93 終末の旋律,その前奏
目の前の水面に浮かぶ少年は、俺と同じ青い瞳を伏せた。
淡く光る体は細く、薄汚れている。彼は深淵の神殿に囚われていないのだろうか。そんな過去が在った事に、少し安堵する。いつの過去世の自分か分からないけど、それでも自由な時があったんだと。
『 でも、忘れてる。大切な事を忘れてる 』
憂いを含んだ眼差しが、長い睫の向こうから投げられた。哀しげに、憐れむように。
『 思い出せ。そして壊してしまえ。こんな世界、さっさと終わりにしろ。出来るのは、始まりを創った俺達だけなんだから。』
この異世界に来た最初に、記憶の中のエアシュティマスに言われた同じことを呟く。そうして次第に少年の纏う淡い光が消えていく。
『 終末の幕は、お前が引くんだ 』
薄く淡く消えていく少年の幻影を目で追う俺の耳に、最近ご無沙汰だった声が飛び込んだ。
低く響く大人の声が囁く。
『 ようやくエリドゥに来れたな。愛しいタシ 』
強張る俺の目の前、風に乗って男の影が現れた。
深く濃い青色の瞳を微笑ませ、囁く。
『 あの時のお前は随分と思い詰めておる。まぁいい。彼の残した意思を使わしてもらおうか 』
「エアシュティマス……」
何をするつもりだ。そう言おうとした途端に一陣の突風に目を伏せる。
巻き上がる水滴に濡れて顔を上げた俺は、息をのんだ。さっきまで昼間だったのに、夜の世界が広がっていた。神殿は常夜灯の明かりに照らし出され、川面に反射したその煌めきはまるで星空のよう。
どこからか三線をつま弾き恋歌を歌う声も、微かに聞こえる。そんな穏やかな夜の川面を、月の光を浴びてさっき消えた少年が走っている。
河の水面の、その上を駆けていた。軽やかに風に乗って水面を走っている。月の光に照らし出された彼の姿は、まるで映画俳優のようだ。あれが、過去世の俺なのか。
前を見つめる目に、強い意思を感じる。何か深い確信を秘めた目に、ドキリとする。俺はその時、何を感じていたのだろう。なんであんなに必死なんだろう。何が、彼を突き動かしているのだろう。
分からないまま、水面を駆ける彼を追いかけるように見つめていた。これはどこかで観た光景だ、と思い出しながら。
どこまで走ったのだろう。遠くに見えていた川岸が随分と近い。停泊している大きな商船からボートのような漁師の船になっていた。
さすがにここまで遠かったのだろう。肩を上下にして息を乱した少年は、ゆっくりと歩きだす。河が流れるその先へ、迷わず歩いていく。二つの川が合流し、巨大な一つの河となる先端へ歩みを進める。
途端に、自分の心臓が跳ね上がった。葦が生い茂る、その場所を見た途端に腹の底からゾワリと何かが湧き上がる。
『 ほら、そこだ 』
耳元で聞こえるエアシュティマスの声に、震えが止まらない。
そうだ。ここだ。ここから全てが始まったんだ。始めたんだ。俺が。
目の前の少年が、月光に照らされた世界で唄を紡ぎだす。
やめろ! やめろ! その唄を唄ったら『世界』が終わる!
『世界』が? そう、『世界』が。
その『世界』は、この異世界か? それとも、それとも……何だ?
