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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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98 小さな旅立ち

 「話しをするなら中庭で」と案内され座った椅子で、先ほど渡された丼に顔を近づけてみる。それだけで嗚咽しそうな青臭い強烈な臭気が嗅覚を襲う。これを飲んだら危険な臭いだと確信して、そっと傍らに置き尻をずらして、さりげなさを装い距離を置いて安全を図る。こんな怪しい飲み物は薬なはずがない。調合してくれたヨハンには悪いが、この世界の薬には気をつけよう。

 河からの温かな風に当りながら、日陰で瓜に噛りつく。井戸で冷やしておいたのか、微かに冷たく甘い果汁が体に染みわたっていく。

  

 「つまりなんだ、深淵の神殿にいる姫宮様はダショー様の人質という事か」

 「あぁ」

 「で、お前はダショー様を襲うようにハンナを人質に取られてて」

 「うん」 

 「姫宮様を助け出すにしろ、ダショー様の自由を確保する為にしろ、まずハンナを助け出すって事で都に帰ってきた」

 「簡潔にまとめると、そういう事」


 ヨハンが「さすがサイイド。頭いいなぁ」と付け加えると、ヒゲ面を両手で隠すようにしてサイイドが呻く。二人の説明を聞いて、嘆いているのか興奮を抑えているのか巨体を縮こませて。


 「あのなぁ。その話のどこを信じればいいんだ。歴代のダショーが幽閉されてるだ? 深淵がクマリの独立を妨げてるだ? ダショーが深淵の神官から命を狙われてるだ? ハンナなら時々差し入れしに暁の神殿に行ってるけど、普段通りだったぞ。お前、後李に捕えられて頭でもおかしくなったのか? それとも後李に脅されてるのか? 」

 「すぐには信じられないだろうけどさ、とにかく本当なんだって。だからサイイドと師範の力がいるんだよ。神殿に入り込めないかな」

 「その話を信じろって無理だろ」


 風が通ると案内された小さな中庭には、飾り物のように壁に棒を突き刺して薬草を干している。独特のニオイを発する干物の下、ラビィは熱心に干物の臭いを一つ一つ品定めするように嗅いでいく。その横で、真相を話す。

 ヨハンの師匠というリュウ大師は、小さな老人だった。細く折れそうな腰を杖で支えているが、皺だらけの奥から発する鋭い眼光が一見老人な彼の強さを語っている。

 俺と向かい合うよう小箱に腰掛けて、青い瞳を臆することなく見つめてくる。

 ヨハンとサイイドの押し問答を聞き流しながら、俺はリュウ大師の瞳を見つめ返す。


 「俺の目を見る事を恐れる人が多いんですけど、あなたは平気ですね」 

 「青い目を恐れるんは、自分の中の影を避けるからや」

 「……なるほど」

 「儂は長い事生きとるからな、色んな目ぇ見てきたが……あんさんの目はいい目やな」

 「それはよかった」

 「青い目を持って人を騙す輩もおるが、あんたのは違う」


 ヨハンが視界の端で青くなったり挙動不審に手を上げ下げしている。大丈夫の意味で微笑んで頷いた。

 なぜだろう。俺はこの老人と向かい合ううちに、心の奥が騒ぎ出すのを感じている。不快なものではなく、楽しげな。待ち人に会えた喜びのような感覚。

 その感覚に従ってみよう。この心の騒ぐ元を見てみたい。そう思いはじめていた。


 「俺の目は、どんなのですか? 」

 「まぁ、悪さはしなさそやな。小心者なだけかもしれへんが」

 「大師! 」

 

 悲鳴のようなヨハンの制止が入ったけど、俺は構わず笑って先を促す。


 「でも、何か企んどるな。そうやろ」

 「そうですね。企んどります」

 「儂ぁ、そういう目を見たんは二回目やな。前見た時もその人はよぅ瓜食べとりましたなぁ」

 「この果物は美味しいです。優しい甘さで……あぁ、そうか」


 果肉からあふれ出す柔らかな甘みに誘われるように、淡い記憶があふれ出して浮かび上がる。

 水底での祈りの部屋で、たった一人食事を取る。祈祷の間と大聖堂の祭壇ぐらいしか外に出ない生活で、食は細かった。ほとんどの食事を残しがちな中で、果物は好きだった。そうだ。母が好きと言っていたのが、瓜だった。

 家族と離されて、母とも会えないうちに輪郭すら曖昧になっていく中で、食事に添えられた瓜だけは食べていた。


 「瓜は、「 瓜は母様が好きなものだったから、よう食べてましたん。瓜は母様の味や 」 ……あれ? 」


 心が震え続ける。何かが動き出した。記憶を起こしたのは、思い出したこの人格は誰だろう。

 ひたすらに、人恋しい。朧げなイメージしか浮かばない母親に、全力で想いをぶつけたい感情と衝動。これはまるで、子供だ。

 広がる空、大海原、吹き上げる風を感じたくて伸ばす手は、細くて小さい。

 あぁ、これは、この感情は。

 涙が勝手に零れていく。俺の体なのに、俺の感情と離れたところで涙が止まらない。

 

