89 出立
空と海の境界線がゆっくりと白み始める。
一刻一刻と変化していくそれは時間の境界すら消していくようだ。もう戻れないという流れを見せつけられる。
「大丈夫か? 」
船頭に脚を投げだし座る俺の隣から、夜明け前の海を眺める視線を変えずに問うてくる。
その直球な言葉に、素直に否定した。
「本当は怖い。逃げ出したい。今すぐ帰りたいけど、もう帰れないからな」
「異世界にか? 」
「そこにも、『日本』にも帰りたいけどね、今の俺にとっての故郷だから。家も、友達も、職場も全部捨ててきたけど……後悔はしてないけど」
まだ小学生の夏休みだった。小旅行で行った小さな島を思い出していた。やたら早起きな祖父と宿を抜け出し海辺を散歩した時の光景が重なる。
真っ暗な海と空が、うっすらと光を帯び始めて色を見る間に変化させていく美しさに飲まれていた。初めて見る地球の端っこに、その水平線の向こうからタンカーが小さく姿を見せていく様に、途方もない大きさを実感して。星の大きさと、時間の大きさに圧倒されて言葉もなく魅入っていた。
進んでいく時間と空間の速さを体感して。
全ては戻れない。そう思い知らされた。当時は小さくて圧倒された感覚を言葉にできなかったけど、それはこういう事だったかもしれない。
「ダショーとして名乗った事は後悔しているのか」
率直すぎる黒雲の問いに、思わず吹き出す。夜明け前の冷え込んだ闇に、白い息が浮かび上がる。
「そりゃ後悔してるよ。いきなり暗殺されかかるし、見知らぬ人が自分に対して頭下げてるし、ようやく慣れた知り合いも態度がヨソヨソしくなるし。ずっと皇族として生きてる黒雲とは違って、俺は庶民で生きていたからな。『一般市民』の『大衆』だからな」
数え上げればきりがない。この世界に来て感じていた恐怖と重圧が、精神的な柱というダショーとなる事で目に見えて迫りくるのだから。
そんな俺の顔を見て、黒雲は不思議そうに頷いてから首を傾げた。
「今までの過去世でもダショーをしてきていただろうに」
「過去の俺は大部分が水底の小部屋で祈っていただけ。深淵の神殿で神事やる以外は動いてない。自由にしてたハルンツの時の記憶はほとんどないし。でも、まぁ……」
ふいと、天を見上げた。
底なしの闇が広がり恐怖を感じる漆黒の闇が広がる空の下にいる。髪の毛一本をも清めるような冷気を帯びた清らかな夜明け前の空気。耳を澄ませば船底を叩く波音の向こうから聞こえる海の精霊の唄。
自分の中から響く音と重なる唄が心地よい。
「ダショーの名乗りをあげたから手に入れたものも多いし。怖いけど、怖がっていられないしな」
「そうだな」
黙って水平線を見つめたまま、黒雲が呟く。
「姫宮と共に過ごせる」
「あぁ」
きっと出来る、なんて甘い事を言わずに。そうなればよいな、なんて憶測も言わず。いっそ清々しいほどの肯定で前向き発言。
頷く俺も、口の端に笑みが浮かぶ。
どれだけ時間がかかっても、そりゃ出来るだけ早いに越した事はないけど、ミルと生きるためにこの異世界に来たのだから。ダショーと名乗ったのだから。
その前に広がる難題は大きすぎる。
名乗る事で手に入れた人脈の代償は、暗殺の危険だけじゃない。
ダショーを頼らざるえない人々の支えになる事だ。生活を脅かされたクマリの人々に、日々の食料と安心して暮らせる場を用意しなきゃいけない。
つまり、国家の建設だ。
最低限の、そして共生能力を持つ人々の共同体。とてつもない重荷だけど、それが成し遂げられるなら、深淵にとって大きな脅威になる。
「大きな代償がサンギ殿に出来たが」
「クマリが国として独立するなら、自分達が食べるモノぐらいは調達できなきゃいけないよ。人に頼って独立なんか出来ないからね」
