82 優しい魔法
痛いのが苦手な人,要注意で。
グロは私も苦手なので詳しく描かないけど,僅かな描写でも苦手な方は少し用心。
規則的な旋律が繰り返される。各楽器を紹介するかのように、同じ旋律が音色を変えて披露される美しい曲。
なのに、何故だ。
すざまじい呪術の戦いの場面に、この緊張感の欠片もない唄をふざけた態勢で唄っている俺は滑稽じゃないか。
ゾンビ映画のクライマックス場面に遊園地のパレード音楽が流れ出したような、この緊迫感のなさは何なんだ。
「ボレボレ、ボ、ボレロー、ボ、ボレボレボレボー」
舌を噛みそうになりながら、唄い続ける。
シンハの耳は直角に立ち上がり、猛スピードで宙を駆ける足元は軽やかに、長い直毛で覆われた尻尾が優美なまでの曲線を描きながら揺れていく。
首にしがみつく俺は、必死の形相で唄い続ける。縦横無尽に宙を駆け廻るシンハの体に足を巻き付け、遠心力で振り落とされまいと捉まり、目を回しながら唄い続ける。
「レボレー、ボ、ボレロー」
俺、何か悪いことをしたのか。
何でこんな状況でボレロを唄い続けなければいけないんだ。
すでに指先の感覚はなく、股関節が猛烈に痛いのに。
「ボレボレボッ……! 」
限界は水音と共に訪れた。
遠心力と重力に引っ張られるままに、俺の体はシンハから飛ばされた。
柔らかく夜の潮風に包まれ、次の瞬間に海の中へ落ちた。
もがきあえぐ口と鼻の中に、海水が殴りかかる。
「大丈夫だって。もう渚だぜ」
無我夢中で手足を動かして痛みもがく俺の襟首を、シンハが咥えて浜辺へと引きずっていく。
尻尾を振り鼻歌まで唄いながら、シンハは咽る俺の頬を御機嫌に舐めた。
「やっぱボレボレの唄は最高だなぁ。もう少し唄ってくれよ」
こいつ、絶対後で殴る。
俺がそう決心している事に気づかないで、シンハは仕上げとばかりに頬を舐め上げた。
「あいつらも決着ついたみたいだし、一件落着だな」
「あいつら……! 」
慌てて立ち上がり、薄暗い浜辺を見渡す。
背後から幾多の砂音と呼び止められる声を無視して、走り出す。
海水を含んで重くなった服が体にまとわり、邪魔をする。今すぐにでも行きたいのに、夢の中の出来事のように足が進まない。
その先で、対峙する人影が二つ。何かが、月明かりを反射して掲げられる。そして一拍の間をあけて振り下ろされた。
「……」
はっきりと声が聞こえた。
ハンナ、と呼ぶ音なき音が聞こえた。
その意味に囚われている間に人影は一つ、崩れ落ちて水音が上がる。
再び掲げられる刀の影に、声を振り絞る。
「テンジン! 」
真っ暗な海の中に、金色の髪が広がっていた。波間に漂い、気まぐれに月明かりを照り返す髪を一束掴み引き寄せる。
まだ生きている。僅かに生きている光を感じる。
波が打ち寄せる度に鮮血が広がっていく光景に、無我夢中で力任せにヨハンの体を引き寄せた。
死なすわけにはいかない。
死なせない。
「コイツを,ヨハンを殺すな! 」
「しかし」
「殺すな! 早く、早く岸に上げて血を止めないと」
「ですが」
「手伝え! 」
息も絶え絶えに命令し、浜辺へと引っ張り上げる。
波打ち際に横たえ仰向きにひっくり返すと、肩から斜めに切り裂かれた服から血が溢れ出ている。
金髪が張り付いた青白い顔は動かず、人形のようだ。
馬乗りに跨り、ためらわずに手を振り上げた。
「起きろ! 俺の唄を聞け! ハンナに会わずに死ぬのか! 」
一度、二度と、頬を平手打ちする。
ハンナと叫んだのは、きっとコイツだ。ヨハンが切られる寸前に想った人の名前に違いない。
「ハンナに会いたいんだろう! 」
もう一度、思いっきり頬を叩くと微かな気配が動く。
青色がかった紫の瞳が、虚ろに開かれる。
「ハンナに会うんだろう! 」
もう一度会いたいと願う人がいるのなら、何故こんな危険を冒したんだ。
馬鹿だ。間違いなく大馬鹿者だ。
襟元を掴みあげ、力なく傾くヨハンの頭に顔を近づけた。
「 精霊の加護を願い給う 月の神シンと大地母神へ願い給う 我は汝の僕 ダショー・ハルキ 星の雫の唄を唄う 」
聞け。
リズムと音の響きに全てを委ねろ。
体は今から癒してやる。治してみせる。だから戻ってこい。
この世界に戻ってこい。
「 振るえ その星の響きはシンの響き ゆらゆらと振るえ 高らかに鳴り響け 」
意識を目の前のヨハンの体に移しこむ。
刀で切られ海水が抉る激痛に襲われるまま、自分の意識をより深くヨハンの中へ沈み込ませる。
千切れた血管をつなぎ合わせ、神経を結び、肉をくっつける。
「 この身に宿るは 月の欠片 大地の心 」
会いたいと願う、そのハンナという人を残して死ぬな。
死ぬな。
もう一度生きろ。
全ては柔らかく暖かく。
霞む春の空を見上げて手を伸ばす。拙い唄をでたらめな言葉に乗せて唄う。
心地よい言葉を、心地よい音を、心躍るリズムにのせて。
風が振り上げる手と共に流れていく。お気に入りのお散歩コースを走り抜けていく。
自分の手がとても小さい。白く、丸みを帯びている。
あぁ、昔のだ。
お気に入りのお散歩道。おかあさんとおとうさんと住んでいたマンション近くの、大きな公園。
お気に入りの。
「はるちゃん……っ」
ほら、きれいだよ。見える?
