77 クマリの地は遠く
久々に見える地平線に心が踊る。深い海の青の向こうに、茶色の地平線が太くなっていく。
透き通るように緑や青の海の色が、すっかり暗く冷たい色に変っている。髪や袖をかき乱す風に鋭さが含まれてきた。
半袖で平気な常夏の採掘場から、随分と北のようだ。クマリの陸影が見えた今、晩秋のような寒さが襲ってきた。
まるで冬が早足で駆けていたような感覚に襟を合わせなおす。この世界にな無いだろうダウンジャケットが恋しい。
「あれがクマリ? 」
「あぁ。本当なら緑の影なんだがね。十年前の戦で焼き払われたから、今じゃあ禿山さ」
「でも、神苑は無事だった。綺麗な山だった」
「天鼓の泉は神苑にあったからねぇ。大分やられたんじゃないかい」
「俺がこっちに来た瞬間に壊されましたよ。酷い光景だった」
「そうかい……」
背後から吹く風に乱れる髪を抑えながら目を凝らした。
船首から望む大海原の向こう。あの大陸の奥に、スタートラインがあるんだ。
あの向こうに、テリンが眠っている墓がある。あの茶色の陸地の奥にそびえる神苑の近くに。焼けた建物の横に。
天鼓の泉からこの世界に戻って半年近く。
早いのか遅いのか。
「とりあえず、ここなら後李の軍もエリドゥもいない空白区域さ」
「誰もいないのか? 」
「海岸線に幾つか集落はある。真水の補給井戸と色街ぐらいだがね」
「色街? 」
聞きなれない言葉に首をかしげると、カムパが背後からつついてくる。
「ダショー様もやっぱ男だねぇ。気になるのか」
「ダショー様って言うなよ。だから色街って何」
「春を、ほら、女を買うんさ。いい年の男の割には、そういう事が判らないかねぇ」
サンギがしみじみと言う言葉に、血が逆流。
女性に解説させてしまった恥ずかしさで、とりあえず手が上に行き下に行き挙動不審。
伸びた前髪をかきむしり、思わず謝罪の言葉が出る。
「おう。サンギよ。ダショー様からの謝罪の言葉だとよ」
「だからダショー様ってやめてくれ」
カムパを睨むと、また豪快に笑われた。
どうにも、この熟年二人には翻弄されてしまう。確かに俺は「ケツが青い」若造だけど。
帆を張りなおす掛け声を遠くに聞きながら、伸びた後髪を一まとめに結ぶ。
この世界に来て半年。まるでハムスターの尻尾のように短いのは変なようで。大抵が長い髪を一まとめに結っているこの世界の中では、俺だけ格好がつかない。
そんな俺を見て、サンギは溜息をつく。
止めてくれ……俺まで哀しくなるよ。
「まぁ、それっぽく見えないのは好都合だけどねぇ、この際」
「ダショー様っぽく見えなくてスイマセンねぇ。一体どんな想像してたんですか」
サンギとカムパが顔を合わせて苦笑した。
「大体、クマリの乱は十年前だしねぇ。あたしゃ、ミンツゥがダショーでなくても十歳以下の子どもだと思ってたんだがね」
「そういえば、そうか」
「おいおい。自分の事だろう。本当にどういう術で大人になって戻ってきたんだい。ダショーは普通の人より早く大人になるんか」
笑いながら言う二人に、俺も笑ってしまう。
「俺を異世界に連れてった主様は、いい加減なんです。時間をあわせなかっただけだと思いますよ。普通に異世界で学生して大きくなって仕事してましたから」
「こりゃまぁ。ダショー様が仕事かい。想像できねぇ」
「異世界ってのが、想像も出来ないよ。まぁそのうち肖像画や神殿の像を一度見てごらんよ。本物見た後だと笑っちまうよ」
「それは歪曲に貶しているんですよね。絶対に……」
「いや。推測や想像を超えた年齢や外見ってのは本当に好都合だぜ? 何せ、この船には間者がいるようだからな。まだダショーが誰かを明らかにすべきじゃ、ねぇ。とりあえず間者が誰か探し出さにゃいかん」
俺の嫌味をカムパが楽しそうに返し、太い腕を組みなおす。
「保護した共生者達を陸地に帰す。まぁ、行く先がない奴は残るが……少しは見分けがつき易いだろ」
「でも大半は後李で捉まった共生者達だろ? クマリで返して大丈夫かな」
