80 闇に光る牙
すべてを吸い込んでしまいそうな闇の海を眺めながら、遠く海岸に灯る篝火を見つめる。
肌寒い海風に吹かれながら、胸の奥の迷いをもてあそぶ。
「御前様からの手紙は、なんだったのでしょうね」
黙り込んだ俺に、気を使うような言葉が投げられる。
「明日サンギに読んでもらうさ。早く読めるように習わないといけないなぁ。どこか頭でもぶつけて、その衝撃で文字を思い出すとかすればいいけど」
「頭をぶつける? 」
「いや、異世界の冗談」
頭に衝撃を受けたショックで記憶がよみがえったり、失ったり。そんな漫画チックな事を思わず願ってしまった。そんなに世の中甘くないし、この世界にそんな表現は通用しない。
不可解な顔をしたテンジンに苦笑い。
「そうだ。よかったら今度、素破の皆と飲みたいな」
「それは是非に! い、いや、失礼ではないのですか」
「失礼と思っているなら誘わないさ。こないだの浜で、いつも素破が輪になって飲んでただろ? 気になっていて」
「あぁ、あれは……あの時誘わなかったのは……」
口ごもり、テンジンは何度も頭に手を上げ下げした。
凛々しい眉も口元も、八の字に落ち込んでいく。
「てっきり料理人と勘違いしていまして……新しく入ったと聞いた男が調理場にいたもので、その」
「男は料理をしないものなのか? 」
「しない訳ではありませんが……女々しいと申しますか、いや! そういう事ではなくてですねっ」
「悪い。その、困らせるつもりはなかったし、怒ってもいないんだ」
「申し訳ありませんっ」
まるで大口の顧客を失う寸前の保険会社の営業のような謝り方で、今度はオレの腕が上げ下げする。
せっかく友好的な雰囲気だったのに、台無しにはしたくない。
「すまない。まだこの世界の常識が分からないから聞いただけだ。こちらこそ、異世界の尺度で物を言って申し訳ない。だからアタマを上げてくれ」
「いえ! オレは」
「女々しいと思っていても構わない。俺もあの時、素破のみんなを見て怖じ気ついて中に入れなかったんだ。小さな子供みたいに、知らない人の輪に入るのに怖じ気ついたんだ。でも、もう違う。俺達は仲間だろ? 採掘場で、命を懸けて助けてくれたじゃないか。そのお礼もしたいんだ」
驚いて目を見開いたテンジンの顔は上がった。
俺がこんな事を話すとは思わなかったのか、固まってしまっている。
「今度、宴がある時は一緒に飲もう。そうだ。よかったら酒の肴を用意するよ。あぁ、ポテトチップとか異世界の料理でよかったら食べてくれないか」
「……いえ、是非に! 皆も喜びます」
ようやく笑顔になったテンジンに、笑いかける。
日常が欲しい。仕事をして飯を作って、水野と飲みに行って。そんな日常の一部を取り戻したい。
遠く異世界に来てしまったけど、かつて日常だった行為の一部でも戻ればいい。襲われる事を意識しないで寝る事。食べ物の心配なく過ごせる事。気兼ねなく話して笑いあえる事。
それだけでいい。
「よかった。一度、同年代の奴と話したかったんだ」
「それはオレ達もです。それに礼を言うなら、採掘場で助けられたのはオレ達素破ですから。あんな狂暴な精霊を、アレをオレ達では抑えられなかったし」
「アレ……」
テンジンの放った言葉に驚き思わず聞き返すと、眉をひそめてうなずく。
まるで醜いモノを認めるように。
「えぇ。10年近く素破をしてますが、あんなモノを見たのは初めてでした。妖獣のほうがまだマシだ。あれほど狂った精霊の形は今までいませんでしかからね。あのままオレ達も飲まれるところでしたから」
「いや……確かに狂っていたけど」
テンジンは自然に出た言葉だろうが、俺は認めるには抵抗があった。どんな形をしてようが、あれは精霊だ。この星の形の一つだ。生きる物を取り込んで闇にしてしまっていたけど、あれも一つの形なんだ。
喉元まで出かかった思いを飲み込んで少し微笑む。
きっと簡単には説明できない。いつか分かってくれるとして、今は話題を変えよう。
「とりあえず、乾杯でもしないか? このまま寝れそうにない」
「オレもですよ。一杯いきましょう」
お子様な双子やミンツゥとでは、こういかない。
嬉しそうなテンジンが弾けるように笑って「親父の秘蔵の酒を頂くとしましょう」と駆けていく。
月と星の明かりに照らされた甲板から、下へ続く階段へ消えていく後姿を見送る。
テンジンが置いて行った地図を丸め、遠くに見える篝火の明かりを見ながら紐を結んだ。
船体を叩く水音と上空を吹く風の音に耳を澄ませて深呼吸。
今夜は静かだ。とてもとても静かだ。怖いぐらいに。
「そういえば」
精霊の唄が消えている。微かに遠くで唄う声は感じるが、流れる風や潮の中から唄声が聞こえない。
「シンハ? 」
思わず口に出して呼んだところで思い出す。ミンツゥと一緒に寝ているはずだ。
寝てるから周りの精霊が静かなのか?
