以外、全部舐め尽くしたっち。うまい蜜を出す木は残っているけど、あれは数十年経たないと蜜が出ないっち!」
どうやら、あの蜜は極めて希少で、自然に再生されるにはとても長い時間がかかるという。
だからこそ、森に残る理由はもうない――そう言いたかったのだ。
「だったら、新しい木の蜜を探した方がいいって、そう思ったっち!」
その口調には未練よりも、これから始まる冒険への期待が混ざっていた。
ヒナタは、そんな甲虫の表情を見て思わず笑みをこぼす。
そして内心で思う。――この小さな虫にも、自分と同じように“次の場所”へ向かう理由があるのだと。
そんな折、ひとりごとのように考え込んでいたリーネが、ふと顔を上げてにこっと笑った。
「名前、決まったよ!」
皆の視線が彼女に集まる中、リーネは堂々と告げる。
「ゴーレムさんは――“ガルド”! 強くて、どっしりしてて、でも優しそうな名前でしょ?
それから、むしちゃんは“キュルッチ”! だって『キュルルッ』って鳴くんだもん!」
突然の命名に、ガルドは無言のまま首を傾げ、そして小さくうなずく。
キュルッチに至っては、大きく羽を震わせて「キュルッチ!」と自分の名前を叫んでいた。
ヒナタはその様子を見ながら、思わず目を細める。
幽霊である自分。
獣の姿をしたクロノ。
魔物と化したリーネ。
岩の体を持つガルド。
そして、青く輝く甲虫・キュルッチ。
――幽霊、魔獣、魔物、岩、虫。
何とも風変わりなメンバー構成だ。けれど、これからの旅路が、ヒナタにはたまらなく愛おしく思えた。
「さて……この先は、どんな仲間に出会えるんだろうな」
心の奥に、わずかな期待と高鳴りを感じながら、ヒナタは静かに空を仰いだ。
だが、そんな和やかな空気とは裏腹に――。
その様子を、遥か遠くから静かに見つめる存在があった。
索敵可能範囲外からの遠隔視――それは監視というより、もはや狙撃のような冷徹さを帯びていた。
「まさか……六人目が本当に現れるなんてね」
その声は、甘さの一切を削ぎ落とした鋭利な刃のようだった。
「見つけたのが、脳筋ファルで本当に助かったわ……」
美しい顔立ちとは裏腹に、その瞳は氷のように冷たい。
女は低く呟く。
「裏切り者には、制裁を――」
そして静かに立ち上がると、風に黒衣をたなびかせながらその場を離れていった。
「……とはいえ。準備は万全にね」
その背中から放たれる殺気は、誰よりも鋭く、冷酷だった。
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一行は、のんびりと山をくだっていた。
先頭を歩くのは、のっしのっしと巨体を揺らす青い甲虫――キュルッチ。
「高いところまで登ると、空からビームが飛んでくるっち」と、どこで仕入れたのか分からない情報を得意げに語った結果、一行は登山を断念し、下山ルートを選んだのだった。
その途中、ヒナタはガルドとキュルッチに経験値を分け与える。
今回もエイドに依頼し、それぞれがレベル100に達するだけの量を均等に振り分けた。膨大な経験値を蓄えていたヒナタにとっては、まだまだ余裕のある分配だった。
ふたりとも、それぞれの特性に応じたスキルを習得したようだったが、今は試す余裕も場所もない。
よって一行は、戦闘訓練の誘惑を断ち切りつつ、慎重に足を進めていった。
「山を降りたら、次はどこへ行こうか?」
ヒナタが振り返りながら問いかけると、各々が思案顔を見せる。
「……ザイルさんのいる地下都市に戻るって選択もあるけど、このメンバーで行くのはちょっと気まずいかもね」
と、リーネが苦笑混じりに言う。
「血統スキルの持ち主を探すなら、行ったことのない方角に進んだ方が可能性は高いと思うよ!」
クロノの提案は理にかなっている。
「おらっちは木のあるとこに行きたいっち!蜜の香りが恋しいっち!」
キュルッチは短い足をばたつかせ、わかりやすい希望を叫んだ。
最後に、岩の巨躯を静かに揺らすガルドは、ただ黙って歩く。
その沈黙が、かえって彼の存在感を際立たせていた。
仲間たちはそれぞれ異なる価値観と目的を持っていた。
だからこそ、進路の選定は慎重でなければならない。
闇雲に血統スキル所持者を探し回っても、手がかりのない探索では疲弊するだけだ。
そこでヒナタは、迷うことなくエイドにも相談を持ちかけた。
一行は無事に山を下り、広がる平地へと降り立った。
種族も性質も異なる仲間同士で、こうして自然に会話を交わせることの奇跡を、ヒナタは密かに喜んでいた。
その後、皆で話し合いを重ねた結果――
「それじゃあ……この大きな山をぐるっと迂回して、海の方へ向かうということで」
次の目的地は、エイドの助言をもとに“海”と定まった。
未知の血統者を探す旅は、これまでに足を踏み入れていない方角へと進路を変える。
一行は、右手に連なる山の稜線を眺めながら、その裾野をなぞるように歩を進めた。
その道中、幾度となく魔獣たちに遭遇したが――
すべて、クロノ・ガルド・キュルッチの三者によって難なく撃退された。
中には、意思疎通の可能な魔獣もわずかながら存在しており、ヒナタは彼らに少量の経験値を分け与えると共に、絆ノ共鳴を繋いだ。
まるでフェングレイの群れと出会ったときのように。
違うのは――今回は「人類を見つけても、敵対してはいけない」と、しっかり念を押しておいたことだ。