「後李で解放しても、また狩られるぜ。オレなら安全になるまで他の土地で暮らすがね」
「あ、なるほど」
「それに、共生者の大半はクマリ出身だ。荒野になろうと……故郷がいいのだろうさ」
故郷。そう口にした時にカムパとサンギが口元で笑う。
『ニライカナイ』の彼らには、苦しい言葉だったのだろうか。
全てはエアシュティマスが創めた。逃げる選択をした主人が、エアシュティマスが、彼らから故郷を奪ってしまった。彼らの子孫であるサンギ達から故郷を奪ってしまった。
「あんた達の故郷は、俺と一緒だよ」
南の青い海。白いさんご礁。焼き付ける強い陽射し。
あのニライカナイが故郷。
「日本にいても、異世界にいても、あの白い砂浜を見ていた。だから、俺たちの故郷はニライカナイの砂浜。あの珊瑚の砂浜だ」
「あんた……」
どうか許してくれ。
許してもらえると思えないけど。それでも俺はずっと許しを請い続ける。
エアシュティマスの記憶を持ち続ける俺は、ずっと願い続ける。
忠臣な彼らの思いを裏切らぬよう、報いるように、願い続け足掻き続ける。
「俺はずっと覚えていく。薄れていく記憶も多いけど、ニライカナイの砂浜は忘れない。あんた達の子孫が忘れてしまっても、俺はずっと覚えていく。それじゃあ、ダメか? 」
「ずっと覚えておいてくれるのかい」
「そりゃあ、最高の故郷だなぁ。おぅ、サンギ。最高じゃねぇか」
「そうだねぇ……ダショーの魂が覚えてくれるのなら、最高だねぇ……」
目尻の皺を深く深くして微笑むサンギに、照れくさくて視線を海原へ向ける。
「だからダショー様って言うのやめてくれ」
最初は「高貴な人」程度の言葉だったと思うけど、「ダショー」という言葉はずい分重くなったもんだ。
苦笑いと照れ隠しで、風で乱れた前髪を何度もかきあげながら溜息をついた。
「ダショー様って言うけど、ただエアシュティマスの記憶を記録してる魂だよ」
「だからダショー様じゃないかい」
「ダショーは、そんな意味じゃなかった。「高貴」とか「尊い」とか。そのぐらいだよ」
「充分じゃねぇか」
「違う。同じ魂だ。みんな同じ根源を持ってる。ただ、そう……」
言葉を選び、軽やかな水音の先を見た。
あの夜の海を飛びながら観た映像。光と闇が生まれた瞬間、受精卵のような星から零れ落ちた雫。あれはきっと魂の根源。
あの映像を皆が観れたらいいのに。そうしたらきっと、世界が変るのに。
潮風で遊ぶ海鳥の群れの中を、一羽の鳩が飛んでくる。その鳩に手を振りながらミンツゥとシンハが濡れた甲板を駆けている。
帆を張り綱を操る大人達の間を走りぬけ、笑い面をつけた少女が身軽に船の縁に上り鳩を受けとめた。
「星が奏でる旋律に耳を澄ましているだけだ。ミンツゥもだよ。ほら、浜で自分を失って精霊が暴走してしまった時だ。負の感情が星に繋がってしまったから気脈までひらいたんだ」
「じゃあ……あの子は本当にダショーだというのかい? 」
「ミンツゥも星の唄を唄う。俺と違う声でこの星の唄を唄う魂だよ」
「少しばかし、ダショーじゃなきゃいいと思っていたんだがねぇ」
「憂いは、俺が終わらせる。ミンツゥに俺やエアシュティマスと同じ思いはさせたくない」
哀しみも孤独も、もう充分だ。
ミンツゥは、新しい時代を創っていく。そうしなきゃいけない。
だから、俺はダショーと名乗ったんだから。
「おばさーん! イルタサから手紙来たよー」
「これミンツゥ。団長とお呼び」
「間違えちゃった。気をつけまぁす」
悪びれた感じなく、ミンツゥが船首に集まる大人の中へ走ってくる。
慣れた手つきで抱えた鳩をサンギに渡すと、笑い面が俺を覗き込んできた。
「何話してたの? 」
「別に。クマリの影を見させてもらってたんだ。手紙って、その鳩なのか? 」
「やだなぁ。手紙を運んできたに決ってるよ」
ミンツゥの言葉に戸惑っていると、サンギの太い指先が鳩を宥めながら器用に動き出す。