微かに生まれた不安が膨らんでいく。安心と思える要因を探し出す。
何かがおかしい。
「テンジン? 」
返答のように、水音と波の音が響く。
その奥から震えるように伝わる意思。張りつめて一点を突くような痛み。駆けあがる緊張が背骨を電流のように流れ走る。
誰かが隠れている。俺を見ている。
その視線を感じて振り返った。
「弾! 」
途端、目の前を流れていた潮風が弾け飛んで俺を叩きつけた。
何かが爆発したかのような風に弾き飛ばされて船べりに背を強く打ちつける。
視界の端から飛び出した金色の塊が甲板に飛び出した。
紫の瞳を光らせて、天使が走ってくる。
「お命頂きます! 」
暗がりの中、流れる金髪が月明かりに光る。それはまるで天使のような美しさ。でも整った顔に浮かぶものは慈愛な笑みではない。
追い詰められた動物が歯をむき出して抵抗するような、必死の形相。
「ダショー様! 」
間違いない。
足の裏に接吻した、いつかの変態な天使が包丁を手にして駆けてくる。両手に構え、まるで放たれた弾丸のように。
その包丁で俺を刺すのか。そうしたら、明日の朝飯はどうするんだ。
俺は自分の肉を切った包丁で菜っ葉を切られたくないぞ。そんな飯は食えない。
違う。
一瞬の間に場違いな事が走馬灯のように考え付く。
何やってるんだ俺。
すべての状況が、痛みで息すら止まった一瞬に流れていく。
「ダショー様! 」
「! 」
二度叫ばれて、正気に戻る。
寸前で体をそらし、船べりに深々と包丁が突き刺さるのを至近距離で見てしまった。
そこは、さっきまで胸があった場所。
緩やかにカールする金髪の奥から、荒い息が聞こえる。
尻を甲板につけたまま、ジリジリと後退する。それが精いっぱい。
こいつは、天使な容貌の変態は、本気で俺を刺すつもりだったのか?
恭しく俺の足の裏に接吻をした「熱烈なダショー様信仰者」が?
渾身の力で突き刺さった包丁を抜き、俺と向かい合う。
見下ろしてくる紫の瞳が揺れていた。
泣きそうな顔をして包丁を胸の前で構えた。
何で殺す側が泣きそうな顔をしているんだ。
「俺を、殺すのか? 」
「貴方は再び蘇る。青い瞳を持って記憶を持って蘇る」
「簡単に言うな……痛いのは他の人たちと一緒だ」
「貴方は蘇る」
狂信的な奴なのか。
神経が凍り付いていく。話しても通じないのなら、説得は出来ない。
刺されるのか。今ここで。
「どうか祝福をお与えください! 」
激しく言葉の使い方を過ちながら、包丁が振り上げられる。
思わず目を閉じかけた。
「ハルキ様! 」
一喝と同時に鈍い音に見上げる。
一対の杯が変態のコメカミに命中していた。
甲板を踏み込む鈍い音が響き、鞘から抜かれた刀が月明かりを反射した。まるで光の跡を宙に描くように刀が振り上げられる。
数拍あけて悲鳴が震え鮮血が甲板に零れた。
「ハルキ様ご無事ですか! 」
「テンジン! 」
「遅くなり申し訳ありません」
息を切らしてテンジンが奴を俺の間に立ち塞がる。
ゆっくりと刀を構えなおし、腰を落とす。
そして奴は尚も、血を流す右腕を伸ばして甲板に落ちた包丁を拾い上げる。
紫の目はギラギラと光り、細い肩は上下しながらも一歩も引かない。
まるで逃げ場がなく追い詰められた獲物のように、精いっぱいの気迫で睨みつけてくる。
次回は6月20日 水曜日に更新予定です。