この地域にゴブリンが生息しているかは定かでないが、かつての過ちを繰り返すつもりはなかった。
こうして山に生息する魔物たちとの絆ノ共鳴でつながり、そして、かつてこの山を我がもののように歩いていたキュルッチとのリンクも加わったことで――
エイドの地図はさらに詳細に、鮮やかに更新されていった。
濃密だった未知の領域は、少しずつヒナタたちの足跡によって塗り替えられていく。
風の匂いが変わり、木々の葉音が微かに異なる。陽の高さが緩やかに傾き始めるなか、一行はぐるりと山を迂回するように静かに進み続けていった。
――そして、ついに山の反対側へとたどり着いた。
だが、そこから海まではまだ距離があった。
しばらくは山地を離れ、平地を歩いていく必要がある。
リーネに憑依すれば高速で移動することも可能だが、ガルドやキュルッチの巨体では追いつけない。
そのため、旅はあくまで皆で足並みを揃えながらのんびりと――一歩ずつ、歩いていくものとなった。
何日もの間、夜には簡易な野営を繰り返し、昼にはエイドの指し示す方角を頼りに、西へ西へと進んでいく。
そしてある日の午後。焼けるような陽射しのもと、視界の先に何かがぼんやりと見えてきた。
「あれ……なんだっち?」
キュルッチが目を細め、遠くをじっと見つめる。
砂塵にかすむその先には、崩れかけた巨大な建造物――
かつてはドーム状の構造を持っていたであろう、円形の施設のようなものが、ぽつんと佇んでいた。
屋根は大部分が崩れ落ちており、骨組みだけが空に向かって無言で突き刺さっている。
それは、自然の中に不意に現れた“異質”な存在だった。
「エイド、あれ……なんだか分かる?」
ヒナタの問いかけに、空中に浮かぶステータス画面が静かに展開され、冷静な声を返してきた。
『申し訳ございません。該当する記録は、私のデータベース内に存在しておりません』
その言葉に、ヒナタは眉をひそめた。
エイドの知らない建造物――それはつまり、この世界の「管理者」が去った後、何者かの手によって築かれた可能性が高いということだ。
「……何があるかわからない。念のため、警戒して進もう」
そう言って一行は、崩れかけたドーム構造の建物へと歩を進める。
だが、正面らしき入口は見当たらなかった。
回り込むように建物の外周を歩きながら、ぐるりと探索を続けていく。
やがて半周ほどしたところで、ようやく“扉”と呼べそうなものが姿を現した。
それは両開きの巨大な鉄製ゲート。
高さは三メートル近く、幅もかなりあり、まるでかつての工場か要塞のような雰囲気を漂わせている。
「ここなら、入れそうだね」
リーネが立ち止まり、扉を見上げながら呟いた。
皆も頷き、慎重に近づいていく。
扉には取っ手も鍵穴もなく、ただ無機質な黒い金属板が重々しく閉じられているだけだった。
試しにヒナタが、物理干渉モードでそっと手を当て押してみたが――微動だにしない。
「うーん……開かないな」
ヒナタは軽く肩をすくめ、扉の重厚さに唸った。
「ガルド、ちょっと試してみてくれないか?」
ヒナタの言葉に応え、ゴーレムのガルドが無言で前に出る。
巨大な手のひらを扉へ押し当て、重厚な音を立てながら全身の力を込めるが――
……ぴくりとも動かない。
その場に重苦しい沈黙が流れる中、のっしのっしと甲虫が歩み出た。
「おらっちに任せるっち!」
キュルッチが右側の扉に回り込み、短く太い角を押し当てながら、前脚で全力の押し込み体勢を取る。
左にガルド、右にキュルッチ。
数日前まで喧嘩ばかりしていた二体が、今は並んで同じ目標に挑んでいる。
その様子を見て、ヒナタはほんの少しだけ胸が温かくなった。
「うおおおおおーーー! ちっちっちーーー!!」
キュルッチの唸り声とともに、扉がわずかに軋む音を立てた。
「動いてる……!」
クロノがすかさず駆け寄り、その小柄な体で押し支える。
リーネも、ヒナタも、皆が揃って扉に手をかけた。
だが――それでも、動いたのはほんのわずか。隙間が数センチ空いたところで、扉は再び頑として動かなくなった。
「はぁ、はぁ……も、もう……むりだっち……」
キュルッチがその場にぺたりと座り込み、触角を垂らして項垂れる。
ガルドはまだ余裕を見せていたが、これ以上はキュルッチの体力的にも限界のようだった。
ヒナタは小さく息をついて、みんなをそっと手で制した。
「……仕方ないな。キュルッチ、大丈夫か?」
肩で息をする甲虫にヒナタが声をかけると、キュルッチは小さく触角を揺らして「だっち……」と弱々しく返した。
ヒナタは軽くうなずき、皆をそっと扉から離れさせる。
「これ以上は無理そうだね。この高さじゃ、よじ登ることも出来ないしし……俺が中を見てくるよ」
そう言いながら、ヒナタは扉に近づき、淡く輝く霊体のまま、静かにすり抜けていった。
「ヒナタ、気をつけてね……!」
その後ろ姿を心配そうに見つめながら、リーネが声を掛けるのであった。
扉の向こうに広がっていたのは、屋内ではなかった。荒れた地面と風の匂い――まるで外と地続きの空間が、鉄扉の先にぽっかりと口を開けていた。
視線をさらに先へと向けると、異様な建築物が目に飛び込んできた。
二階建てほどの高さを持ち、全体が白く角ばった直方体――巨大な豆腐のような建物だった。まるで現代のスーパーマーケットのようにも見えるが、この世界の景観とはあまりにかけ離れている。
(なんだ、あれ……?)