鳩の足に括りつけられた小さな円筒から、慎重に紙の塊を取り出した。
何重にも折りたたまれた紙は、風の中で千切れそうにはためきながら広がっていく。
「イルタサから? 」
「あぁ。とりあえず浜に残っていた一団をまとめて緑江へ動き出したようだ」
「そりゃあ良かった。浜の連中は海南道の兵に追われる事なく船に乗れたんだな」
「すごいな……伝書鳩か」
しつけられた鳩なのだろう。
鳴く事なくサンギの肩に留まる鳩は、愛らしい仕草で羽を畳み首を動かしている。
神社や公園でのさばっていた鳩より一回り大きいその鳩に、そっと手を伸ばしてみる。
一瞬戸惑うように首を傾げたが、間をおいて羽ばたき差し出した俺の手に止まった。
「ハルルン、鳩見たことねぇのか? 」
「いや……伝書鳩もいたけど、本当に手紙を運ぶ為に使われてなかったし。実際そんな鳩を見たことなかったし」
「じゃあ、どうやって手紙を運んだの? 遠くの人と連絡とれないと困ったでしょ」
「そういうのは『電話』とか『メール』とか。うん、上手く言えないけど、カラクリみたいな道具があったんだよ」
伝書鳩の世界で、電話やネットの事を話しても理解出来ないだろう。
曖昧な返事で首を傾げるミンツゥとシンハに微笑み、ふと思いつく。
「なぁ、サンギ。採掘場の事は事件になってるのかな。それとも事故か? 」
「どういうことだい? 」
手紙から目を離してカムパと顔を合わすサンギに、確信する。
この世界には、情報を操るメディアは存在しないかもしれない。まだ、新聞という媒体すら存在しないのかもしれない。
体の芯が震える。
これを使わない手はないかもしれない。
鳩をカムパに渡しながら、思わず深呼吸をする。
「採掘場の事は、後李にとって非常に都合が悪い事だ。宙船の動力源を失って兵力は減るし、不安因子の共生者達は逃がしてしまうし、敵対するエリドゥ法王国に対しても隠しておきたい事だ。きっと、春陽で政治をしている連中は採掘場を失った事を内密にしたいはずだ」
「そりゃ、そうだろう。エリドゥには隙を見せるし、軍事に傾倒して普段から不安が高まってる民には、そんな失敗は認められないだろうねぇ……。いや、採掘場だって、普通の民衆には知られてないはずだ」
「じゃあ、もし採掘場で起こった事が噂になったら、後李帝国の民はどう思うだろう。共生者を秘密裏に拘束して大量の虹珠を生産していた場所が破壊された、大量の共生者達は逃走、兵力は落ちてボロボロ……って噂が流れたら、後李帝国の民衆はどう思うだろう」
普段から大きな顔をしていた軍が大失態をして、自分達が虐げていた共生者達が、自由の身となって逃亡中。普段の生活を揺さぶれられた民衆の怒りの行く際は、一つだ。
「民衆の怒りと不安は、後李帝国に向かう……出来ないかな」
「……おい、そりゃあ……」
「噂を流すのかい。わざと、人々の口に乗せて国中に運ぶのかい」
宙を睨み黙ってしまうカムパとサンギの様子に、ミンツゥは不安そうに何度も大人達の顔を見渡す。
解説を求めるように、俺の袖を軽く引っぱるミンツゥに頷いた。
はっきりと、言おう。
何をしたいのか。何を求めるのか。何を望み描くのか。
「俺は、クマリの姫宮を奪い返したい。後李がクマリを潰す気なら潰し返す」
「クマリの乱の、報復を望むのかい……」
「いや。共生者が翻弄するのなら、相手になるだけの話さ」
「じゃあ、エリドゥは」
「姫宮を軟禁している。それに」
口に出してから気づく。
ミルを手に入れてサヨナラ、ではない。それだけではない。
硬く握った拳をゆっくりと広げて、手の平を見る。
見えない青い蜘蛛の糸を、見る。
「俺の魂を拘束する蜘蛛の呪縛を解き放ちたい。それが出来るのならエリドゥが崩壊しても構わない」
「で、でも深淵の神殿は始祖エアシュティマス様が」
口ごもるサンギに微笑む。
俺は聖者なんかじゃないんだ。
春休みで書き溜めが出来なかった為,更新を少し遅らせます。
次回は5月9日 水曜日に更新予定。
すみません。