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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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 75 束の間の帰宅

 グラスの中で氷が音を立てて崩れた。

 鈴にも似たその音で、自分がいる場所に気づく。

 お気に入りの映画音楽が流れる中、エアコンが涼しい風を送り出している。

 壁いっぱいに並べられた本棚。飾られた両親の写真。いくつか傷がついたテーブルに並べられた器に、汗をかいて置かれた冷酒のボトル。ほのかに薫る芳醇なアルコール。スモークサーモンにイクラに、豚の角煮と寄せ豆腐にゴーヤーの天婦羅。

 全てがお気に入り。日本にいた時のお気に入り。俺の家。大好きだった音楽。居心地のよかったリビング。食べ慣れた好物。

 遠い過去のような記憶が、目の前に広がっている。


 「もう待ちきれん。とりあえず乾杯しよーぜ」

 

 懐かしい声。

 いつものジャージを着た水野がいる。

 テーブルの向こうで真っ黒に焼けた顔が笑っていた。僅かに目尻に皺が出来て頬が肥えて、ほんの少し年をとった水野がいた。

 

 「おい」

 「あ、あぁ」


 促されるままにガラスの杯を手にすると、酒が満たされる。

 指先に触れる酒の冷たさに混乱してしまう。

 現実? そんな訳はない。

 そっと胸元の紐を手繰り寄せる。指先には指輪の感触がある。着ている服はTシャツにジーンズではなくて、日に焼けて模様も消えかかった着物だ。

 俺は確かに、ミルの世界に行ったはずなのに。二度と帰れないはずなのに、何で家に帰ってきてるんだ?

 内心パニックな俺を尻目に、水野は手酌で酒を満たして杯を目の前まで上げた。


 「じゃあ、久々の再会を祝してって事で」

 「そうか、そうだな」


 そうか。これは夢だ。

 夢だよな。

 夢に決っている。じゃなきゃ、ありえない。

 

 「乾杯っ」

 「第二子誕生も祝して、も一つ乾杯っ」

 「え、マジ? 」

 「おう。可愛い女の子なんだよぉ」


 途端に目尻が下がる水野と、再び杯を合わせる。

 勢いついて酒が少し零れた。

 慌てて布巾で拭く間に、水野が小さな液晶端末を取り出す。

 画面から飛び出しそうなアップで、小さな男の子と安らかな寝顔の赤ん坊が映し出されていた。

 

 「由美子さんに似ててよかったな」

 「ま、まだ判らんぞ。二歳までは顔が変るからなっ」

 「そうなのか? でも由美子さんに似なきゃまずいだろ」

 「関口……そういうトコ全然変んないなぁ」


 ぎゅんと、心臓が痛んだ。

 『関口』と名前を呼ばれる事が、こんなにも懐かしい。

 その名前に、たくさんの思い出がある。それを全て置いて、俺は遠くまで来てしまったんだな。

 振り返ったら、とてつもない遠くまで。もう地球の光が届く事がない、果てまで来ていたんだな。

 愛おしい、この思い出が堪らなく愛おしい。


 「そんで? そっちの世界はどうよ? どう……その、ミルちゃんとうまくやってるのか」

 「あぁ、うん、まぁ」


 躊躇いながらの問いかけに、目を伏せたまま箸をとる。

 小鉢の箸に芥子をつけて、豚の角煮の脂身をつつく。程よく煮込まれた脂身がコラーゲンを揺らしている。

 ブルン、ブルルン。


 「どんな感じなんだ? ほら、食べ物とか、景色とか、魔法使いのコスチュームとか際どいとか」

 

 揺れる。揺り動かされる。

 平常心なんか保てない。俺は何やってるんだ。判ってる。自分の落ち度だ。運がなかったとかじゃなく、自分の力不足。

 脂身に箸がめり込んでいく。ズブズブと蕩けるように突き刺さって。


 「ミルとは、一緒じゃないんだ」 

 「お、おう? 」

 「あれから色々あって……一緒じゃないんだ」

 

