74 世界の歯車が回りだす
背後で風が唸った。
振り返った俺の周りを一陣の黒い突風が飛び去った。
「ハルキー! 」
そして絶叫と共に、トナカイのような玉獣が急降下。水飛沫を巻き上げて海面を駆けてくる玉獣にしがみついているミンツゥに、顎が外れそうになる。いや、開けた口から空気だけが抜き出る。
「……な、なに、何やってるんだよ! 禄山が連れてきたのか! 」
「脅されたんです! 殿に知れたら私は半殺しですよ。まったく」
禄山がいつもの涼しい顔に大量の汗を浮かべて、ミンツゥを前に乗せた玉獣を操っている。
脅されたという事は、ミンツゥが何かやったという事だろうか。
トナカイ玉獣にしがみついているミンツゥが、振り落とされるように波打ち際で崩れ落ちる。
慌てて駆け寄って引っぱり揚げた途端、青い瞳が潤む。
「ハルキぃいい」
「な、泣くなよ」
「だって、だって、だってぇ。ずっとダショーだって隠してたのに、隠してたのに、あんな事して飛んでっちゃうし、もう死んじゃう思って、どうしよう思って」
泣きながら言う事が支離滅裂。
青い瞳から涙を流して、顔をくちゃくちゃに歪ませて鼻水まで出ている有様で。
腰にしがみついて泣くミンツゥの取り乱し方に、苦笑いをして片手で栗色の髪を何度も撫でてやる。
こんなに心配してくれる人が、出来たんだ。それが少し嬉しくて。
「まだ泣くには早いでしょう! 矢が降ってきてるこの状態で和まないで下さい! 」
「そっちは大丈夫だ。お嬢! ご無事ですか! 」
玉獣の上で刀を抜いた禄山の上空を再び黒い風が吹き荒れる。
それらは黒装束を着た素破達だ。雨のように降ってくる矢を、玉獣が巻き起こす風で全てなぎ払っている。
カムパが一陣の風から降りて、ミンツゥの体を一通り点検するようにあちこちを軽く叩き、大きく息を吐いた。
「無茶をしますな。まったく…しかし驚いた。本当にお前が結界を解いたんだなぁ。玉なしの……」
「それ以上言うなっ」
慌てて遮ると、ニヤリと笑いかける。このおじさん、頼りになるけど困ったもんだ。
その雄姿を見上げながら、ミンツゥが大きく鼻をかむ。嗚咽が止まってきた。
「サンギ達は? 」
「船を全速力で動かしてます。共生者達を保護しなければいけませんから」
「あ、そうか」
「全然なにも考えないで飛び出したんですか? とにかく。ミンツゥさん。ハルキ殿の無事を確認したのですから帰りましょう」
言葉遣いは丁寧に。でも拒否を拒むような強さを含めて言う禄山に頷く。
ここはまだ危ない。
「ミンツゥ。少し離れてろ」
「でも」
「今から虹珠を何とかしてみる。でも、音叉を使われたらどうしたらいいか……アレは苦手なんだ」
脳裏に掠める記憶。
ハルンツの時に、確かに音叉を使われた。まだ唄を上手く唄えなかった時に、音叉を使われて囚われた。
今だ覚えている、全ての振動を消し去る圧迫感。心まで侵食する無音の痛み。あの苦痛の中にミンツゥを巻き込みたくない。
まだ濡れている青い瞳が不安で揺れる。
この子を、傷つけたくない。
祭壇で精霊の渦の中で泣き叫んでいた声を思い出す。
今なら判る。
ミンツゥは星に感情を繋げてしまったから、精霊たちが急激に一点に集まって暴走してしまったと。星がミンツゥの感情に同調するところだったと。それが出来るのは、『ダショー』だ。
この子は、間違いなくダショーだ。
俺と同じ、星の唄を唄う存在。
「ミンツゥは、サンギ達の所に行っていた方がいい。船を呼んでくるんだ」
「私も手伝うよ! 一緒に唄う! 」
「まだ早いよ。ミンツゥが唄うのは次の時代の為に取っておくんだ」
「ハルキ? 何言ってるのか判んないよ」
「ミンツゥ。キミは次の『ダショー』だ。俺の後、この星の為に唄うべき人間だ」
息を飲み込む音が波音に消される。
俺を見上げる青い瞳が、揺れた。
「星が囁く青い唄を、キミが唄い継いでいくんだ」
「ハルキ……」
それなのに。
今この瞬間に後李が音叉を鳴らすとも限らない。本当はミンツゥを力ずくで押し返したい衝動を抑えながら、そっと頭を撫でる。
怖がらせたくない。傷一つつけたくない。柔らかな頬にも、温かい心にも。
「ほら。ミンツゥ。オイラの背中に乗りな」
「うん……でも」
「シンハ頼んだぞ」
「合点承知っ」
金色の体がミンツゥの足をすくうように、強引に体を持ち上げる。水しぶきを上げて飛び出すシンハに、悲鳴をあげてしがみつくミンツゥ。長い金色のたてがみを掴まれたシンハが、文句も言わずに真っ黒な海面を風を起こして疾走していく。