流れる風が綿毛を巻き上げる。枝から零れ落ちる桜の花弁を巻き上げる。
クルクルと舞い踊る命の音がする。嬉しくて、一時も待てないような、そんな喜びに満ちた音が大地から空気から舞い上がる。
耳を澄ませて。
心を覗いて。
美しい世界が広がっているでしょう。
「おかあたん、きれい」
遠くにビルが建ちそびえ、鉄橋を走り抜ける電車が夕日を遮っていく。
柔らかなオレンジ色に染まっている世界に、かあさんが立っていた。
足元のタンポポに、立ち並ぶ満開の桜、すべてが優しい色に溶けていく。
「おかあたん」
なのに、なんでかあさんは泣いているの?
「いたいの? ないてるのなんで? 」
風はこんなに美しいのに。心地よいのに。ボクの唄と一緒に唄って流れてるのに。
そうか。もっともっと花弁を散らせよう。空いっぱいピンク色にしよう。おかあさんの好きなピンク色にするんだ。きっとそうしたら、おかあさんは微笑んでくれるはず。
「きれいだねぇ。でも、おしまい」
息を吸って手を振り上げた途端。ボクの体が持ち上がる。
両脇を掴まれて、足は宙釣り。
「そんなに桜を散らしては可哀そうだろ。桜の花は、自然に散るのが美しいんだ」
「でも、ピンクになるよ。ぜんぶピンクになるのに」
「晴貴」
よっこらせ、と抱きかかえられた。
頬を寄せられ、髭が押し当てられた軽い痛みに口を尖らす。
「風も自然に吹くのが美しい。晴貴のお歌と歌う風もいいけど、耳を澄ませてごらん。風のお歌が聞こえるよ」
「おとうたん、きこえるの? 」
「聞こえるよ。ほら、風が電車と追いかけっこするぞ」
「でんしゃ! でんしゃ! 」
遠くから鉄を軋ませる轟音が日常の隙間からやってくる。
車や自転車の音。サイレンの音とつられて鳴く犬の声。誰かを呼ぶ声。鳥のさえずり。どこからか水音。
「晴貴のお歌は、ここではない場所の歌なんだろうね」
「あなた、晴貴はどうして、どうしてこんな事が出来るんでしょうね。何で晴貴がこんな歌を、こんな力を」
「必要なんだよ。きっとどこかで。きっとね、そうであってほしい」
頭上で交わされる深刻な会話を流しながら、ボクの目は遠く鉄橋を都心向けて走っていく特急に釘付けだった。
一時間に二本だけの特急のカッコよさに目を奪われたまま、心が気づく。
これは、子どもの時の光景だ。
まだ母と父が生きていた時に見た光景。聞いた会話。
「晴貴。今は解らなくてもいいから、憶えておきなさい」
「おとうたん」
「晴貴の歌は、きっと誰かを幸せにするよ。だから、それまで大切にとっておきなさい。きっと必要なのだから、とっておきなさい」
そういうと、大きな手が何度も頭を撫でた。
大好きなお父さんがいうなら、守るよ。おやくそく、守るよ。
「うん。とっとく」
「お外で歌ってはダメよ」
「うん、おかあたん」
「いい子だ」
特大の高い高いをされて、歓声をあげる。
それだけで、風がざわめく。桜は枝を震わせ花弁を舞い落す。
霞んでいく。
世界が消えていく。
大好きな、大きな手の感触すら消えていく。
その手の平には、たくさんの勇気が貰えるんだ。何も怖くなくなるんだ。
あぁ、知ってる。この感触を知っている。
「かあさま」
いつの夢だったろう。
暖かく抱きしめられる感触。安心感。何も怖くなくなる、優しい魔法。
「かあさま」
いつの間にか、目の前の桜吹雪が消えていく。
見えるのは灰色の空。遠くから動物の嘶く声。勾玉と四神獣を描いた旗を掲げる大軍の影。地面を震わす轟音。鼻につく、何かが燃えた強い臭い。
真っ白な鷹が金色の瞳で見下ろす。主様か。
「かあさま」
聞こえるのは、微かに囁く女性の声。
「クマリの救い主から名を頂いて、ハルと」
幸せにおなり。生き抜いて。生きて。
そう囁くように、何度も想いが込められた。
女性が何度も膨れた腹を撫でる。
あれは、俺だ。その腹の中にいるのは俺だ。
白い鷹が大きく羽根を広げると、腹から一握りの光が浮かび上がる。
あれは、俺だ。
俺が関口晴貴となる前の、俺の魂だ。
光は主様と共に、灰色の空へ昇っていく。
「もう一度だけ」
何で今まで忘れていたんだろう。
この感触を、この想いを。
失ってから気づいた。
大きなお父さんと母さんの手。その大きな人差し指を掴めば、何処へだって行けるんだ。
かあさまの、優しい手の平の感触。
もう一度、その手を握らせて下さい。
そうしたら、俺は何も怖くないんだ。
何にでも、なれるんだ。何処にでも行けるんだ。
ダショーにも、きっとなれるから。深い水底にも行けるから。
勇気を下さい。
もう一度、手をつないで。
優しい魔法をかけて。
次回7月18日 水曜日に更新予定。