79 策謀はじまる
船長が吐き出す酒の臭いとランプの薄暗い明かりの下で、サンギは顔をしかめた。
ただでさえ深い皺が影を作り、別人のような顔だ。
「あんた、自分の言ってる事が判ってるのかい。後李は広大な国なんだよ」
「だからです。広大の国のあちこちで同時に反旗が上がるようにするから効果がある」
船長と、カムパ、テンジンと呼ばれた若い素破の一人も息を止めて地図を見つめている。
手元に置かれていた墨の小壷と文鎮、湯のみを地図の上に置いていくサンギの指先が幾つもの街道をなぞっては溜息をつく。
「俺はこの世界の事は詳しくない。けど、異世界でいくつも国が倒れていくのを知っている。そういう国では大抵、国内から崩れていた。逆に、自分の手を汚さずにその国の中で大きな勢力を作って内輪もめを起こさせて滅ぼす事をする国もあった」
「……恐ろしいな」
「今、後李は充分に国内が荒れている。国民の全てが政を信頼しているわけじゃないでしょう? 俺は何度か、民衆が兵隊に陰口を叩くのを聞いた」
後李を旅している最中も、兵隊の移動した後に悪態をつく人々や、女子どもを隠す人々を何度もみた。
彼らは、国に不満を抱いている。それは秘めたものかもしれないが、出口を求めて勢いを増している怒りだ。それを利用しない手はない。
筆を逆さにして地図に描かれた線を辿り、大きな円で描かれた場所へ進める。
春陽と異世界の文字で書かれている、はずだ。
「民衆が国を変える気があるなら、俺たちが流した噂で動き出すはずだ。最初は地方の小さな騒乱。その流れがあちこちで起これば、合流して大きな勢力になる。勢いに乗った流れが都に着けば、後李はクマリや周辺に送る兵力を戻さざる得ない」
「ちょい待て。後李の兵士は国民に刃を向ける事になるぞ」
「それは、嫌だろうね」
「同族で争わせるのか? 」
「嫌なら、その兵士は刃の先を変えるさ」
「……なんてこった。兵士でさえ国に反逆させようって魂胆かい」
「俺達は、不満の導火線に火をつける。火の勢いが足らなければ、風を送ってやればいい。ニライカナイの仲間が少なくても、大国を傾ける事は出来る。こちらの損害もあまりないと思う。どうだろう」
そこまで話すと、船室に深い沈黙が襲う。
寝ずの番をする数人の見張り以外、船内の人間は眠っている。その静かな時間の中、サンギの部屋が重い空気に包まれる。
「これがダショー様か……エリドゥ王国を乗っ取った深淵の主人だな。確かに」
「見た目によらず、頭の中は冷血だね。ミンツゥが寝ていて良かったよ」
サンギとカムパの言葉に、黙って目を伏せた。
否定は出来ない。
ハルンツの時代からエリドゥ王族を消し去る策をめぐらせて王国を神殿に吸収させたのは俺だ。神殿の持つ力を大きくしたくて、王族を消し去ったのは俺だ。
青い蜘蛛の糸の呪いにおびえる今、この時の策が成功したのは皮肉だけど。
「しかし、民を動かすなら冬にしなければ。春になれば農作業で民の足は浮つきます」
テンジンと呼ばれた若い素破の一人が眉を潜めて唸った。
「秋の収穫が出来なければ、力のない民から死んでいきますからね。その辺りはどうしますか」
「そうかぁ。農作業か」
考えてもなかった事を言われ、唸る。
この時代、この世界は地産地消の農業だ。春になれば畑仕事をしなければ冬に食べるものが無くなってしまう。それは当たり前の事だった。うっかりしていた。
気遣いしげに俺を見る若い素破に、頷いた。
「都や周辺の大きな町には、どのぐらいの割合で農民が暮らしているかな。都市部周辺で商人や兵士が暴動の中心になれば、何とかなると思うんだ」
「大きな町になるほど、商人は多いさ。ヤツラは情報が命だし、噂を流させるのには塩梅いい。では、春先までに何とか都や地方都市で反乱の狼煙を上げさせればいいんじゃないかい? ツェワン、移動は出来そうかい? 」
ツェワンと呼ばれた船長が、真っ黒に日焼けして表情が判らない影の奥でブツブツと呟く。
彼が咥えた小筆の先が何度か上下し、流れるような速さで地図に線を引いていく。コンパスのような器具で数を数えながら距離を測り、「ひぃ、ふぅ、の」と宙を睨んで指を折ってから頷いた。
「この時期の偏西風を上手く使えば出来ねぇ事もねぇ。最北の豊北道まで半月で行けるな」
「本当かよ。無茶してぎっくり腰おこすなよ」
「煩せぇ。どら息子が! 船乗りにならんと素破になりやがって。この親不孝モンが! 」
「素破をけなすなよっ。素破だって命賭けてんだよ! 」
「ツェワン、そのぐらいで勘弁してくれ」
「カムパは黙ってろや! 」
「ツェワン爺さん……」
