90 密入国
まだ暗い辺りを覗きながら、ゆっくりと体を光の華の雌しべから出していく。クマリ沖の海と比べて、暖かく湿った空気を肌で感じながら、肉体を意識して復元していく。
「急いで出なくていいぞ。手足を意識していけばいい」
恐々と蕾の中で粒子のままでいる二人の意識に声かけ手を引っ張ってやりながら、目を凝らす。
やっぱり、だ。
エリドゥはクマリより西に位置するために夜明け前というより夜中で、満天の夜空に星が光っている。その星明りで辺りをうかがえば、船の影もなく波の僅かな水音しかしない。
「ここは、聖下の仰る通りに夜ですね……星から見て、宵中を少しばかし過ぎた辺りでしょう。夜明けまで二刻はありますね」
「体は大丈夫か? ヨハンは? 」
生まれたての子牛のように重力に負けて腰が抜けたヨハンが、声も出せずに何度もうなずいた。
海上で咲いた巨大な蓮の華の上で、いつまでもいる訳にはいかない。
ゆっくりと足を片足ずつ引き抜いたテンジンが、確認するように関節を動かしながら「明るくなる前には町中に入りたいですね」と的確な事を進言する。
ごもっとも。
「俺はその手の事は素人だからテンジンに従う。どこか身を隠せる場所があればいいけど」
「エリドゥはガキの頃にいましたし、親父の船乗り仲間もまだ健在してるはずですから、まずは勝手知った下町へ行って準備を整えたいと思います。おいお前、そこからの策ぐらいあるだろうな」
「え、えぇ。深淵で共に学んでいた和尚がいます。私が雲水で神殿を出た時に彼も下俗したので……彼に助力を頼もうかと」
息も絶え絶えにそう言い、震える手で乱れた髪をかき上げた。星明りで照らされた金髪が、背景の華に良く似合う。
「そいつ信用できるのか」
「彼は神殿を出て洛外で人々の喜捨で生活しています。決して神殿側の人間ではありません」
「ふん。くれぐれもダショー様の足を引っ張るなよ雲水殿」
「エリドゥは華の都ですから、あなたのような田舎者では歩きずらいでしょう。私が案内してさしあげますからご安心なされよ」
弱弱しかった声が、途端に張りがでてテンジンの顔を見返している。
この二人は相性が悪いんだろうか。顔を合わせた途端に牙を剥いていがみ合い始めた。
先が思いやられる。
「時間が惜しい。テンジン、玉獣で港まで行くぞ。場所は任せるから先頭をいってくれ。ヨハンは俺が乗せるから」
「そんな! 聖下と一緒に玉獣には」
「ダショー様……ハルキ様は謀反者を背に乗せるなど危険」
「『ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇぞオイ! 』」
いがみ合っていた二人が、同時に振り返り顔を凍りつかせて固まる。
思わず出た日本語でも罵倒の意味を感じ取ったのだろう。柔らかな表現に変えて、現地語でもう一度。
「ここはケンカしてる場合じゃあないだろう、オイ……って言った。うん」
固まった二人はまだ動かない。刺激が強すぎただろうか。
「こっから先、誰かに俺の素性を感ずかれるのはマズイから、絶対に聖下とかダショー様とかで呼ぶな。せめて名前で呼べ」
二人が同時に顔を青ざめ反撃しそうになるのを、右手を出して制する。
「それぞれ専門的な所は任せる。目的を忘れないでくれ。ヨハンの妹を助け出して深淵を探りに来たんだ。その為ならなんだってするし、何だって厭わない。生きて四人で帰るつもりだ。だからここで喧嘩をするな。これ以上するなら、もう一度星の気脈通じて送り返してやる」
今度は何も言わずに、二人が何度も首を縦に振って賛同した。
やりすぎたかもしれない、少しばかし反省をしたが「オイラはハルルンって呼んでるけど、これはオイラとハルルンの間に愛があるから許されてるだけで真似すんなよ」という、影から勝手に頭を出して進言したシンハの後頭部を思いっきり蹴り上げる。
愛ってなんだ。愛って。
濁った海水のニオイと一緒に、香ばしく焼かれた魚や香辛料の香りが漂ってきていた。
低い船底に這いつくばり、ゴザをかけて隠れてじっと辺りの物音や気配に神経をとがらす。横で息をひそめるヨハンから、盛大な腹の音がしたので思わず声に出さずに口元で笑う。
俺は食事をとってきたが、ヨハンはちゃんと食べてきたのだろうか。間者を欺く為とはいえ、処刑される前では食欲も失せるだろうから食べれてないのかもしれない。
だとしたら、この状況は辛そうだ。
夜明けより前の真っ暗な闇に紛れ田舎の小さな漁港にたどり着いて、テンジンは迷う事なく人様の船を盗んだ。帆柱もない、公園のボートよりは大きい小舟。
年期が入り、それでいて船体も櫓も手入れされた感があり、船底に転がった編みかごも網も使いこまれて装備に不足はない。
「エリドゥの水路に入るまで借ります。大丈夫です。御礼を乗せて海へ押し返せば、持ち主にちゃんと届きますから」
明らかに泥棒じみた行為に戸惑った俺に、笑みを浮かべ素早く錨を引っ張り上げて説明をしてくれた。
