86 裏返した手の平は
真っ青に、そして小刻みに震えながらもヨハンは口を閉ざしたままだ。干からびて土色になった唇をかみしめている。
頑なな様子に、サンギやテンジンも少し焦れるような視線を送りあいだしていた。
さぁ、どうする。
手のひらについた砂を払い、袴にもついていた砂を払い、軽く眉を寄せる。
まるでこの砂のように、深淵は俺の回りから消える事はない。この世界に来てから、常に俺の回りに張り付いてくる。砂は浜辺だからしょうがないが、深淵は納得できない。
「なぁ、ハンナが泣くよ」
ヨハンは「ハンナ」という名の人の為なら動く。
死ぬ寸前に心で叫んだ名前の人物が誰かは知らないけど、「ハンナ」がヨハンを動かす鍵になるのは確かだ。
「ハンナの為に深淵の脅しを受けて俺を殺そうとした。ここで死んだら、ハンナに会えないんだぞ」
「……なぜ、なぜハンナの事を知っているんですか……」
「もう一度、ハンナに会いたくないか? 」
「……」
サンギとカムパが「誰だいそいつ」と目で問うてくるが、あえて受け流す。
ヨハンの紫の瞳が宙を彷徨いだしたのを確認し、視線を強く合わす。俺の青い目をまっすぐに見るように。
「採掘場で双子を助けてくれたんだろう? 今度は俺がお前を助ける。だからハンナが何処にいるか教えてくれ。なぁヨハン、俺は」
「……淡水の巫女」
「みこ? 」
「妹は巫女長に仕える巫女をしております。ハンナは、妹は、おそらく、何も知らされていないまま今日も神事の手伝いをしているのでしょう……」
「神殿群の巫女さんか! そりゃまぁ、何てこった……」
「つまりアレか。人質ってぇ奴だな」
カムパの解説に、思わず空を仰いだ。視界いっぱいに広がるのは南海の青空ではなく、柔らかな光を通す天幕の帆布だけれども。
淡い光に金髪を光らせ、ヨハンは肩をさらに落として項垂れる。戦に敗れた王子様のように。
「妹は深淵の手の内です。私は、恐れ多くもダショー様に刃を向けて捕えられた。もう、どうにもなりません。私は恥ずべきことを、重罪を犯した罪人となり妹は事の次第が深淵に伝わればどのみち殺されるでしょう。暗殺に失敗して、都合の悪い暗部を事を知ったとなれば……。全ては私の過ち。どのようにでも処分下さい」
無駄がない動きで食器が配膳されていく。清潔な布が敷かれ、その上に素焼きだが丁寧に焼かれた器によそわれた幾つものおかずが並べられていく。肉は香ばしく焼かれ、魚は香草と煮られ、沢山の木の実と果物を添えられている。
手際のよい禄山と比べ、双子もぎこちないながらも俺の前に丁寧に並べていく。俺はぼんやりとその動きを眺めていた。
砂漠のようなクマリの地では、この食材はどうやって手に入れたんだろう。刻々とダショーの出現を聞いて訪れる人々の手持ちの荷物や食料は少ない。
となればサンギ達が身を削って捻出しているはずだ。
現に、真水の確保で子供達も駆り出されているらしい。ミンツゥは安全の為に船にいると思っていたら、他の子供と共に内陸へ果物を取りに行っているらしい。もっともシンハの付き添いつきだが。
「おい、食べぬのか」
「うん、まぁ」
「何を考えている」
「考えてる、けど」
反射的に言葉だけ返して、双子の動きだけを追う。シャムカンもモルカンも、俺の視線を感じているはずなのに反応がない。
顔を伏せたままの二人は手早く配膳を終えると、天幕の外に出ていってしまう。薄暗くなったその先に、砂を踏む音が消えてから黒雲が大きなため息をついた。
「先の言葉が気に障ったか」
「いや、その、さっきは」
「それ以上口にするな。今はその事に憂う時間があるのか」
昼に言い争うように後李の事を話して気まずくなった黒雲と同じ天幕で食事というのも気まずい。
警備の為と数に限りある天幕を有効に使うためにしょうがないのだが。
「深淵に人質がいるという刺客の雲水の事を考えているのだろう」
「なんでもお見通しだな」
「そなた、顔に出しすぎだ。あれでは双子が困るだろうて」
禄山を目で制して、黒雲は一人で酒を注いでいく。もう一度視線を送られて、禄山は静かに天幕から出ていく。それでも、僅かに天幕に影が透けている。もう一つの影はテンジンだろう。
「妹が人質らしいな」
杯を差し出され、受け取りながら頷く。ヨハンが切られる寸前に叫んだ心の叫びが耳の奥から聞こえてくる気がする。心の中の柔らかなとこを薄く切っていくような痛み。
「ヨハンは、俺に殺される気だったんだよ。刃物を振り回しても、逃げる隙間をくれた。本気じゃなかったんだ」
「自分は死んでも、ダショーを攻撃したという事を深淵に残して妹を助けたかったのだろうな。という事は、それを確認する者や手段があったという事だ」
「じゃあ……」
「まだ終わりではない」
杯をあけて黒雲が断言した。迷いもためらいもない。
「このままでは、近いうちに刺客がくる」