小さくなる後姿を見送り、大黒丸を握り締める。
「手伝える事はありますか」
「何もない。……あ」
禄山に即答してから、ふいと思いなおす。過ぎる恐怖に、武者震い。
「もし、もし俺が倒れたら」
「倒れる訳ねーだろ。お前はダショーなんだろ。ならガツンとやれや」
唐突に言葉を遮り、不敵な笑みを浮かべてカムパが仁王立ちした。暗闇の向こうの島影に向かい、スラリと刀を抜き放つ。
夜風が熱を帯びてゆく。
「腹に力入れろや。ここで踏ん張らにゃ、いつ踏ん張るんだ。ダショーならあの馬鹿共に一発見舞ってやれ」
「……はい! 」
「何人だろうが、お前には髪一本触らせん。安心して唄えや! 」
「全て、貴方様に委ねます」
禄山が玉獣から飛び降りてカムパの横に並び立つ。
その後姿が格好良すぎて。
ここで決めなきゃ、どうする俺。
「どうか、どうか……」
俺は弱虫で怖がりで寂しがりで。
それでも、もう逃げるのだけは嫌なんだ。
せめてカムパと禄山の無事を。囚われたシャムカンの無事を。束縛された精霊たちの解放を。
握り締めた大黒丸が脈打つ。まるで心の中の祈りが聞こえたように、力強く震えだす。
深く息を吐き出し、全てを空っぽにして夜空を見上げる。
俺という器を震えさせて下さいと、誰ともなく願って。
「 八百万の神々の 住まう天地深淵の果て 全てに響かせ轟かそう」
震えろ。もっと震えろ。壊してしまうほどに。この体がバラバラになっても響き渡れ。朗々と喉から迸る音よ、響け。世界を響かせろ。
この世界で生きているもの全てに。空を渡る鳥に、大地を駆ける獣に、水流の中しなやかに泳ぐ魚に、精霊たちに。
地上の王者と勘違いしている人間達に、響き渡れ。
「天道そびえる十二の宮 巡り巡り六十支 永久の契約の下 吾は叫ぼう 汝の栄光を エンリル その道からは世界を回す その慈悲の下吾らは従いましょう 」
弾ける気配。闇の向こうで無数に弾ける気配が聞こえる。次々と島の中央から虹色の発光が繰り返されるのを感じる。
体が震える。歓喜の咆哮が確かに聞こえる。その奥から聞こえる、光を吸い込もうとする音も感じる。
音叉の音が聞こえる。
かつて束縛された、忌々しい振動を打ち消していく音。でも、解放された精霊たちの歓喜の咆哮の前でかき消されていくのを感じる。
様々な旋律を唄い舞う音の前で、音叉の音がねじ伏せられていく。
手の中の大黒丸が、一際強く震えて頭の芯まで整えていく。調弦の音が唄声に重なり響いていく。
俺の体が本当に、楽器のようになっていく。大きく全てを震わせていく。奏でていく。
何て心地よい。何という解放感。精霊達の唄が、俺の心をも動かしていく。喉から迸る音が、無限に広がってゆく。
意識も広がってゆく。
遠くから聞こえる声が重なり、新たな響きが生まれていく。
ミンツゥ。キミも唄っているんだね。
聞こえるよ。キミの声が聞こえる。感じるよ。
この祈りは何処までも広がっていく。水面に落とした小石が描く水模様のように、きっと世界へ広がっていく。
深淵にも届くだろう。ミルも感じているだろうか。
アイも、感じただろうか。
今の世界を見てくれ。歪んで腐りきった世界を直視してくれ。
もう気づいてるだろ。気づいていたんだろ?
さぁ、何をやらねばいけないか。
「 これをもって 全ての終わり 全ての始まりとする この拍手は 拍手ではなく 神の御息吹なり 鼓動なり 」
さぁ動き出せ。全ての始まりだ。
大黒丸を砂浜に突き刺し、大きく広げた両手を重ねあわせる。乾いた音が空気をさらに張り詰めさせる。
途端、島の山陰から幾筋もの光が立ち上り弾け飛ぶ。光の粒が爆発するように、まるで花火のように。
「これは何と、何と! 」
「豪勢だなオイ! こりゃすげぇや」
虹球に閉じ込められていた精霊たちが解放されていく。雷を身にまとい、火を弾けさせ、風の中へ舞っていく。
喜びの悲鳴が絶え間なく空気を震わす。木霊のように、それは絶える事なく連発していく。
夜空がまるで昼のように明るく照らされ、銀や金の流れ星が夜空を舞い飛ぶ。
この光景を感じる人よ、見届けた人々よ。どうか世界の平安を祈って。
ミンツゥ。これがキミが生きていく世界だ。
その小さな手に零れんばかりの祝福を送るよ。
「世界は、こんなに美しい」
いつだったか。
ナキア妃が俺に囁いた言葉を繰り返す。
「この世界は美しい」
ミル。
深淵の底でこの光景を感じているかい?
次回 3月21日水曜日 更新予定です。