漁民は海という荒々しい場で仕事する分、仲間意識が非常に強いらしい。だから行方不明になった仲間の船が見つかれば、すぐに持ち主に連絡がいく。逆に船が盗まれることがあれば、盗人を捕まえようと仲間が怒り狂って探す。
つまり、借りるなら手早くエリドゥへ入らなければいけない。
日が昇るまでは三人で櫓を漕いだりしたが、テンジンはあの船頭の息子だけある。ヨハンと船底に隠れてからも、スピードは落ちることなく順調に大きな水路に入ったようだ。
時間がたつにつれて櫓を操る船の音、互いにぶつからないように船頭が掛け合う声、物を売り買いする声や罵声、どこからか美味しそうな食べ物のニオイが大きく、多くなっていく。
エリドゥの下町とは、どれほどの大きさなのだろう。
薄れた記憶には中州にそびえる神殿と、河をはさんで広がった都市がぼんやりとある。碁盤のように水路が引かれた上流階級のお屋敷が並ぶ地区。対岸に縦横無尽に水路が広がる商業地区と、その周りに無秩序に立ち並ぶ下町。隠れるにはもってこいのスラム街だ。
「今なら大丈夫です。出てきてください」
押し殺した声とともに、頭上のゴザが取り外される。
温かな陽射しが降り注ぎ、穏やかな南風が肌を撫でた。大きな石橋の下へ船が滑っていく。
流木や何かの食べかすかの塵が水面に漂い、何やら腐った異臭もする。一瞬、ミルとテリンを失い彷徨っていた時期に気持ちが引きずられた。
世の中の全てがどうでもよく、自分の事だけで精一杯だった頃だ。橋の下や川辺というのは、色んな物も人の気持ちも澱んでいて、それは屈折した心にとても心地よく感じた。
自分も流木や流れ漂う物と同じだったからかもしれない。
橋の下は風が当たらないので野宿するんは最適だったんだよな。そう思い出して、ふいと橋げたを見ると積み上げられた藁の中から真っ黒な顔に好奇心で光る眼がこちらを見つめている。
そして視線は一つ二つではない。物言わぬ視線を感じて、首筋の毛が逆立っていく。
「早く。ここはあまり留まらない方がいい」
岸に降りた俺たちに、素早く竿や編みかごを持たせてテンジンは船を水路へと押し出した。
無人の船が左右に揺られながら、ゆっくりと水路を漂っていく。
「船底に幾ばかしの金貨を置いてきました。船主なら、意味に気づいてくれるでしょう」
ヨハンの言葉にうなずく間もなく、テンジンに手を引っ張られるように川辺から離れ街の喧噪の中へと入っていく。
路地の上で互いの家々を繋ぐように張られた洗濯物の下をくぐり抜ければ、小山のように荷物を積んだ商人や子供が駆け抜ける。
食事の支度をしているのか、薪を燃やす煙が幾筋か立ち上っている住宅地。といっても二、三階建ての薄汚れた集合住宅ばかりで日当たりも悪く地面もジメジメとしている。異世界の俺から見ても、あまり治安がよさそうには思えない。
「この辺りは、移民が多い地区ですからね。でもある意味安全ですから」
「移民? 」
「クマリからの移民が多いんですよ。普段は街の支配層や地元民から胡散がられる分、同じクマリの民には寛容なんです」
空気を震わさずに囁いた言葉に、思わず顔を上げる。
十年前の戦で追われた人々は、こうやって、こういうスラム街で生活している。橋の下で感じた幾つもの視線もそうなのかもしれない。
国を追われて家財を失った人々が行き着く先を考えれば当たり前だが、その現実の中に立って肌で感じて、改めて感情が揺り動かされる。
「国を失った民は憐れです」
ミルの言葉は、まさにこの現実だ。この一部だ。
「そんな顔をしないで下さいよ。先の戦は起きるべくして起きたんだから。クマリの連中はそう思ってますよ。俺も親父も含めて」
「……テンジンは、クマリなのか? 」
「じゃなきゃ、ここに詳しくはないですよ」
言ってませんでした? と返されて頷く。確かに言われてみれば、ミルや双子達のような黒髪に日本人ぽいあっさり系な顔立ちだ。
速足のテンポは崩さすに、だんだん往来が多くなる小道を迷わず進むテンジンを追いながら、頭の中で疑問を組み立てる。
「じゃあ、エリドゥの地理を知ってるのはここに住んでたから? 」
「一時ですが。まだ俺がガキん時に唯一の財産になっちまった船でエリドゥに着の身着のまま逃げて。今から行くのは、そん時にお世話になった親父の友人です。まぁ、親友というか悪友というか、良く似たもん同志で荒っぽい人ですけど」
声はでかいし酒飲みだしいい加減だし。
恩人のように語っていたわりには、かなりの扱き下ろしっぷりだ。
「あ、でも悪い人ではないし。今のは本人には言わないで下さいよ。あぁ、こっちです」
目の前に陽が降り注ぐ路地が見えた。道幅も広く、行き交う人々の身なりも整い両端に佇む店舗も整然としている。
ところが、テンジンはその手前でまた小さな路地に入ってしまう。まるで迷路のようだ。
夏休みに入るので,お休みします。
次回は9月11日 水曜日に更新予定です。勝手をしてすみませんが,よろしくお願いします。
楽しい夏をお過ごしください。