 「あのお方も、そう言うて瓜を食べてましたわ。……長生きはするもんや。ようやっと、ようやっと、お見えになった」

 

 目の前のリュウ大師が、皺だらけの奥から俺を射ていた澱んだ目から涙を流していた。

 年月を経て樹皮のようになった頬を、止まることなく涙が流れていく。


 「オユン様、よう帰りなさった……あぁ、ようやっと、儂は貴方様に謝る事が出来る」

 「……あなたは、リュウ大師は」


 流れる涙を拭く事も出来ずに、ヨハンに視線を移す。

 

 「大師は昔、先代ダショー様の侍従を務めたとか、聞いた事がありますが、ですが」


 戸惑いがちなヨハンと固まった周囲に構う事なく、リュウ大師は地面に平伏した。

 小さな体をさらに縮こませるように。


 「外に出たいという願いすら叶えられず、貴方様の心を病ませてしまった儂をどうか、どうか罰して下され」

 「……オユンは、俺の中のオユンはそれを望んでいません」


 俺の意思と関係なしに流れる涙は、喜びの涙。そして懺悔の涙。

 自分を知っている人がいる。ずっと心に留めていた人が存在した。気遣ってくれていた人がいた。そしてその人を罪の意識に囚われる行為を犯してしまった懺悔の念が涙を流している。

 地面に伏せた小さな老人の前に座り、枯れ枝のような細い手を包み込む。

 長い歳月を感じさせる手が震えていた。


 「「 ぼくを覚えていてくれて、ありがとう。貴方が覚えていてくれただけで、ぼくは嬉しいんだ 」」


 嗚咽を漏らし肩を震わす老人を、そっと抱いた。微かに、乳香が鼻の奥から蘇る。神殿を支配したあの香りと共に、水底の部屋で聞こえた水音が聞こえる。そして、その音はオユンの涙と共に次第に消えていく。

 生まれ変わって、広い空の下を自由に歩き風と飛んで、年老いた一人の神官だった男と出会えた。

 もう、これ以上未練はない。これ以上何を望む。

 

 「「もう苦しまないで。ありがとう。貴方にそれが言えてよかった」」


 心に清々しい風が溢れる。暖かい気持ちが手の平から手の平へ伝わっていく。

 そうして、自分の中で泣いていた子供の気持ちが消えていく。オユンが執着していた事や心残りだった事がなくなった今、オユンの意識がゆっくりと自分の中から消えていくのを感じる。

 そうか。彼は俺より先に『青』に帰っていくんだ。いつか見下ろした、見上げた、時間と空間の青へ帰っていくんだ。

 号泣する老人を抱いて、消えていく自分の中のオユンにさよならを告げて、その事を体感した。


 「オユンがようやく、俺の中から帰るべき所へ昇れた。俺こそ、貴方に会えてよかった。長く苦しめてしまった事も含めて、オユンに代わって礼をさせてほしい。ここまで生きてくれて、ありがとう」


 この異世界に来てよかった。

 ミルと離れたくないという欲望だけで進んでいた時間に、意味があったんだ。この異世界には、俺が過ごす時間が流れていたんだ。終わらせなくてはいけない事が、まだまだ待っているんだ。

 全てに意味がある。無駄な事なんて一つもない。


 「じゃあ、じゃあ、あんた、まさか、だって、クマリの乱は十年前だから今度のダショーは早くてもまだ餓鬼のはずだし、その」


 ヒゲの奥の口から絞り出された声に、少し苦笑いして肯定する。

 事実がこんな男で申し訳ないが、認めておかねば。


 「事情があって、異世界に行ってたんですよ。俺が今生のダショーです」


 ヒゲの生えた顎がさらに一段下がり、干物の箱の上にラビィがひっくり返った。

 


 





 陽が落ちた闇は冷たさを増した。河からの風は昼間に火照った肌を冷ましていく。

 夕餉をとる明かりが一つ二つと消え、通りに構える店から喧噪が風に運ばれてくる。河に浮かぶ神殿群は参拝者が祈りを捧げた無数のランプの灯りに照らし出されている。河面に映る明かりは、星のように揺らめいて別世界のような雰囲気を作り出していた。


 「綺麗だねぇ」

 「今宵は冬至の日の出に向けて不寝の行を行いますから、あの灯りは一晩中ついてます」

 「じゃあ、決行は」

 「日の出のその瞬間でしょう。誰もが日の出に向かって祈りを捧げていますから、暁の神殿の敷地に入るのはその時しかないと思います」

 

 迷いないテンジンの言葉に頷く。

 女神官達の生活空間である暁の神殿は、中州の下流側にある。深淵の神殿とは反対側だ。

 今や深淵で重要な地位にいるミルは深淵の神殿で祈るだろうと、大師とサイイドは予想している。警備の僧兵も深淵に集中する。

 作戦は念入りに。

  



 


 

 

 


 

 次回は12月18日 水曜日に更新予定です。

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