 耳に雷鳴が蘇る。玉獣達の遠吠えが聞こえる。肉が焼き焦げる臭いが鼻の奥を叩きつける。

 職も家も、家族の思い出の品も友人も、全てを捨てて異世界に行った末にこの様だ。

 裂けて千切れた脂身を、口に放りこむ。

 蕩ける堕落の味。


 「もう半年は離れ離れで……」

 「馬鹿かお前! 」


 ごつい水野の拳が叩きつけられて、箸がテーブルの上を転がった。

 

 「離れ離れって、離婚したんか! 別れたんか! 振られたんだな! 」

 「振られてねぇよ! 」

 「半年も何やってんだよ! 」

 「それどころじゃなかったんだよ! 」

 「何がそれどころじゃなかったんだよ! 」


 水野の言葉に、頭の中で感情が爆発する。

 勢い、杯を傾けて酒を一気にあおる。食道を流れ落ち、胃の腑が焼けた。怒りで燃え上がる。

 知らないくせに。何も知らないのに。考える事も出来ないだろうに。

 異世界で生活していく事がどれだけ大変か。日本で恵まれた生活をしている水野に判る訳ない。

 清潔な水も、明かりも、溢れる湯も、垂れ流しで使える世界じゃない。

 肉が食いたかったら、自分で動物の首を絞めなければいけない。内蔵を抉り出して、火種から熾した火で毛をむしった肌を炙り焼き、血の滴る肉と骨を断って。

 そんな生活を送りながら、深淵と後李の動向に気を使う逃亡生活。ここでオワリなのかなと、何度も思った。もう終りたいと願った。

 極限だった。

 

 「そんなんじゃない! 別れたくて別れた訳じゃない! 」

 「……。振られてないけど、半年間離れ離れ? 」

 「う、うん」

 「でも振られてない? 」

 「の、はずだ」


 思わず二人して立ち上がったまま、顔を見渡す。

 流れる沈黙が、過ぎ去った時間と現実との隔たりを表す。

 俺たち二人を取り巻く状況は余りにもかけ離れた。それを実感して顔を見つめあう。水野の太い眉が八の字に垂れ下がる。

 泣くなよ、水野。

 そうだよ。俺はそれも受け入れて異世界に行ったんだ。


 「話すと長くなるんだけど、まぁ、座ろう」

 「……そうだな」

 「そんな顔すんな」

 「してねぇよ」


 横を見て不機嫌な顔を作る水野の杯に酒を注ぎ、腰掛けて、深く息を吐く。

 色々な事がありすぎて、どうすれば話せるのかも判らなくて。

 とりあえず自分の杯も煽り、酒を満たしてから頷く。

 

 「ホント、長い話になるんだけどさ」


 アルコールが入らないと、最後まで話せる自信がない。

 情けなさに、一気に杯を仰いで焼け付く胃袋から深く息を吐き出して。

 まず、自分の立場を。そして繰り返し生まれても切れない深淵の蜘蛛の糸を。

 クマリの滅亡の様を。すっかり変ってしまった世界を。五百年の流浪の末に再会出来たニライカナイの仲間を。

 そして、ミルとの別れを。

 話終わる頃には、寄せ豆腐は無残に崩れ果てた。豚の角煮とゴーヤーの天婦羅は油を残して平らげて、イクラは数粒、小鉢の中で溺れている。

 酒だけは、注いでも無くならない。吐く息から濃厚な酒のニオイを感じつつ、自分の杯に酒を注ぐ。


 「じゃあ、これからどうするんだよ」

 「うん」 

 「うん、じゃねぇーよ」


 酒がまわると、少し絡みがちな水野だった。手酌をしながら、あいかわらずの説教口調。

 懐かしく思いながらも、俺は曖昧に返事をする。

 俺のその態度がまた気に入らないのか、人差し指を突きつけられた。


 「お前なぁ! 男ならミルちゃん迎えに行け。絶対に評価上がるぞ。レベルアップだ。惚れ直させろ」

 「軽く言うなよ。深淵の神殿だぞ。呪術の総本山だぞ。罠があると判ってて敵の手中に飛び込むのか」

 「おうよ。火中の栗を奪うんだ」

 「ミルは栗じゃない」

 「愛しい恋人だろ。わぁってる。わぁってる」


 判ってる、と言いたいらしい。かなり酔ってきたな、こいつ。

 

