8 現実は甘いのか
炊飯器から熱々のご飯を取り出し、ボールに移す。炊きたての米の甘い蒸気に台所が包まれる。
「でもさぁ。お前、本当に彼女と生活するんか? 女に免疫ないのに」
「じゃあ水野が住んでくれるのか? 」
「勘弁。結婚が流れる」
「じゃあ、しょうがない」
冷蔵庫から明太子や佃煮を取り出しながら。水を張ったボールに手を浸し、蒸気を立ててるご飯を手に取り、リズムを取って握っていく。痛いほどのご飯の熱さが、夢じゃないと諭していく。
「しょうがない、で一緒に住めるかよ。言葉も通じないし文化も違うし、この世界の常識ないし。留学生をホームステイさせるのとは違うぞ」
「だよなぁ。刀持ってるし。熱つつ」
「そこだよ。まずは法律に違反してる……いや、法律すら知らないぞ」
携帯の音に反応して刀を振り回しかけたのを思い出し、苦笑い。たしかに強敵だ。
この日本で、戸籍もないミルの存在は危険だ。日本人でもなく、海外渡航者でもなく、どの国の国民でもない。おそらく昨日まで地球に存在しなかったんだから。身分証明書がまったくない宙に浮いた存在。存在がバレたら、大騒ぎですまない。逮捕されて事情を追求されるだろう。どこにも帰る国がない事、恐らく地球人でない事が知れたら、どうなるんだろう。
下手な対応では、俺も被害を被るのは確実。握り飯を握って真っ赤になった手の平を見ながら頷く。火傷する。致命傷な程の、火傷をする。俺も不可思議な能力を隠して生活しているんだ。自分にかかる火の粉が、さらに倍増するんだから。
手を水に浸して、新しいご飯を再び手に乗せる。痛いほどの熱さを耐え、急いで鮭フレークを詰めていく。
「昨日からさ、不思議なんだ。ミルはなんでここに来たんだろうって。来た目的が知りたいし。なによりさ、ミルを見てると色んな映像が頭に出てくるんだ」
「あぁ、昨日から何か見えるって」
「多分ミルと俺はさ、何か関係あるんだよ。……熱っ」
「関口、生まれはここだろ? 日本国籍あるだろ」
「もちろん。出産の瞬間をビデオに撮ってもらってるし。そこんとこは間違いない」
マメだった父さんのお陰で、出生の秘密は俺にはない。リビングの壁一面の本棚の一角に飾った昔のスナップ写真の中で微笑む両親を見る。そうだよな。俺はあんた達二人の息子だよな。
「宇宙人とお前が、どういう関係になるんだよ。そりゃさ、色々とお前のその力が似通った感覚をもったとしてもだよ?生まれも育ちも間違いなく地球人のお前と、どう関係があるんだか」
「その宇宙人ってのは何だよ。関係は判らないけど、本当に色々頭に映像が出てくるんだよ」
「それは関口の記憶なのか? 」
「じゃあ誰の記憶なんだよ。俺の頭ん中に誰の記憶があるんだよ」
水野が「オレに聞くな」と握りたての握り飯を奪っていく。
しゃもじを持ったまま、水野を見つめる。
頭に浮かぶ映像は、まるで俺の過去のように感じている。映像と共に体中を駆け抜ける感情が、全感覚に『思い出せ』『過去の記憶だ』と叫んでいた。苦しさと懐かしさ、愛おしさや憎しみも、苛立ちや慟哭のような激しい感覚すら、生々しく俺の意識を支配する。気をつけないと、今の俺の感情が乗っ取られそうな恐怖を抱いてしまうほどに。前世があるのなら、そんな記憶なら、楽な話なのに。
ミルがどんな世界から来たのか、わからない。どうやってこの世界に来たのかも判らない。何も判らない。そんな中で、はっきりとした事もある。
「訳が判らないけど、ミルが来てから俺の中で色々思い出すような出来事が増えてるんだよ。水野がバイク事故の時に吹いた口笛の旋律って、確かにさっきミルに唄った唄だろ?元々俺はあの唄を憶えていたんだよ。ただ、急にミルが来てから歌詞まで頭ん中で流れるんだよ。急に映像が出てくるのと同じようにさ」
「もう、訳がわからん。歌詞は知らなかったけど、唄のメロディーは知ってたって事か? そりゃ、オレが怪我した時に唄った唄は、さっきの唄と同じようだったけど」
「同じだよ。急に、歌詞が浮かんだんだよ。ただその歌詞だって、日本語じゃなかっただろ」
唄と同時に、光の粒が宙から湧き出してミルの傷を包んでいくのを見た。見る間に傷口を癒していくのを見た。
嘘のようだけど、確かに昨日は空も飛んだ。幻じゃない証拠に、洗面所からミルと由美子さんの、罵りでなく互いを理解したような声が聞こえる。夢じゃない。俺は唄を唄ったし、ミルはいる。全て現実だ。
これって、どういう事なんだろう。地球生まれで日本人してる俺と、明らかに違う世界から飛び込んできたミルが、同じ唄を記憶している。これが何を意味するのか。
頭に蘇る映像が何を意味しているのか。
俺の持つ不可解な能力は、何の意味を持っているのか。
今まで深く考えなかった自分自身の事が、大きく謎になって行く手を塞いだ感覚だ。湯気をたてるご飯を睨んで、奥歯をかみ締める。
毎日、食うためで一生懸命だった。生き抜くためで精一杯だった。父さんが死んだ30歳を乗り越えようと、それだけ考えてた。
俺が力を持っている不思議なんて、考える事もなかった。
「関口が何でもさ、お前はお前だからさ」
「うん」
「そう、深く考えるなよ」
「……」
水野、お前は俺が何者であっても、友達でいてくれるのか?
