87 聖性と恐怖
心もとないランプの僅かな光が照らす甲板で、薄布をもらう。
これで顔の造作は大体は隠せるだろう。サンギに後頭部で結んでもらうと、深呼吸を繰り返すたび薄布が大きく膨らんでは張り付いた。
何度も握り開く手の平に、背中に、嫌な汗が滲み出す。
怖い。そんな感情にとらわれそうになる。頭の隅で「落ち着け」と連呼する自分の声が焦りだす。
体の奥底から湧き出す震えが、足元を揺らす。関節、落ち着け。落ち着け。
睨みつけたら足の震えが収まる訳ないのに、視線を落とした先の自分の影が膨らんで金色の毛玉が飛び出した。
「ハルルン! 何やってるんだよ! 」
半日ぶりの声に、強張って震えていた体が解けていく。
思わずシンハの首にしがみつきたくなっている衝動を、何とか抑えて深呼吸。薄布が邪魔だ。
「ミンツゥは大丈夫か」
「寝てる、っうーか、今のは何だよ! 急に生臭くなったぞ! 何を殺したんだ! 」
「生臭いか」
シンハの慌てぶりに、少し安堵する。玉獣のシンハがそう思ったのなら、ヨハンの監視をしている間者もそう思っただろう。
「おいハルルン! まさか金髪の変態を殺させたとかじゃねぇよな! 」
「少し何も言わないで付き合ってくれ」
首筋の長い毛に指先を埋めて、そっとシンハに触れる。
指先から震えが伝わったのだろうか。怖くて怯える俺に気づいただろうか。
緑の瞳が、心配げに俺を見上げた。
「行こう。付いてきてくれ」
「行って来い。禄山はハルキに付いていけ。どうにも下手をしそうな気がする」
「御意」
黒雲が不敵な笑みを寄越し、帆柱にもたれかかる。ここで待っていてくれる人がいる。
一人じゃない。ここまで頑張れたんだ。異世界で生き抜いてこれたんだ。この先の事を、何を怯える。
胸元に下げられた指輪を、着物の上から確認した。大丈夫。
サンギに目で合図されて黒雲に頷き返す。開かれた小さな船室の扉に、震える足を動かしていく。
テーブルを囲み、上に置かれた薄暗い小さなランプに照らし出された数人の男たちが、目を見開き俺を見つめている。足を踏み出す一歩も、鼓動さえ耳を澄まして聞かれているような錯覚。
上座に用意された席に座り、何も言わずに頭から被った薄布を外す。目から上の顔上部をあらわにして、出来るだけ胸を張って、まっすぐに男たちを見据えた。
陽に焼けて、無精ひげに覆われた男たちの顔が、見る間に強張り、赤銅色に染まっていく。
「ダショー様! 」
「まことに、まことに! その浄眼! 玉獣! 」
「あぁ! 本当にダショー様が……何という、何という……」
鍛え上げられた筋肉と、幾筋も浮かび上がっている傷痕。生命力漲る目から迸る興奮の感情。見るからに幾戦もの戦禍を潜り抜けた男達が興奮して固まる様子に、俺は理解した。
ずっと怖かったのは、自分が違う人間になるような気がしたから。俺は、ずっと関口晴貴のつもりだったけど、もうダショーという存在にならなければいけない。それが怖かった。ダショーという、この世界では聖性と恐怖を併せ持つ存在になるのが恐ろしかった。
自分がまるで化け物のような存在になるのが、怖かったんだ。
中身は何も変わらないつもりだったのに、違う人間も演じなければいけない。演じるうちに、違う人間になっていく事を感覚で覚えているから。
今まで生まれ変わって、何度も態度を豹変する人に囲まれたから。この先に背負わされる重責を知っているから。
でも、逃げないと決めた。この立場だから出来る事がある。やらねばいけない事がある。救い出せるものがある。
暗闇の海に飛び出した、あの決心が揺らがないうちに自分を追い込め。
「私は、この地で一度死んだ。そして、今帰ってきた。このクマリの地へ。荒廃してしまったクマリを、憂う。この地から逃げ惑う民を想い憂う」
生まれ変われ自分。演じろ。ダショーという絶対的な存在を演じろ。
まっすぐに男たちを見据え、一人の男に気づく。
茶色い瞳の、優しげな目元の、穏やかな雰囲気の男。
「この地に、民が自らの足で立つようにせねばいけない。その策を、策を……」
彼によく似た、器用そうな手。あぁ、本当に絵筆が似合うだろう。
刀が似合った手だったけど、知性を漂わす雰囲気はよく似ている。
決めていたセリフが、とうとう止まった。ぼやける視界の中、サンギの視線を感じながらも次の言葉が出ない。
なんで、ここにテリンとそっくりの男がいるんだ。
あの嵐の夜に、俺がこの手で大黒丸を突き刺して燃やした肉体が、テリンが目の前にいるんだ。
