85 モグラは遠く水音を聞く
緊迫した空気に、間が入った。
強張った黒雲の頬が引きつり、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「そなたは、本当に何も知らぬのだな。確かに異界から戻られたダショーよ」
そう零すと強張った肩を下げて首を振った。
そんな仕草をしないでくれ。自分が余計にみじめになる。
「後李帝国の行政は、全て官僚が行っている。広大な国土から野心と自らの頭脳を頼りにのし上がってきた者達が、太極殿に集まり国を司っている。そして厄介な事に全ての事柄は複雑に利権や人々の暮らしに絡み、それが良いとか悪いとか、関係なしに歯車が回っている。今更、その歯車が止まる事はない。太極殿という組織を崩壊させたとこらで何も変わらぬ。もう止められぬのだ」
一気に放たれた言葉は、百の矢のように突き刺さる。
恥ずかしい。この世界で何を見ていたんだ。何を勘違いしていたんだ。
「この世の理と精霊を思うまま操るというダショーよ。深淵の大神官よ。どうすれば、この世界は変わるのだ? いっそ皇帝を殺せば変わるのか? 殺せるものなら、そうならとっくに、この手で、吾の手でっ」
黒い瞳が俺を覗き込んだ。
絶望の底から巻き上がるマグマが噴出した。猛毒を吐き出すような言葉の勢いに押し倒される錯覚。
「初代の頃とは時代が違うのだ。皇帝はすでに木偶人形であり、皇族はただの踊り子だ。何も変わるまい。ただ、目の前でおぼれているものを救うしか、手はないのだ」
「黒雲……」
「とりあえず底辺の者も日々食べていけるのなら、虚構の平和も受け入れる。それが玄武の答だ」
崖に追い込まれ、突き落とされた。
そんな感覚になったまま、天幕を出ていく黒雲の背中を見つめるしか出来なかった。
何も答えられず、何も出来ず。
「お待ちください! ここはクマリの地です。殿が勝手に出歩いては危険です! 」
禄山が慌ただしく追いかけて行くのを、脱力しながら見送る。
何してるんだ、俺。
「それはお前さんが知らなすぎだな」
「いやでも、俺は半年前にコッチに来たばかりだし」
「それでも、この世界の仕組みを知ってなさすぎだ。それでよく後李帝国をどうにかするとか言えたなぁ。しかも御前様に」
天幕に戻ってきたカムパの一言一言が突き刺さる。
「玄武の家は、もう宮家じゃねぇんだよ。御前様の先代に、朱雀出身の今の帝が玄武家を臣下に下げたんだよな。他の皇族達と同じどころか、今や北方の荒野や国境付近の警護をさせられる一介の将軍と同じだ。幾度も皇帝を輩出した玄武家がね」
「そこまで、何で落とされたんですか? だって、玄徳帝の時は」
「時代が五百年違うんだ。ちょいと、勉強しなおせや。おれも詳しい事な知らねぇが、後でテンジンに教えてもらえや」
開いた口がふさがらず、あまりにも無知な自分に顔を赤く青くさせながら、最後に後ろに倒れこむ。
本当に星の核まで穴を掘って逃げてしまいたい。なんて事だ。なんて事だ。
これじゃあ、黒雲の傷を抉ってしまったのかもしれない。
このニライカナイに参加しているだけで、黒雲はこの世界をどうにかしようと、精いっぱい行動していたんだろう。スパイや反乱分子と思われる危険を顧みず、やれる以上の事をやっていたのだろう。それなのに俺は、何も分かっていないのに「後李帝国を壊そう」「世界を変えるんだ」とか。
駄目だ。次に会う時にどんな顔しりゃいいんだよ。誰か俺を思いっきり殴ってくれた方が、どれだけ楽だろう。
柔らかなクッションに沈みながら、体中の酸素を吐き出すしかない。
「お待たせしまし……どうかしましたか? 」
テンジンとサンギが天幕に入ってきても、俺はクッションに倒れたまま呻くまま。あぁ、もう、自分に腹が立ってしまう。
「何を膨れてるんだい。ほら、お前さんが会いたがってた昨日の狼藉者を連れてきたよ」
「はぁ」
「しゃんとしなよ。確かにお前は知らない事があるけど、俺たちが知らない事を知っているのも事実だ。それをどう使っていくか、お前さん次第なんだからな」
「カムパ」
背中を思いっきり叩かれたような言葉に、のろのろと起き上がる。こんな歳にもなって恥をかきまくっているけど、形振りかまっていられない。
どうにかするには、俺が動かなきゃ。まず、動かなくては何も変わらない。
テンジンとサンギに挟まれるように、ヨハンが中央に引きずりだされる。
乱れた金髪に、轡を嵌められ、何重にも縄で縛られた姿に思わず顔をしかめる。
「いいか。何か妙な事をしてみろ。全てが終わる前にその首が落ちるぞ」
物騒なセリフと共に、テンジンは腰の刀を向いてヨハンの首筋にピタリと当てた。
柔らかな光の天幕の中、白く輝く刃が金髪の中に沈み、幾筋もの金髪がサラサラと零れ落ちていく。
