32「隣人は他人、知らない誰かの大切な人」
藍色が空を支配していた。
終戦から一週間と一日経つが、東京の街から見上げる空の色は変わらない。朝日が昇って夜が来て、また朝が来るというサイクルも。
反乱軍東基地より少し東にある背の高い塔。空に届くようにと願って建てられたのだろうか、その建物からは東京の街どころか、富士の山まで眺めることができる。
朝まだき、天辺まではいかない途中の段差に腰掛けて夜明けを待つ朝季が、肩を叩かれて振り返る。
「ここにいると思った」
「……なんで?」
凪は答えず、朝季の隣に腰を下ろした。
雲一つない空、東側はぼんやりと赤みを帯びていた。
「富士山は向こう側?」
「ああ、こっちからは朝日が見える」
朝季は空に向き直り、片膝を立てて座った。
先ほどよりも空に明るみが増し、色づいていく風景。戦時中は封鎖され、触れることすら叶わなかった白い建物。
初めて見る景色だがきっと昨日とは違う。義兄が見たものとも違うのだろうと、そう思った。
「冬那がさ、やっぱり見せられないって」
「夕季さんの遺言? 中央に向かう前の」
「彼がそう言ったなら私は彼の言葉に従う、それに見ないほういいよ、かっこ悪いから……って、たぶんあいつ、夕季の遺言見てる」
「見たくもなるよ。好きな人の最期の言葉、最期の姿だもん。冬那さんのおかげで今の朝季がいるわけだし」
「うん……冬那がいなかったら俺、夕季の義弟になれなかった。上層部に片足突っ込んでたあいつが取り持ってくれたんだ。研究所から逃げ出した俺を、夕季の手元に置いておけるように」
「朝季は本当に、大事にされて育ったね」
その言葉で、朝季は出会った頃のことを思い出した。
同じ言葉を言われた、海辺の港街の、仲直りをした歩道橋の上で。
「そうだな、大事にされてた。俺は本当に、夕季からも冬那からも、たくさんのものをもらった」
「うん……」
「一つ、引っかかることはあるけど」
「ひっかかること?」
「俺がいなかったら……俺が普通の人間だったらきっと、夕季も冬那も、もっと早く反旗を翻せてた。もっとたくさんの人が、生き残れてた」
俯く朝季にどう声をかけていいかわからず、凪は空を見上げた。
冬那が名言したわけではないが、白河夕季が終戦の時期を窺っていた理由は朝季にある。人造人間兵器である朝季を確実に生かして、平和な街に送り出すために。
他人である数百人よりも家族を、この世でただ一人の義弟の未来のために。
ではどうしたらよかったのか、どちらを選ぶのが正しかったのか。答えがわからなくて、凪は目を閉じた。
ふわっと、長い髪が風に揺れる。それが指に触れ、朝季が顔を上げた。最初に出会った時よりも随分伸びた、さらっとして綺麗な髪。
「髪、切らないの?」
「え? あぁ、うん」
「凪、これからどうする?」
「……残ることに決めた」
「東京に? 三次がいるから?」
「それもある……うん、そうだね。置いていけないよ。私一人、田舎に帰るなんて」
「……置いていけないよな」
ヒュウっと風が流れた。
戦後から続いていた雨は昨日止み、振り返った空には飛行機雲が見えた。
田舎と同じ空の色。水平線の見えない海は今日も、青と緑を映して輝いているのだろうか。
「来週から田舎のボランティアの人もくるから、待機しておかなきゃいけないし」
凪の言葉に、朝季は苦笑いを浮かべる。
「簡単に怪我しそうだよな、田舎の人は」
「来てくれるだけ……興味を持ってくれるだけ有難いよ」
「……そうだな」
あれから、東京の街でもニュース番組が見れるようになった。
とりあえずと談話室に設置されたテレビ画面。景子が無言で喜び、たすくは童心を取り戻したようにテレビに張り付いた。
深夜にこっそり談話室に忍び込んで警備員に怒鳴られる修二の姿が、何度も確認されたという。
「楽しい街になるといいね」
「あぁ、今度は本当の意味で、楽しい街に」
「今日の天気みた?」
「東京、関東地方は雲一つない晴れでしょう、って全国ニュースで言ってた」
「晴れか、よかった……晴れそうだね」
顔を上げた凪の視線を追って、朝季は地平線を見た。微かに顔を覗かせている太陽、もうすぐ朝が来る。
もし今、天気予報の日本地図に東京表記がなければきっと、誰かが声をあげるだろう。
どうして関東、東京は載ってないんだろう。と、疑問に思うに違いない。
それが当たり前になったことが嬉しくて、輝き始めた東京の街を、スカイツリーの上から眺めた。
*
*
『街が再建するように人の心も再生することができる』と、テレビニュースが伝えていた。
だけどそれには、どちらも人の力が必要で。
『声をあげよう』と、その人は続けた。
考えて、見つめて、声を上げて。
それがもう、今は、
これからは、この街でも出来るようになったから。
その日、日本中が終戦宣言に歓喜の声を上げた。
知らなかったくせに、などと言うものは居なかった。
その瞬間、人々は確かに、知らない誰かの傷に共感したのだ。
東京内戦が終結して八日、兵器と化した少年少女達は世界が回っていることを知った。
人間として生きることの自由と、考えることの難しさを。
やがて知ることになる。
『他人を愛せ』
その言葉の意味を求めて。
彼らはその日、偽りの戦場から抜け出した。
* 完 *