カムパの仲介を無視して繰り広げる船長とテンジンと呼ばれた若い素破の罵りあう言葉に、二人が親子なのかと驚き目を見張る。
小柄なツェワンが傍らの瓶を煽り、酒臭い息をどら息子と罵ったテンジンに吹きかけ、勝敗は決した。
顔を歪ませて咽るテンジンを横目に、テェワンが胸を張る。
「ニライカナイの星の航海師を見くびるんじゃねぇぞ。後李の船乗りにも負けねぇさ」
「心強いです」
星の航海師と言う、懐かしい言葉に頷く。
そうだ。星から方位を知り海流を読み風を捕らえる航海術は、ニライカナイの仲間の最大の武器だ。
「何よりも、狙いは政治を司る役人達。それも共生者を排除しようとする動き。それを変えられるのなら、攻撃はすぐに中止したい。流れる血が多くなるほど、民は貧しくなる。それが気がかりなんだ」
「それは、御前様に聞いてみないと判らないねぇ。太極殿の役人達の動きは、御前様に聞くのが一番だ。とりあえず、禄山からの手紙が来てるけど読んでみるかい」
机の端に置かれた箱の中から、一枚の薄い紙を取り出して差し出される。
嫌な予感がしながら受け取り紙を広げると、予感は的中した。
情けなさと恥ずかしさで、目を伏せてうな垂れた。
「す、すみません。こっちの世界の文字がまだ読めません」
一瞬の静寂後、疑問形の悲鳴と笑いが起きた。
サンギは目を丸く見開き、カムパは大爆笑をして。
あぁ。今すぐ海に飛び込みたい。
「潮風の海南、隊商歩む砂西、山稜、嶺の向こうに広がる四平、緑江抱かれし春陽、見守る黄金の豊北かな。出来ますか? 」
「もう一回。南から……潮風の海南、で」
月明かりの下で、後李の地図を指で追いながら暗唱する。
広い国土を六地域に分けた地名の文字を追っていく。これからは最低、地図を読めないとこれから困りそうだから必死だ。
テンジンは四度目の挑戦に辛抱強く付き合ってくれる。
「見守るほくほう」
「惜しい。豊北。豊かな北と書いて豊北」
「ほう、ほく……黄金の豊北」
「正解。覚えましたか? 」
返事の代わりに、思わず船縁にもたれた。
久しぶりに頭を働かせた感覚。無理もない。俺は日本語で生活してきた。生まれ変わる前に使っていた文字を思い出せと言われても、それは三十年以上前の記憶だ。
アラビア文字と漢字を混ぜたような文字に、悪戦苦闘している。
船室での恥ずかしい告白のあと、テンジンは地図を持ち出し簡単に教えてくれている。
何度目かの溜息の合間を、波の音がうめていく。誰もが寝た、静かな甲板でうな垂れた。
「あぁ、格好悪い……。こんな事に付き合わせて、申し訳ない」
「いえいえ。ダショー様にモノを教えられるなんて貴重な体験です。気持ちがいい」
荒縄で縛り背中まで伸びている髪を揺らし、テンジンが笑った。
笑ってくれるのなら、ありがたい。気後れする気持ちが、少し和んで微笑む。
よく観れば、双子達よりは年上のようだ。終始、無表情な顔だった彼が笑うと頬に一筋の傷跡が浮かぶ事に気づいた。俺と同じ年代のようにも見える。
「しかし不思議なものですね。本当に文字を覚えてないんですか? 」
「ずっと異世界の言葉だったしね。言葉だって、こちらの世界に来た時は単語も曖昧だった。大丈夫、しか上手く言えなかった」
「それ、全然大丈夫な状況じゃねぇじゃん」
素で呟いたテンジンの言葉に、思わず吹き出した。
そうだ。全然大丈夫ではなかった。あれはカラ元気。そうじゃなきゃ、やってられなかった。
そしてその当たり前な危うさに、ようやく今は笑える。笑えるだけの余裕が自分にある。
「い、いえ、その、失礼な事を言ってしまい」
「失礼じゃないよ。こっちこそ、ありがとう。あぁ、久しぶりに腹が痛くなるほど笑えたぁ」
真っ青になって頭をさげようとするテンジンを制して、目尻に浮かんだ涙を拭う。あぁ、笑って涙を流したのは何時振りだろう。
「ありがとう。自分に余裕がなかった事に気づけたよ。本当に、全然大丈夫じゃなかった。それに気づけた今は余裕があるんだなぁ」
「はぁ」
気の抜けた返事をしたテンジンは、地図を丸めながら首を傾げた。
「噂通りにダショー様は変わった御方です」
「ダショーって呼ばなくていいよ。ハルキでいい」
「せめてハルキ様で」
困った顔をして言われ、俺も頷く。
確かに俺も公に身分がない世界にいたから、この世界の身分に慣れない。けど、きっと彼らも「尊称なんかいらない」という俺に戸惑うのだろう。
いつか、そんな事を越えられればいい。
本当の人間関係を築けていけたのなら、尊称とかは消えていくだろう。
きっと。
互いに尊重できるように、恥じない人間に成長していけられればいい。
きっと。
次回6月6日 水曜日に更新予定です。