あの肉を断つ感触が、骨を削り突き刺していく衝撃が、髪が燃え肉が焦げていく猛烈な異臭が、不意に襲いかかる。意識の奥底に鍵を掛けておいた記憶が噴き溢れ、現実を押し流す。奪われる。今、俺は何をしている。この手に大黒丸を持っているのか。
「ハルルン。大丈夫だ」
手の甲に湿った感触が何度も触れる。心配したシンハの舌触りだと気付いた瞬間、思わず自分の手を見下ろして息を吐き出した。
確かにどす黒い血が流れ伝っている感触があった自分の手は、固く握り固められているだけ。
今、俺は何をしている。
そうだ。そのテリンも望んでいた事を、その一歩を踏み出そうとしているんだ。
「クマリの再興と独立を目指す為に、大地の再生を行う為に兄弟である精霊を慰めよ。そして風が種を蒔くように、これを広めよ」
自分の声は、どこまで聞こえるだろう。
テリンに、この地で死んだ見知らぬ母親と父親に聞こえただろうか。同じように死んでいった数多のクマリの人々に聞こえただろうか。
気持ちが、届いただろうか。
興奮と恐怖で思わず膝を折る男達を見下ろして、最後の言葉を宣言する。
「この冬至の祭をやり遂げて神苑を再び玉獣の楽園とせよ。クマリは、もう一度神苑から立ち上がる」
「……御意! 」
この二晩不休の祭で精霊達を集め、塞いだ大地の気脈を少しでも動かせられたら勝機は生まれる。
まだ言えない策略を隠しての、独立宣言を言い放つ。
唐突の宣言に追い付けない男達を置き、禄山に促されるままに席を立ち部屋を出る。
膝小僧が盛大に文句を言う。ガクガクと震え、まっすぐに歩いている自覚がない。後ろ手に禄山が扉を閉じたと同時に、帆柱の影から飛び出した黒雲が強く腕を掴みあげる。
「何があった。そなた、顔が真っ青だ」
「あれはテリンじゃねぇよ! それに、ハルルンがテリンを殺したんじゃねェ。あの深淵の神官達が殺ったんだ」
「今は歩け。大丈夫だ」
引きずられるように甲板を進み、サンギの船室に入って椅子に崩れるように座り込む。
全身から汗が吹き出し、奥から揺さぶられる震えに体も心も翻弄される。
思うように動かない手が、胸元を探る。
ミル、ミル、ミル!
「あれはテリンの血縁の奴だよ。よく似た顔だったけど、血の臭いや音が少し違う。ハルルンしっかりしろ」
あぁ、そうだ。冷静に考えればそうだ。俺がこの手で刺して、燃やして、炭となって崩れ落ちた梁の下から灰を掬い上げて埋めたのだから。この世にテリンは存在しないんだ。
首から下げた紐を千切り、指輪を握りしめる。
俺がした事は合ってる? 正解なんてないのは分かってる。でも、この一歩で正解だった?
抑えきれない感情が、荒ぶる勢いのままに飛び出しそうだ、
このまま叫びだしたい。夜の海に身を投げうちたい。壊れるほどに唄い、体を粉々にしたい。意識すら手放したい。
逃げてしまいたい。怖い。恐ろしい。もう、勘弁してくれ。
「いかがしたか。そなた、人を殺した事があるのか」
「……こんなダショーは、許されないかな」
「許すも何もない。ダショーを絶対的な聖者と思っているのなら間違いだ」
喘ぐように呼吸を繰り返す俺の背を軽く撫でて、黒雲は笑う。
禄山が差し出す茶碗を受け取ると、震える腕の振動で注がれた水が器の中で飛び跳ねた。
「吾らはダショーに対し、確かに神に近いものを感じる。神がおわします天に、最も天に近い位置にいると思っている。だが、それ以前にダショーに対しての感情は圧倒的な恐怖だ」
膝の上に乗りかかり頬を舐めるシンハが、頷く。
こんな質問に丁寧に答えてくれる事がありがたい。何よりも、俺が誰を殺したのかと追及されない事が。今問いただされたらおかしくなりそうだ。
「唄うだけ、それどころか唄わずとも精霊と心を通わすのがダショー。生きるモノ全てを動かすのだぞ。風も海も大地も。吾らがいくら国土や金や穀物を奪うために争おうが、その上で全てを握るのはダショーだ。戦で勝とうが死のうが、はるか上の次元にいるのが、そなただ」
「それは少し違う。俺はただ」
「精霊の力を借りているだけ、というのであろう? それでもだ。ダショーは吾らの命を握っている。そう思ってしまう立場に吾らはいるし、そのぐらい分け隔てられているのだ。だから今更、そなたが誰かを殺そうが、そなたの聖性は揺るがぬ」
「そ、そうか」
圧倒的な恐怖。それがいいことか分からないけれど。
「俺、変じゃなかったか? おかしかったか? 」
「おかしいが、相手は気づいてないだろう。異世界へ行ったダショーが目の前で大人の姿で現れたんだからな」
「えぇ。大変な興奮でしたから気づいてなかったでしょうね」
苦笑いの禄山をみて、ようやく安心する。それならいい。バレてなかったら、何も言う事はない。
次回 6月5日 水曜日に更新予定です。