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第10話 死者

 私は、いつまでこんな生活を続けるのだろう。


 食べる必要も、眠る必要もなくなったこの体で。血の気を失い、薄紫色に変色したこの体で。毎日、毎日、同じことを繰り返すだけの時間。


 窓の外に広がる世界は、かつて私が知っていたレガルディアではなかった。

 家を出れば、魔物に襲われる。それが分かっているから、もう外に出ようとは思わない。

 瘴気は、もはや恐怖の対象ではなくなっていたが、それでもあのじっとりとした嫌な気配を浴び続けるのは、気持ちのいいものではなかった。私は窓を閉ざし、光さえ遮りながら、ただ家の中に潜む日々を過ごした。


 私の体には、もう血液は流れていない。心臓も動かず、呼吸の必要もない。

 それなのに、死ぬこともできない。


 あの日――すべてが始まったあの日を、私は今でも覚えている。


 地面から溢れ出した、薄く紫がかった奇妙な気体。

 街の人々はそれに驚き、慌てふためいた。吸い込めば体がだるくなり、次第に体調を崩していく。


 けれど、死ぬわけではなかった。


 偉い人たち――町長や有力者たちが集まって話し合いを重ね、出した結論は『できるだけ家から出ないように』というものだった。

 他の街や国へ逃げようにも、どこもかしこも瘴気に覆われていたから。


 しかし、ついに被害は現実のものとなった。

 最初に異変を見せたのは、家畜やペットといった小さな動物たちだった。これまで人々と穏やかに暮らしていた彼らが、ある日突然、瞳を血のような赤に染め、狂ったように人を襲い始めたのだ。


 数百年もの間、戦争すら知らずに過ごしてきたこの街には、武器を手に戦う術を持つ者などほとんどいなかった。ただ混乱し、逃げ惑うばかりだった人々は、なすすべもなく変貌した獣たちの牙にかかっていった。


 この短い間だけで、きっと何百人もの命が奪われたことだろう。


 最初の死者が出てからというもの、人々の間には忘れがたいほどの恐怖と混乱が広がった。


 正常なままだった家畜やペット、さらには馬や鳥に至るまで、すべて速やかに処分され、変貌した動物たちは徹底的に駆逐された。

 街に満ち始めた奇妙な気体が原因であることは、誰の目にも明らかだった。


 この異常事態に対し、街の町長エラルドさんは「もはや自分一人の手に負える問題ではない」と判断し、警備隊から数十名を選りすぐり、国王のいる首都へと支援を求めに出発した。


 数日後。

 エラルドさんは街へと戻った。

 しかし彼らが帰還したとき、警備隊の人数は出発時の半分以下にまで減っていた。

 エラルドさんはすぐさま鐘楼広場に人々を集め、事の顛末を語った。


 ――王国内でも同様に、動物たちが狂乱し、各地で甚大な被害が出ていること。

 ――さらに、街道を行く途中でも変貌した獣たちに襲われ、多くの犠牲を出したこと。

 それゆえに今後、街の外への移動は禁止とする。

 ただし、救いがないわけではない。

 この瘴気と呼ばれる気体は人間に対しては一定の健康被害をもたらすものの、動物たちのような変異を引き起こす可能性は極めて低いと。

 また、高所であれば瘴気の濃度が薄れ、より安全であることも確認された――と。


 それから街では、急ぎ足で防衛と避難の準備が始まった。

 まず取り掛かったのは、街を囲う壁と高層建築の建設だった。街の男たちは一丸となり、昼夜を問わず作業に汗を流した。


 最初に作られたのは、簡易的な防護柵だった。木材の先端を鋭く削り、それを地面に深く突き立てた粗末なものだったが、それでも外からの変貌した動物たちの侵入を防ぐ効果は果たしてくれた。