「一年で出来るのか? 」
「そこはやってみなきゃ分からない。けど、これだけのものを借りたんだから。代償は大きいさ」
クマリの再興の為に必要な資金と人脈の援助の代償は、新たなニライカナイ。船で生まれ年老いていく彼らニライカナイの人々に落ち着ける場所を用意すること。
「クマリの片隅でいいさ」とサンギはいうが、そんな訳にいかない。
多くの人に動いてもらわなければいけない。姫宮としてクマリの民の中心となるミルがいない今、ダショーが立たなければ出来ないだろう。
俺はただの国語教師だけれど、真ん中で背筋を伸ばして立っていこう。どんな泥も被っていこう。
このままじゃ、いけないのだけは確かなのだから。奪われたミルの事を嘆くだけでは、何も変わらないのだから。
「さぁ、夜明け前だ。こっちの準備は出来たよ」
サンギの声に振り返ると、幾人もの素破に囲まれて二人がやってくる。
丈の短めの野良服に着替えたテンジンとヨハンが寒そうだ。剥き出しになった手首とさすり、首を傾げる。
「確かにエリドゥの都は常春の都ですが、今すぐ行けるのですか? ここからだと船で一カ月の行程の場所ですよ」
「冬至の祭のドタバタに紛れるなら今この瞬間にいかなきゃ。エリドゥの町中で真冬のここの恰好だと浮くじゃないか」
「ですから、今すぐというのは……」
白い肌を青白くさせ震えるヨハンと比べ、テンジンはさすがに鍛え方が違うのだろう。寒さで何度も手を合わせて温めていても背筋はピンと伸びている。
革命で城を追われた王子と護衛の兵士みたいだな、と怒られそうな事が頭に浮かんでしまう。
「時差とか詳しく説明する時間ないしなぁ。とにかく、船も『飛行機』も使わない。えぇと、宙船みたいなやつも使わない」
思わず日本語が出てしまう。いきなり知らない言葉が俺から飛び出して、不思議そうな顔をする黒雲とサンギ達に苦笑い。
羽織っていた上着と首元に巻いた手ぬぐいを取り、あらかじめ着ていた野良姿になる。急に冷気に触れた肌が見る間に鳥肌になっていく。
「今すぐ、ここからエリドゥへ飛んでいく。間に合わないから玉獣も使わない。ハルンツの時にやってたぶりだから……五百年ぶりだけど、まぁ、何とかなる」
多分きっと。そんな希望的思惑は言葉にせず、甲板に降り立って船縁に歩いていく。
空に赤みが差し込んできた。夜明けまであと少しだ。
「ハルンツ卿の、ということはまさかアレか」
「今回は雲は使わないけどね」
見る間に引きつった顔になった黒雲は答が分かったのだろう。
「体を粒子に分解して星の気脈を通る。それなら、一瞬でエリドゥに行ける」
「あ、あんたそんな事、そりゃあ御伽話でハルンツ卿が空から舞い降りたとかいう、アレかい?! 」
「深淵の巫女様と一緒に空飛んできたっていう、あれは御伽話で……じゃあ、オレ達がダショー様に運ばれたっていう水上の華は本当の事なのか……」
「おとぎばなし? そうなってるのか? 」
眼を白黒させるカムパとサンギ達に、今度は俺が首を傾げた。
浜辺での宴で、酔っぱらった俺が唄った唄で星の気脈に入って思い出した。ハルンツだった頃に、こうやって体一つでニライカナイの人々を大陸に運んだ事を。
それが五百年後に御伽話になっている事に驚きだが、まぁ、そんなもんかもしれない。菅原道真が左遷されて雷神になったのと同じレベルなのか。
「まぁ、それはいいや。とにかくその手で行く。手荷物は少な目で頼むよ。出来るだけ物は少なくないと再現するのに手間取るから。まぁ、ある程度のお金があればあとは現地調達すればいいし。あと、水面の下に入ったら抵抗しないで身を任せて。変な力や意思が働いて妙な事になっても困るし……怖い? 」