例え、俺がミルと同じ世界の住人だったとしても? 異星人であったとしても? とんでもなく、異質な存在でも?
水野の顔を思わず、見つめた。願うように、見つめた。
「おっ待たせしましたぁ! 見て見て、可愛いでしょ? 」
唐突に空気が破られた。廊下から濡れ髪の由美子さんが飛び込んでくる。風呂の使い方を教える為に一緒に入ったのか、辺り人工的な花の香りが漂う。普段使っている男性用ではないところを見ると、先の買出しで買っていてくれたんだろう。
先の緊迫した空気が入れ替わった事に、ホッと笑みが零れる。
「いやぁ。磨き甲斐あるよ。素材がいいからねぇ。ほら、変じゃないからおいでってば」
一拍置いて、新しい人影がリビングに飛び込んできた。
まだ湿気を含んだ艶やかな長い髪を流した女性。ほっそりと少女の面影が残る体のラインを見せるTシャツに、伸びやかな足のラインがはっきりなジーンズ。ずっと隠されていたのだろう肌の色は光を吸い込んで輝く白磁のようだ。市松人形がいきなりビキニになったような衝撃。
「毛先がバラバラだったから、洗面所のはさみで少し切ったよ。それだけでこんなに垢抜けちゃうんだもん。黙ってたら、その辺歩いてる女子高生より可愛いと思うな」
「確かに、いい線いってるよなぁ」
「でしょ? いい仕事したでしょ」
「でもまずいって。関口みたく女に免疫ない奴に、こんな可愛いの見せたら……」
青交じりの茶色い目を丸くして自分を見つめ、恥じらいを見せるような微笑を浮かべたミルから、視線を動かせずに立ち尽くしていた。しゃもじを持ったままで。
何も聞こえない。何も見えない。ミル以外、何も見ていなかった。
「パーカッションは一拍目をも少し強く。みんなをリードする気持ちで。クラリネット、スタッカート効かせて。フルートとピッコロも。金管組、主役だから目立っていいんだぞ。マーチなんだからさ、全体的に元気よく切れ味出さなくちゃ」
たった一週間休みにした途端、この気だるい演奏。目の前の生徒達に指示を飛ばして譜面を睨む。体育祭の最初の全体練習に間に合うか。いや、間に合わせなきゃヤバイ。
吹奏楽は文化部に分類されるけど、やってる事は体育会系に近い。夏と秋は体育会系に負けず劣らず忙しい。コンクールは夏休みにあるし、秋は体育会や文化祭で重宝される。コンクールの曲が終わったと思ったら、マーチをこなし文化祭向けのポップスをこなさなくてはいけないのだから。
夏休み明け初日の今日だって、夏休みの提出課題のチェックをこなして部活に顔だしている状態だ。
生徒から提出された膨大な数の宿題をチェックするのは、また一苦労。とり合えず、提出をチェックしてハンコを押す作業に追われてしまい最終下校時間が近い。時計を見て携帯を見て、少し冷や汗。
俺は出来るだけ早く仕事を終わらせたいんだ。すっかり予定時間が過ぎている。俺は早く帰りたいんだよ。
ミルは、一人で過ごせているだろうか。すっかり秋の夕方らしく赤く染まりだした校舎を見ながら、指揮棒の先で思わず頭をかいてしまった。
あれから夏休みの最終日まで、俺はミルに生活習慣を教え込むことに費やした。そして、ミルが生きていた世界が違うという事を思い知らされた。
時折大きな音を立て遥か上空を飛ぶ飛行機の音でさえ酷く怯えた。車やバイクの爆音には、テーブルの下に潜り込み刀を構えようとした。ミルにとって過酷な日々だったと思う。が、彼女は非常に飲み込みが早かった。まるで猫のように注意深く全ての音に耳を澄ましていた。俺の発する言葉に。テレビの会話に。家電を扱う仕草まで、食い入るように見つめていた。さらに、言葉を憶えようとしだした。
明らかに、何かを伝えたいのだろう。何か目的があってココに来たのなら、何かを伝えたいんだろう。
だから、俺は早く家に帰りたいんだ。言葉を覚えたミルは、何を語り出すんだろう。それが待ち遠しい。最初に口にする言葉は何だろう。その瞬間に立ち会いたいんだ。
けど、ちゃんとお昼を食べただろうか。冷蔵庫にサンドイッチを入れて「これを食べて」と身振り手振りを加えて伝えたつもりだけど。「夕方には帰るから」と伝えたけど。ガスを触って火事とか、外で何かの拍子に出ていないだろうか。刀を振り回してしまって警察沙汰とか。
あぁ、恐ろしい嫌な考えしか浮かばない。
何しろ、ミルを一人にするのは初めてだから不安だ。心配だ。
「この合奏で今日はラスト。気合い入れていくぞ! 」
俺はさっさと帰りたいんだ!
前髪をかきあげ、指揮棒を構える。目の前の生徒達がノッソリと楽器を構えるスローモーションに溜息を零して脱力。
怒らない。苛立たない。今日は早く帰るんだ。
念仏のように唱えてながら指揮棒を振り下ろすと、音がノッソリと動き出していった。怠惰な音が、校舎を埋めていく。