 しかし、安堵も束の間、次なる悲劇が訪れた。

 瘴気の影響を受け、体力を奪われた老人が、徐々に衰弱して命を落としたのだ。

 動物による被害とは異なる、瘴気そのものがもたらした初めての死者だった。


 それを皮切りに、街のあちらこちらで命が絶たれるようになる。

 特に体力のない老人たちが次々に倒れ、さらには赤子や幼い子供たちにも死者が出始めた。


 街は深い悲しみに包まれ、街唯一の火葬場では途切れることのない煙が天へと昇った。

 この地では、古くから死者を火葬によって弔う習わしがあり、遺族たちは一人、また一人と、大切な家族を炎の中へと送り出していった。


 親を失った者、生まれて間もない我が子を失った者たちの嘆きは、街の静寂を切り裂くようだった。


 それでも、まだこの時点で、人々の心には致命的な焦りは広がっていなかった。

 町長エラルドさんの言葉――「瘴気は我々人間をあの動物のように変化させるものではない。ただ体力を奪うだけだ」という説明があったからだ。

 体調不良が長引けば、老いた身体や弱い命には耐えがたいものとなる。それは理解できる。しかし、それはあくまで例外的なものだ、と。

 そんなふうに、人々は信じようとしていたのだった。


 けれど、その言葉もすぐに崩れた。


 持病もなく、健康そのものだった若い男性が、瘴気の影響で命を落としたのだ。

 彼は突然体調を崩し、日に日に弱り、最後は呼吸困難に陥って静かに息を引き取ったという。

 この知らせは、街に再び深い恐慌をもたらした。誰もが、家から出ることをやめた。


 人々は屋外に出ることを完全に恐れるようになった。

 家の扉は固く閉ざされ、誰も通りを歩こうとはしなかった。

 だが、その孤立が新たな悲劇を生むこととなる。


 一人暮らしをしていた者が、誰にも看取られぬまま自宅で息絶え、火葬されることなくそのまま放置されてしまったのだ。


 ――そして、死者は魔物となって蘇った。


 魔物として蘇ったのは、街の警備隊に所属していた男、名をオルドという。


 オルドは生前、大剣を振るって街を守っていた勇敢な男だった。

 たが明らかに異様な様子で街を彷徨い歩き、愛用していた大剣を無造作に振り回し始めたのだ。

 警備隊の仲間たちが彼に声をかけ、取り押さえようと試みたが、魔物と化したオルドは生前の比ではない怪力と敏捷さを持っていた。


 わずか数時間のうちに、彼一人によって街には大量の死者が出た。


 やがて、魔物化したオルドによる混乱の中、他の死者たちまでもが次々と魔物となって蘇り始めた。

 街はもはや、人間が暮らせる場所ではなくなっていた。


 阿鼻叫喚の中、生き延びたわずかな人々は、涙を呑んで生まれ育った街を捨て、外の世界へ逃れた。

 彼らがその後どうなったのか、私には分からない。


 私は、そのときすでに、体が動かせないほど衰弱していた。

 だから、街と運命を共にするしかなかった。


 そして、私は死んだ。

 だが、それで終わりではなかった。


 目を覚ましたとき、私は魔物になっていた。


 けれど、奇跡的に――あるいは呪いのように――私は生前の記憶を保っていた。


 他にも、私と同じ者がいるのではないか。

 そう思い、私は街を彷徨い続けた。


 だが、出会うのは襲いかかってくる魔物たちばかりだった。


 私には戦う力などない。

 逃げ惑い、隠れながら、ただただ生き延びた。


 「肉が腐らないだけ、まだマシかな……」


 そう、乾いた声で独り言を呟きながら。


 それから百年――いや、それ以上の時が流れた。私は孤独になってからの年数を、百年以降数えることをやめた。


 季節の移ろいすら分からない、瘴気に覆われた世界。

 そんな世界であまりにも長い孤独。声を掛け合う相手もいない。ただ、瓦礫と、朽ちた建物と、魔物たちだけが、そこにあった。


 かつて愛したレガルディアは、もうどこにもなかった。


 それでも、私はこの街を離れられなかった。


 ここで生まれ育った。

 ここで家族や友人と笑い合った。

 この街は、私そのものだったのだ。


 そんなある日の夕方頃。

 街の中央――鐘楼から、大きな音が鳴り響いた。


 カーン!!


 百年以上も、誰にも鳴らされなかった鐘の音。


 私は窓から顔を出した。

 だが、瓦礫の影に阻まれて、鐘楼は見えなかった。


 「……まさか、魔物たちが争ってる?」


 あり得る話だった。

 あの鐘楼には、巨大な骸骨の魔物が棲みついていた。


 それでも、胸の奥で小さな希望が芽生えた。


 ――誰かが、この街に来たのではないか?と。


 だが確かめに行く勇気はなかった。



 そして夜になった。

 魔物たちの動きが鈍る夜。

 私は、百年以上続けた引きこもり生活を、初めて破る決心をした。


「……夜なら、きっと……」


 小さく息を吐き、私は扉に手をかけた。


 軋む音とともに開いた扉の向こうには、瘴気に沈んだ夜の街が広がっていた。


 私は、一縷の望みに賭けて、歩き出した。

 この絶望しかなかった世界に、もし、ほんのわずかでも変化が訪れたのなら――


 それを、見届けたかった。


 この体を、滅ぼすことになったとしても。


 私は、歩き出した。


 百年の孤独を、断ち切るために。


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