心得を話しているウチに、辺りが静かになった事に気づいた。
振り返れば、真っ青に立ち尽くす二人の姿。そりゃ、そうかもしれない。黙って、決心を待つ。
一陣の潮風が甲板を撫でてから、口を開いたのはヨハンだった。
「私の全ては聖下に委ねると決めましたから」
「うん」
「ヨハンだけ連れて行くのは危険ですからね。帯刀は許可してくださいよ」
「うん。頼りにしてる」
青白く引きつった表情で軽口のように言う二人に笑いかけ、深呼吸する。強がっているのは俺も同じだ。言い出した俺が怖がってどうする。
いつのまにか握りしめていた手に気づき、ゆっくりと開き、力いっぱい柏手をする。心地よい音が響き、高まっていた動悸が落ち着いていく。腹の底を意識する。すると鏡のような水面が体の内側に広がっていく。心地よい静寂。
潮のニオイを胸いっぱい吸い込んで、吐き出す息が震え造る音は懐かしい旋律。
「……帰っておいで 荒れる波の向こうから 帰っておいで 私の大切な宝よ その手でもう一度抱いておくれ」
閉じた目の向こうに広がる夕日に、影が一つ。
エアシュティマス、記憶の底で眠るエアシュティマス。どうか力を貸してくれ。俺も、ミルを待っているんだ。迎えにいくんだ。だからどうか、導いてくれ。
「泣け泣け海よ さめざめ唄え」
唄いあげる旋律に、光の粒子が空気のはざまから湧き上がる。海面から漂いあがる。僅かに青みを帯びた光の粒子が集まって、海面が光りだす。
この光の向こうは星の気脈。大丈夫、何度も入った。この異世界に来る時だって、ハルンツの時だって。
見えない領域に入る恐怖を理屈で押し込めて、ヨハンとテンジンに手を差し出す。
「絶対に手を離すな。怖かったら、偉大な神様とか拝んでろ」
「私が信じるのは聖下お一人です」
ヨハンの迷わずに言い返したセリフに苦笑いすると、テンジンが真顔で頷く。
「見知らぬ神より、目の前の勇気ある人を信じますよ。オレは」
「ば……じゃあ、サンギ、カムパ。テンジンを借りるからな」
馬鹿かお前、という言葉を飲み込んで言い直す。
お前ら、良いやつすぎ。
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
「お土産期待しててくれ」
「それでは吾は深淵の守り水を所望しよう。ミンツゥの分もな」
お前、それはダショーという俺の前でいう言葉か。素破の中から漏れる笑い声に、幾ばかりかの緊張がほぐれる。
僅かに軽くなった足で船縁に上り、二人に手を差し出す。
「帰りは四人だな」
「はい! 」
「手を離すな」
「はい」
寒さと緊張で震える二人の手を強く握り、光る海面を前に深呼吸をした時だった。
甲板を叩くように来る足音と共にシンハが駆けてくる。
「お待たせっ。オイラも行くよっ」
ミンツゥに挨拶に行っていたシンハがギリギリで戻ってくる。いざとなれば影から呼べると思っていたのだが。
そんな俺の疑問に気づいたんだろう。朝の日で微かな影に潜りながら、鼻を鳴らした。
「今一緒に気脈をくぐらないと、いざ呼ばれた時に間に合わないといけないからな。ハルルン一人で人間二人運べるか? なんならオイラが」
「大丈夫だから集中するときに喋りかけんなっ」
ここ一番の集中で声をかけられた俺が怒鳴り返すと、逃げるように影に慌てて吸い込まれていく。
あぁ、もう。
深呼吸を繰り返し、両手を強く握る。
お互いに冷たくなってしまった手を、強く握り返されて覚悟を決めた。
「行くぞ! 」
力を込めて宙に踏み出し、重力に引っ張られるままに光る海面に落ちていく。
身を包むのは夜明け前の冷たい海水ではなく、心地よい光。水面に触れた瞬間に、融けていく。混ざり合う。光の道へ。
次回 7月3日 水曜日に更新予定です。