88 夜明けは,そこに
差し出された器を、ゆっくりと口元に運ぶ。零れる水が床に黒い染みを作り出す。
乾ききった喉に、甘みを香らせて滑り落ちていく水はまさに甘露。
深く息を吐き出して、椅子に寄りかかる。
何とか、クマリの人達に冬至の祭りをやり遂げてもらえればいい。
「そなた、本当に強いか弱いか分からないな」
「……俺も分からないよ」
「今生のダショー様は面白い」
面白いと言われようが、進むぞ俺は。
もう一杯と禄山に空の器を差し出し、注がれた水を一息で飲み干す。気合だ! やらなければいけない事は山積みだ。
「冬至の祭を何とかやり遂げてもらえれば、いい。俺はやることがあるし」
「そなた……本当にクマリを再興させるのか。後李はどうする? 」
「精一杯を尽くす。色々、黒雲に言われて気づいた」
穴があったら入りたい気持ちを思い出して、視線が泳ぐ。
頬が熱くなる。
「まず、足元を固めるよ。共生者達が安心して生きていける場所を用意するのが、ダショーとしての役目かなぁと思って。俺が出来る事を一つ一つやってくよ……世間知らずだから勉強しながらさ」
「そう、か。ならばそれでよい」
黒雲は壁に寄り掛かり、深く息を吐き出す。何か背負った重いモノを背負いなおすように。
「ひとつ聞いてよいか。何故にそこまでクマリに肩入れするのだ。顔知らぬ両親の眠る国だからか、共生者の集まる場所だからか、それとも誰かの為か」
「う、ん。まぁ」
ミルの顔が浮かび、また視線が泳ぐ。あぁ、不審な動きをしてしまう。
「それも、あるかな」
「何だ、女か」
「何だはないだろ。そんな簡単な感情じゃない」
「おう。惚れているのだな」
あらかさまに言われると、恥ずかしい。残った水を一気に飲み干して誤魔化すと、シンハが寄り掛かってくる。
「ハルルン、照れてるのか? 照れてるんだな~。そうだよなぁ。ミルにぞっこんだもんなぁ」
「喋るな馬鹿! 」
「ほう。まさかその名は姫宮の事か。それはまぁ、驚いた」
「言うなよ! 誰にも言うなよ! 」
「言わぬ。そなたこそ、ミンツゥにばれぬようにな」
「なんでそこでミンツゥなんだよ」
思わず吹き出してしまうと、黒雲と禄山が妙にまじめな顔をして俺を凝視した。
その真剣さに、笑うところではなかったかと頭の中で逆再生をするが……おかしくないよな俺。
「分からなくてもよいが……とにかくミンツゥに姫宮の事は行ってはならぬぞ。……いや、分からないのは忌々しき問題か」
「事は荒立てたくないので、私が注意を」
「何でミンツゥが関係あるんだよ」
俺の言葉に悲しみを一瞬浮かべた目を伏せ、黒雲が黙りこんでしまう。今の言葉の何がダメだったのだろう。
急変する部屋の雰囲気が居心地悪い。助けを求めるように禄山を見れば、苦笑いをして部屋を出て行ってしまう。
ミンツゥにミルの事を話しちゃいけないのか。とりあえず、そういう関係なのか。
「好きな女子の為に身を挺し、国を再興するのか……それが出来れば、良いな」
「出来ればいいな、じゃなくて。やり遂げるつもりだけど」
「姫宮殿は幸せ者だ」
「黒雲も、そうしたい相手がいるのか?」
何気にそう思って口から出た言葉だった。まるで「そう」やり遂げたいのに、出来ない苦しさのような黒雲の言い方に思わず出た言葉だった。
黒雲に、好きな人がいても何もおかしくない。
後李帝国の皇族で、臣下に落とされたといえ将軍で、見た目も良い好青年だ。腕っぷしも強くて、信念もある男。恋に悩むような要素がないのだけど。
「好きな人」
「吾も皇族の中ではとっくに適齢期を過ぎておる。それなりに縁談は来るが、どれも計略のニオイがしてたまらぬな」
はぐらかされた。笑っておどけるように言う言葉に違和感。
隠したい思惑を感じて、開けかけた口を閉じた。
何も今は聞かない方がいいかもしれない。黒雲から、思わず視線をそらした。
「さて、役者がそろうかね」
騒々しい足音と共に扉が開かれてサンギ達が入ってくる。
重くなりそうな雰囲気を一掃された事に思わず息を吐き出す。安心した事に気づいたのだろう。シンハが頬を舐めて冷たい鼻を押しつけてからようやく足元に寝そべった。
入ってきたのはサンギとカムパとテンジンと数人の素破に囲まれたヨハンだ。
何も説明されていないのだろう。茫然とした紫の瞳が俺を見つけた途端、大きな目をさらに大きく見開いて固まる。