 「でも、愛しい女を迎えに行かねばならん! 」

 「あのな。実家に帰った奥さんを迎えに行くみたいに軽く言うな」

 「な、何で知ってるんだよ」

 「……」


 水野。お前、何回バカをやらかしたんだ。

 少し水野夫婦の実態に不安を覚えながら、小鉢を手に取る。醤油の中のイクラを箸で摘んで。


 「深淵の神殿は、きっと俺がミルに逢いに行くのを待ってる。罠を張り巡らせて、待ってる。捉まったら、もう、逃げられない。残りの時間を全て、水底の小部屋で過ごさなきゃいけない。結界が張り巡らされて、祈りと儀式が繰り返される生き地獄だ」

 「監禁、じゃん」

 

 水野の零した単語に、苦笑してイクラを口に入れる。

 イクラが弾ける感触に、水音が重なった。世界への小部屋は、祈りの小部屋に湧き出た泉の祠だけだった。そこから、風と海の感触を探って。

 そう。泉から伸びる水の気脈から世界を見ていたんだ。


 「いや、まてよ」

 

 そうだ。気脈は通じている。

 まるで体内を巡る血管のように、星には気脈が張り巡っている。世界を繋ぐインターネットのように。


 「おい、どした」

 「なぁ、水野。ハッキングするには、どうすればいいだろう。アクセス元をばらさないでとか」

 「いきなりパソコンかよ。設定場面変りすぎだバカ」


 ニライカナイの仲間達を巻き込めない。

 だから、何処から侵入したかは隠したい。

 水野は無茶苦茶に飛躍した俺の疑問を受けとめて、宙を睨んで首を傾げた。

 「水野、お前天才だ」

 「今頃気づいたか」


 酔っ払いのバカ会話で、目が覚めた。

 

 「ひょっとして、上手く出来るかも 」

 「ハッキングって犯罪だぞ。何するつもりなんだ」

 「異世界にインターネットはないから安心しろ」

 「いんや。何か悪い事考えたんだろ。関口のその目は怪しいぞ」


 出来るかもしれない。

 ひょっとしたらミルを迎えに行けるかもしれない。

 頭の中で考えが湧き上がるまま、立ち上がった。

 酒飲んでる場合じゃない。帰らなきゃ。俺の居場所へ。あの世界へ。

 どうやって?

 ここは、夢だった?


 「はーるちゃん」


 立ち上がったまま帰る方法が判らずに固まった俺に、温かな声がかけられる。

 リビングの外からかけられた女性の声に、ゆっくりと首を動かす。

 心臓が爆発しそうだ。俺を「はるちゃん」と呼んでくれた人は一人だけ。


 「はーるちゃん」

 「かぁさん」


 陽が降り注ぐ庭先に、幾人もの人影が立っていた。

 逆光で見えにくい彼らの顔は見えないけど判る。その立ち姿と声で。


 「はるちゃん。無茶しちゃダメよ。頑張り屋さんだから、すぐ無茶しちゃう」

 「男の子なら無理するぐらいでいいんだよ。はるき。いい子が見つかってよかったな」

 「とぉさん……ばあちゃん、じいちゃん」

 「晴貴。ちゃんとご飯食べんといかんよ、しっかりせにゃ」


 窓ガラスの向こうで頷く姿に叫びたい。

 俺、ここにいる! 逢いたかった! 一緒に居たかった! そこに行きたいよ! でも。

 窓の外は、ガラスの向こうは、この世ではない。俺はそこへ行くことが許されてないんだ。

 叫びそうな口を両手で押さえ、震える足を踏ん張るしか出来ない。


 「かぁさん! とぉさん! じいちゃん! ばあちゃん! 」

 「え、あ、いつもお世話になってます! 大学が一緒だった水野……ぅおおおお!! 」


 立ち上がった水野が、ひっくり返ってテーブルの向こうで倒れた。

 食い散らかしたテーブルの上に白い大鷹が翼を広げて天井のどこかから降りてきてる。

 金色の見事な毛並みのライオンが器用に後ろ足で立ち上がり、前足のツメに引っ掛けて最後のスモークサーモン一切れを頬張った。


 「時間だぜハルルン」


 ぱちん。

 光が弾けた。

 


 


 

 

 


 


 




 


 


 次回 4月4日 水曜日の更新予定です。

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