「アイは、そんな奴じゃなかった。もっと慎重だった。もっと策略を練ってくる奴だと思う。だから今回の件は違うと思うんだ」
「アイ、とは深淵の執行官か? 主席執行官か? 」
具体的な事を言われ、ただ首を傾げる。詳しい事は分からないが。
「オユンだった前世、俺を見張っていた神官だ」
「あぁ、なるほど」
テリンの体を乗っ取った時に火だるまにしたが、あの術で倒れたのだろうか。違う人間が今回ヨハンを使って攻撃してきたとしか思えない。
俺をなんとしてでも一度殺すつもりなのだから。リセットさせたがっている。
「まぁ、頭が変わってやり口が変わっただけであろう。それで、ハルキはこれからどうしたい」
「どう、したいって……」
「そなたはどうするのだ。やはり後李帝国を崩すつもりか? 」
「いや……」
できれば、全て壊してみたい。そんな衝動を当てられて、もう一度考えてみる。自分の望む事は何か。何が出来るのか。どう出来るか。
手の中の杯を飲み干し、腹の中へ落ちた酒が火をつけた。
燻っていた想いが言葉になっていく。
「崩しても、再生が出来ない。でも、ここで生きていくのだから、そのすべを、場所を確保したい」
「どういう事だ」
「問題は、共生者とクマリの民が生きていく場所や方法だ。今まではクマリの国やエリドゥ法王国があったけど、機能していない。エリドゥに流れ込んでも、腐った水が澱んでいるだけだ」
これだけ後李帝国で共生者が痛めつけられていても、助けにくる動きがない。むしろ、俺を殺そうとする。エリドゥはすでに腐って共生者の為に機能していない。
世界が望む形は、多くが安息に暮らせる形は。それと俺の考えを重ねて考えれば、答は一つしかない。
でも焦るな。今はまだ焦るな。必要なら、壊れるものなら、時が来れば崩れ去る。
胸の中で繰り返して、杯を置く。
まず受け皿をつくろう。それからだ。
船から見る浜辺は、一面の松明で白く浮かび上がって見える。風に乗って微かに聞こえる楽の音が波と重なって、新しい音楽を作り出す。
浜辺で唄い踊る人々の影も楽しげに揺れ、宴に浮かれる心まで音とともに伝わるようだ。
その浜辺から離れた磯辺は、暗闇に包まれていた。
僅かに焚かれた篝火が、そこにいる幾人かを照らすのみだ。
「これでいいんだね」
「こうしないと、先に進めません」
「厄介な事だねぇ」
「お手数をかけてしまい、申し訳ない」
磯辺から目を離さずに言うと、鼻で笑われた。
「これからやる事に比べれば、造作もない事だけどね。まったく厄介だよ」
「ダショー様を前にそう言えるのは、世界広しといえどもサンギ殿だけだな」
「御前様には負けますがね」
「貴方達二人に敵う人がいるなら、俺は見てみたいですよ。こんな狸の騙しあいみたいな会話して……」
思わず本音で言うと、二人は声を出さずに笑いあう。この狸たちが、まったく。
しかし、この狸二人がいないと何もできないのは確かだ。
ダショー様と奉られても、この二人は俺に対して態度を変えなかった。その懐の深さと手にする情報網と人の数に頭を下げるしかない。
「ヨハンの処刑はカムパが仕切る素破が行う。クマリの民は冬至の祈願祭でこちらまで気づかないだろう。あの楽の音で精霊はそちらに気がとられている。彼らも気づかないだろう」
「はい」
「これだけの大博打だ。対価はダショー様だろうが、ちゃんと払ってもらうよ」
「承知です。やってみせます」
「本当に、あんたは馬鹿だよ。まぁ、私らも馬鹿だけどねぇ」
浜辺の祭りは、冬至の日の出に合わせるよう、どんどん盛り上がっていく。これから夜通し、明後日の日の出に向かって二晩の寝ずの祭りが始まった。
クマリ復興を願う祈願祭は、もっとも夜が長い日から陽が勢いをつける冬至の日の出に向かって音楽と舞を献上するのだ。
そして、これはエリドゥでも同じ事。冬至の日は太陽神に祈りを捧げる重要な神事の日だったはず。
「勝負は二日後の日の出。エリドゥでの冬至祭が終わるまでだ」
「はい」
まだ始まったばかりだというのに、浜辺から一際にぎやかな歓声が上がる。一方、浜辺では篝火の向こうに幕が張られる。
幾人かの人がその幕の向こうへ入り、そして、幕に何かが降りかかる。大きな桶が運ばれ、そして幕の向こうから運び出される。
「ヨハンの処刑はこれで終わりだ」
「終わりましたか」
「あぁ。幕に血しぶきが付いただろう。このまま桶に入れて沖合で沈めて小舟はこの船に収容する。これでいいんだね」
「よろしくお願いします」
数人がかりで乗せられた桶は重いらしい。ゆっくりと小舟が波打ち際から動き出した。
眼を凝らし、真っ暗な海へと漕ぎ出した小舟を見つめる。
いよいよ、大博打。
「クマリ側の代表者を待たせてある。いいかい、慎重にやるんだよ。彼らは最もクマリ再興を願っている人達だ。与える希望は毒にもなる」
「はい」
次回 5月22日 水曜日に更新予定です。