ヒナタは思わず眉をひそめた。その存在感は明らかに“異質”だった。
「エイド、あれは……何なんだ?」
問いかけると、エイドの声が静かに応える。
『申し訳ございません。管理者が機能していた時代にも、あのような構造物は確認されておりません』
警戒を強めながら建物へと近づくと、入口らしき場所に到達した。
そこには、透明なガラス製の自動ドアがあった。だが、ヒナタがその前に立っても、ドアは何の反応も示さない。
上部のセンサーにも気配はない。機能していないのか、あるいは別の認証が必要なのか。
ふと視線を右側に向けると、壁に埋め込まれた暗証番号の入力パネルが目に入った。
――だが、ヒナタにとってそんなものは無意味だ。
静かに、そして淡く揺れる霊体をそのまま前へと進める。ガラスの扉に何の抵抗もなくすり抜け、ヒナタは静かに建物の内部へと足を踏み入れた。
その頃、リーネたちは重厚な鉄扉の前で静かにヒナタの帰還を待っていた。
「……一人で平気かな、ヒナタ。戦えないのに」
リーネの不安げな声に、クロノも小さくうなずきながら眉をひそめた。頼りにしているからこそ、心配も募る。
だがそんな空気を和ませるように、キュルッチがのっしのっしと前に出てくる。
「でもおばけっちはすり抜けられるっち? 攻撃も効かないなら、むしろ最強っち!」
屈託のない声に、ガルドもごとんと首を縦に振る。思えば、以前ヒナタが自分の体をすり抜けたときの奇妙な感覚が、確かにそうだったと彼も納得していた。
「うん、そうだよね。ありがと、キュルッチ。ガルドも」
リーネが微笑み返すと、場の空気が少しだけ柔らかくなった。
やがて、ゆっくりと空が朱に染まりはじめる。二つの太陽が重なり合うようにして地平線へと沈んでいく中、彼らはぽつぽつと他愛ない話を交わしながら待ち続けた。
そして――
「ただいま!」
ヒナタがひょっこりと鉄扉の向こうから姿を現す。いつものように、何事もなかったかのように、霊体のまますり抜けて帰ってきたのだった。
「みんな、お待たせ」
そう言って彼は、あの中で見てきた出来事を語り始めた。薄闇の中に灯る言葉は、どこか不穏で、それでいて確かな好奇心を呼び起こす響きを帯びていた。
ヒナタは皆を前に静かに口を開いた。
「中には……大きな建物があったよ。形は保たれていて、崩れもしていなかった。まるで――時間の流れだけが止まっていたみたいだった」
リーネが目を丸くしながら問い返す。
「建物……って、どんなの?」
「見た感じは、研究施設のようだった。内部には整然とした設備や端末が並んでた。でも……俺の力じゃ、データには一切触れられなかった」
その言葉に、リーネが小さく首をかしげる。
「研究施設……?」
ヒナタはゆっくりと頷きながら続けた。
「この世界に関する、何か重大なことが……あの場所で行われていた気がする。エイドが言うには、俺ひとりでは“システム”へのアクセスはできない。でも、リーネに憑依した状態なら、可能性があるって」
「システム……アクセス……うーん、よくわかんないけど……」
リーネは難しい顔をしつつも、にこっと笑って応じた。
「私も中に入ってみたいな。一緒に行こう、ヒナタ!」
その一言で、皆の空気がふっと和らぐ。
けれど、空はすっかり暮れていた。あたりには夜の静けさが漂い始めている。
問題は、実体を持つリーネがあの中へ入る術がないこと。ヒナタのように扉をすり抜けるわけにはいかないのだ。
「……今日はここで野営しながら明日の侵入手段を考えよう」
ヒナタの提案に、皆が頷いた。
こうして、一行は大きな鉄扉の前で夜を迎えた。暗がりの向こうに眠る“未知”に思いを馳せながら、それぞれの胸に静かな期待を灯して。