「ど、どういう事だよ! さっき浜で生臭いコトしたんだろ? この変態、殺されたんじゃあ」
「玉獣のシンハが騙されたんだから、間者もきっと騙せたな」
「見事に成功だ。よしよし」
満足げなカムパと軽いパニックになったシンハを見比べて、少し重荷がおりる。
ヨハンを見張り深淵に通じている道を、一つだけ騙せた。時間が稼げる。
「さっき浜で起こった処刑は偽物だよ。動物の血を幕に撒いて、処刑したようにみせてもらったんだ。ヨハンを桶に入れて船に乗せて、沖で遺体を沈めてるように桶だけ沈めて、ヨハンは暗闇に紛れて船に連れてきてもらった。驚いた? 」
興奮したシンハの首元を何度も撫でて、ヨハンに微笑む。
「驚かせて、すまなかった。紛れた深淵の間者がどこにいるか分からなくて。一度死んだことにしないと深淵の監視から逃げれないからね」
「このような手を、よくもまぁ思いつくものだ。それで、本当にやるのか? 」
黒雲の呆れたような感心したよな言いように、頷く。
「深淵の神殿も冬至の神事の真っ最中だ。その間に、ハンナを助け出そう」
「い、妹を?! この二晩で深淵へ行き、妹を連れ戻すのですか?! 」
衰弱して掠れた声に、喜びと信じられないという感情が混ざって響く。
足元のシンハが飛び上がるように起きて、猛烈な勢いで尻尾を振り始めた。
「という事は深淵に行くんだな! いよいよ姫さんを助け出すんだな! 」
「いや……いきなりミルを救い出すことは出来ないよ。アイはミルを捕える計画を立てた時から俺も捕えるつもりだったんだ。深淵は罠が張り巡らせてあるだろう。ミルの近くには迂闊には近づけないよ。十分な準備がいると思うから、事前に探りたい。でも」
言葉を切って、ヨハンを見据える。
目の前で茫然と、興奮と不安で立ち尽くす彼が、血色が悪く薄汚れてもどこか王子様然としたヨハンが、頼みの綱なんだ。
深淵で長く生活をして、この中で最新の深淵を知るヨハンとその妹のハンナが必要だ。
「クマリの族長、姫宮を助けたいのに俺は何も知らない。水底の小部屋に監禁されてたし、まだ思い出せない記憶が沢山ある。俺は深淵の神殿の内情には詳しくないから、探る事も手立てを考える事も難しいんだ。だから、ヨハン。神官をしていた君と妹の知識が欲しい」
ミルを助けたい。
でも、俺は何も分からない。神殿の中の構造も、神官達の動きも、常識さえも。
気持ちははやるけど、何も知らない俺が突進しても簡単に深淵に囚われてしまうのは間違いない。それなら、内情に詳しい人と協力したほうがいい。
筋道立てて考えれば、それが一番だ。早くミルに会いたいけれど、一刻も早く助け出したいけど、俺一人では何もできないと半年の流浪で身に染みて分かった。
俺に必要なのは、目の前にいる雲水の青年と囚われた妹の巫女だ。
「俺は正直、まだ記憶を全て思い出せてない。だから、呪術だって不安定だ。この世界の常識だって知らない事が沢山ある。はっきり言って、忍び込むにはお荷物になると思う。でもミルを、姫宮を助け出したいんだ。きみの妹をそのために救いたいなんて、身勝手な事を言っていると思う。でも、力を貸してほしい」
ヨハンも妹のハンナという子も危ない目に合わせてしまう。今以上に身の危険がある事を、俺の勝手で頼んでいる。
だからダショーとしてではなく、一人の男としてお願いする。
深く、頭を下げて。
「一緒に深淵に行ってくれないか」
「ダショー様……! 私はあなたを殺そうとしたのですよ?! 」
「でも、本気じゃなかっただろ」
二度も名を呼んでくれた。逃げるチャンスを与えていた。ダショー相手に包丁振り回すなんて物質的な方法がいかに無謀か、深淵の神官である彼なら十分に無駄だと分かっているはずなのに。
頭を上げ、まっすぐに紫の瞳を見て微笑む。
「一緒に行ってくれ」
「……私でよければ、私で良ければ喜んで盾となり道しるべとなります! どうか私をお使いくださいっ」
次の瞬間、ヨハンは濡れた木の床に身を伏せ額を俺の足の甲に押し当てた。
「喜んで聖下の駒となりましょう」
皮膚に押し当てられた唇のムニュッという感触に、本能が拒絶する。それを理性で押しとどめながら、手を引っ込める。
「お前の、ヨハンの覚悟は分かったからもう、その、手とか足に口つけんなよ! 」
中世の騎士が愛する姫君に忠誠を捧げるような、その仕草。
これだけは慣れる事は難しそうだ。
次回 6月19日 水曜日に更新予定です。