「ちょっと待てテンジン! そんな事をしなくても」
「何かあるようなら、おいらが何とかするぞ」
再び俺の影から首だけのシンハが顔を出す。その異様さに、俺を除く全員がぎょっと強張った。
だよな。これは怖い。
「まず頭しか出さないのは止めろ。怖すぎる」
「便利なんだけど、これ。ハルルンが困ってたらすぐに助けに来れるじゃん」
「空気読め。俺まで変人に見られる」
「ハルルンが変なのは前から……ッイテテテ! もう、ハルルンってば照れちゃってぇ。そんなに乱暴にしてもおいらの愛は変わんないぜ」
思いっきりシンハの頭を掴んで引っ張り出すと、若干脳みそを痛めたのかもしれない。尻尾を振りながらハートマークが付きそうな口調で、足取り軽くヨハンの横に忠犬の如く座る。
ふかふかの毛並は、今日も美しい。
テンジンはようやく、何度か俺とシンハを見比べながら刀をしまう。
「じゃあ、始めようかね」
サンギがシンハに場所を譲り、カムパと同じく俺の横に座り頷くと、乱暴な手つきでテンジンが轡を外した。
「まずは命を助けて頂いた礼を言いな」
「……お、だ、ダショー様……」
盛大にせき込みながら、口元から垂れたヨダレを拭くことなく、ヨハンは一気に言葉を吐き出した。
「今すぐにお逃げください! 深淵の追手が明晩にも放たれてしまいます!」
全ての話が終わった後、誰も口を開けなかった。話しつくしたヨハンは、温存していた体力も気力も使い果たしたように喘ぐように肩を上下させて黙り込んだ。
サンギとテンジンの顔を見れば、この話を信用できるか決めかねているように眉を寄せ唸っている。
それはそうだろう。こんな話、簡単に信じられない。
「話を確認させてくれ。つまり、お前は……ヨハンは深淵を追放された雲水で、半年前に後李帝国に拘束されて採掘場で強制労働していて、兵士の隙をついて深淵と連絡をとっていた。深淵はお前を助けに来なかったけど」
一旦区切り、確認の為にサンギとテンジンと目を合わせると頷く。
「で、数日前に俺が採掘場を解放した途端に深淵から連絡が入る。速やかにダショーを暗殺しろ、と。そういう事か」
ため息をつき、前髪をかきあげた。
前は誘拐未遂、今度は暗殺未遂。深淵は犯罪組織かよ。
ヨハンの術は高度だったし、本気だった。
「私は解せません。本当に深淵がダショー様を暗殺するなど考えるのでしょうか? 後李なら分かりますが……しかしこのヨハン、明らかに深淵の流派の唄を唄っていましたし、神官なのは間違いない」
「思い通りにならないダショーなら、いっそもう一度生まれ変わらせようと思うもんかもしれないね。ほら、何でも蜘蛛の糸がついているんだろう? 生まれ変わって扱いやすい人格になってればいいのかね?」
まるで品物の返品を頼むような気軽さで言うサンギに、寒気がする。
そんなに簡単に殺されてたまるか。
「アイの性格で言えば、そういう大雑把な事はしないと思うけどなぁ」
「アイ、アイとは執行官様の事でしょうか? 」
俺の零した名前に、ヨハンが首を傾げた。
「アイ様は、ここ数年お体の具合が悪いそうで表には出ておりませぬ。この件は恐らく……っ! 」
「勝手に喋るな。お前の意見を聞いているんじゃない」
「待て待て! 暴力反対! 」
ヨハンの後頭部を思いっきり殴るテンジンを止めて、浮かんだ考えを手繰り寄せる。
「ヨハン、お前に指示を出したのは誰だ? ハンナは、お前の大事な人なのだろう? ハンナは今どこでどうしている? 」
胸騒ぎがする。深淵で何か起きている。俺が水底の小部屋にいた頃の深淵とは変わっている。
ミルは、どう扱われているんだ? アイの言うとおりに、丁重に扱われているんじゃないんだろうか。
神苑の森で、俺はアイを燃やしかけた。遠距離であったけど、術を通して酷く痛めたはずだ。すでに老体のはずのアイに、かなりの深手になったはず。
ヨハンに対してのことは、賢いアイのやる事とは、思えない。
深淵に、アイに何かあったんだろうか。
「ほら、ちゃっちゃと話せよ。そこの団長はなぁ。そりゃあ商売上手なんだよ。可愛いお顔のお前さんは、最高の商品なんだ。なぁ」
カムパはそう言って、意味ありげにヨハンの肩を撫でていく。
男にしては線の細いヨハンの体が小刻みに震えている。汚れて乱れた金髪の奥の顔が、見る間に蒼白になっていく。
「俺たちは手広く商売してるからなぁ。後李の変態おやじもいいが、マリの貿易都市の有閑マダムもいい顧客なんだよ。どっちがいいかい? 」
「ひいぃい! 」
激しく誤解しているヨハンを横眼に、サンギは懐から算盤を出して玉をはじき出す。
テンジンに目をやれば、完全に楽しむように後頭部を刀の鞘でグリグリとつついている。
次回 5月8日 水曜日に更新予定です