自問する俺の目の前で、ゆっくりと幕が下ろされていく。それでも、耳元で唄が聞こえる。
呪いの唄。身の毛がよだつほどに恐ろしく、悍ましく、儚く、美しい唄。終焉と始まりの唄。
「……さま! ハルキ様! 」
「っ……あぁ、うん」
「何があったのですか?! お顔の色が優れませぬが……汗も酷いですね。陽の光にやられたのでしょうか」
狼狽えたヨハンの声と顔を拭う感触で、悪夢から覚めたのを実感して大きく息を吐き出した。
軽く頷くと「ただ今、水を用意します故に」と言い置き、帆柱の向こうへ走っていく。
エアシュティマス。あんた、なんてもの思い出させるんだ。
朦朧としていく意識で、毒ずくしかできない。耳にこびりついて離れない唄から、意識も離せない。
あの少年を支配していた絶望と怒りが、無意識の底に隠していた自分の闇に火をつけたのを感じた。
残虐な自分が、腹の奥底で笑っている。ダショー様と呼ばれる自分を笑っている。
眩暈がする。
どこからか下水の臭いが漂う下町の小路に照りつける灼熱の陽射し。この中を歩くのは俺達しかいない。薄いサンダルの底から地面の熱が伝わってくるのは気のせいじゃない。
ヨハンの知り合いに会う為に、貧困層の街を歩き続ける。船で着いた上流の、河辺の集落から少し歩いた所の、そのまた奥。先頭をあるくヨハンは、迷う事なくさらに奥へと歩みを進める。
あぁ、タクシー拾えたらいいのになぁ。
不意にこんなセリフが頭をよぎり、自分がかなり疲れているのを自覚する。ヤバいだろ、この精神状態。
エアシュティマスに見せられた幻影のせいだろう。酷く気持ちが悪く、気だるい。自己嫌悪の固まりな、この気持ち。
「だからオレの船で少し休んだらどうだい? テン兄ぃ、そんなに急がなくても」
「急ぎの用だ。だからお前は戻れって」
「何だよ、さっきから。オレはそんなガキじゃねえ。兄ぃ達こそ、都に慣れてないんだからさ」
「いや、道は分かる。だから貴方は帰った方が良い」
「夕方までオレ暇だもん。それにホラ、この兄ちゃんフラフラじゃん。大丈夫かよ」
「「大丈夫だから」」
「いやいやいや、全然大丈夫に見えないし」
視界がぐるぐる回る。気落ち悪い。遠くなる聴覚の向こうで、テンジンとヨハンがラヴィと押し問答という漫才を始めるし。
吐き気がこみあげ、生唾を飲み込む。こんなに暑いのに、冷や汗がでない。おかしいな。
「ほら、あんた少し休みなよ」
『いや、大丈夫だから……君は帰ったほうがいい』
「は? 」
ラヴィをこの騒動に巻き込みたくない。
「どこで深淵が見てるか『分からないし』、水鏡が……」
今、俺は何を話してる? 日本語が出たような気がする。自分の声すら遠くなる。
ヨハンとテンジンが焦った声で何やら話し、どこかの木戸を何度も叩く音がする。
あぁ、自分の体が重い。指一本すら、呼吸すら重い。
思い通りにならなくなった体を、陽に火照って熱い日干し煉瓦の壁に預けて喘ぐ。熱射病か、それともさっきエアシュティマスに変なものを観せられたせいか。
もうどっちでもいい。少し休みたい。涼しいところで。一滴の水でいいから欲しい。
口を開けて呼吸しても、胸が苦しい。陸に打ち上げられた魚のように、水と酸素を求めて喘ぐ。
「ここか? 誰もいないようだぞ」
「いや、確かにここなのだが」
「引っ越したのか? なら、他に頼れる者はいないのか」
「だから船に戻ろう。一旦戻ってから」
「お前は入ってくるな! 」
「けど、この兄ちゃん倒れそうだぜ? 」
「分かっている! 」
ヨハン達の声が切羽詰っている。俺のせいだけど、指一本も動かせれない。力を失った足の関節が崩れ、太い腕が素早く脇の下を支えてくれた。
申し訳なさと焦りだけ募るけど、二人に脇を支えられて立っているのが精一杯。
あぁ、急に視界が暗くなる。とうとう両足の関節のスイッチが切れて、姿勢が崩れ落ちる。地面に頭をぶつけるのか……痛いのは嫌だなぁ。
そう思いながら意識遠のく寸前に、何か丸太のようなものが俺の体を受け止めた。
チクチクとしてモサモサとした、感触。小学生の頃に飼育係で世話をしたウサギの毛ざわりを思い出す。
あぁ、こんな時に思い出してる事じゃない。俺、重症だ。
「サイイド! 」
ヨハンの声が喜びに満ちて鼓膜を響かせたのを最後に、俺は意識を手放した。
こんなダショーで、申し訳ない。声にならない謝罪だけど。
次回,10月23日 水曜日に更新予定です。