73 遠く彼岸を目指して
大黒丸が宙を切る。まるで霧を払うように、大蛇が消えて光の粒となり風を舞う。
まるで涙のように煌いた。
「キリがねぇ! 上から突っ込むぞ! 」
シンハの叫びに、両手で大黒丸を構えなおす。
星の明かりを反射する夜の海の上に、そびえる巨大な漆黒の半球体。その表面に次々と無数の大蛇が湧くのが見える。
「あぁ……」
底なしの絶望。いつ終わると判らない哀しみ。一方的な、理不順な暴力。
精霊たちは、そんな中に堕ちてしまったんだ。
耐え難い苦しみの中で、憎しみを身にまとってしまった。汚れてしまい、そして汚れてしまった哀しみが再び憎しみを生む。
人が生んだ恨みや絶望や哀しみという汚れを、洗い流そう。
生まれた時を思い出せ。この星から零れ落ちた光を思い出せば、きっと。
『 愛しい子 』
大黒丸を握り締めた右手が温かく包まれた。
『 私はここにいる いつも貴方の心にいる その唄にいる 』
半球体の天頂高く駆け上がったシンハの背で、俺は温かな何かに包まれた。
背中から抱きしめられた感触が、記憶を呼び覚ます。
優しい声が囁くその言葉に、懐かしさが込み上げる。
『 さぁ唄いましょう 愛しい子 私のタシ 』
この異世界に飛ばされた時、無数の記憶の底から囁きかけた女性の声が温もりの中から聞こえる。
そうだ。これは、この声は
「……かあさま」
俺の中のハルンツが、深く最奥で眠るタシが、喜びに震えた。
記憶に住み着くエアシュティマスが叫ぶのを感じた。
ナキア妃。貴方なのか。
「行くぞぉお! 」
シンハが絶叫とともに、半球体目がけ一直線に落ちる。重力よりも早く、闇に向かい落ちていく。
息が出来ない風圧の中で、視界の端で流れ飛んでいく星の光を感じながら、心の中で叫んだ。
かつて神を罵倒した男が、こんな事を思うなんて。
神様。罵って構わない。嗤って当然だ。
それでも俺は祈らずにいられないんだ。
それでも俺はもう一度信じたいんだ。信じずにはいられないんだ。
ナキア妃の存在にようやく気づいたから。ミルに逢えた事が奇跡と思うから。奇跡と、感じられるようになったから。
何て都合がよすぎなんだ自分。そう嗤ってしまうけど、希望を、一筋の光を感じる事が出来た俺に貴方を信じさせてくれ。
「おおおお! 」
本当に神がいると確信したから。
だからどうか、見ていて欲しい。
ナキア妃。
どうか一緒に唄ってくれ。俺を導いて。
地獄に落ちていこうとする彼らに一筋の光を差し込ませたいんだ。
この星が、これ以上哀しむ事がないように光を与えたいんだ。
どうか。
「ぅおおおおお! 」
声にならない咆哮とともに大黒丸を強く握り締める。
頭の芯まで震動が響き渡るのを感じながら、目の前に迫った闇に向けてシンハの背から飛び出す。
重力に体を捕らえられたまま、黒く光る大黒丸の刀身を振り上げた。
どうか。
何度も道に迷い彷徨った俺に、人間に、欲望の巻き添いになった精霊に光を。
ハルンツが、タシが、記憶のエアシュティマスが、かつての俺達が昂ぶる。
光を与えて。導いて。
ミル!
「--っ! 」
大黒丸が闇の半球体に突き刺さった瞬間、黒い粒子が爆発するように吹き上がる。
夜空の星明かりまで吸収するように、空気に霧散しながら粒子が体に張り付いていく。足元から無数の子蛇が這い上がる。足首を引き釣りこみ、底なし沼のような闇へ引っ張り込む。
侵食するように伝わる、深い闇に落ちていく感覚。
絶望だ。
感じるよ。ほら、それは俺の心にもあるんだ。だから怖がらないで。
喪失感も、憎しみも、悲しみも。ほら。
一人じゃない。キミだけじゃない。
キミは俺で、俺はキミだ。
一緒に泣こう。声を上げて叫ぼう。
「 ハルルン! 」
ただ、健やかに暮らしたいだけなんだ。
大切な人達と、愛する人と、穏やかに過ごしたいだけ。
見上げる空に、星が煌いている。北の極星の横で超新星が輝いている。
聞こえる? ねぇ、神様。
星の影から、見ていますか?
どうか願わせてくれ。
精霊と、大地と風と水の中で生きる、この星の全ての存在に幸せを。
この星に幸せを。
『 母なる大地に感謝を込めて 我らは唄う 大地の上から光り輝き唄う星 』
ナキア妃の優しく囁く声に包まれる。
その体の奥から響いていく唄声が、一筋の光のように喉から零れていく。
まるで子守唄のような温かい、それでいて荘厳な響きを持つ唄。
内から響く唄に、そっと声を重ねる。
「 我らは唄う 父なる大気に感謝込めて 我らは唄う 大気を震わせ風となる 生まれる命に祈りを捧げて 緑の木々と花になる 」
手の中の大黒丸が、再び震える。まるで唄声を大きく震わすように、旋律に重ねるように鳴り響く。
「 連なる山々へ 空へ雲へ 湧き出る泉へ 太陽と月へ 夜空の星星へ 祈りは運ばれる 母なる大地の果てまでも 父なる大気の全てに染まる 」
脈打つように大黒丸が震え、俺の体を包んだ大蛇が霧になっていく。淡く青い光となって、蛍の乱舞のように舞い上がっていく。
唄うたびに、心が広がっていく。まるで体が消えていくように心の感覚だけになっていく。
『 唄え 青い瞳を持つ人間 』
ふわりと、主様が舞い降りる。
闇夜に浮かぶ真っ白な翼を広げ、半球体に突き刺した大黒丸の反りに止まった。
『 この世の澱みを律せよ 心を解き放て 』
大黒丸の中から、一つの和音が大きく膨らむ。
背筋を電流のようなものが駆け上がり鳥肌が沸き立つ。まるで自分が大きな楽器の一つになっていくような快感。
弦を弾く。その震動を空気に放つ寸前の溜め。
大黒丸が白く輝いていく。
限界まで震えビリビリと静電気を溜め込むような感覚。大黒丸を握り締め震える手に、温かな感触。感じる。ナキア妃が手を添えてくれている。
俺の体は、魂は、きっとこの星の楽器のひとつ。この星が唄うための、一つの道具。
さぁ奏でよう。俺の唄で張り詰めた弦を弾けさせよう。
「 我らは唄う 」
溢れ出す膨大な力が、闇夜を白く輝かせ黒い半球体を崩していく。チョコレートが熔けるように黒い粒子が落ちて、蛍のような光の粒となって輝いていく。
無数の蛍火が空を舞う、それは夜空の星が一斉に落ちてきたかのような光景。
髪の毛一本一本が逆立ち、放電するように震えながら夢のような光景に見入ってしまう。
舞い踊る蛍火の一つ一つが歓喜の唄をハミングしている。重なるハミングが大きな和音を奏でだし、凝固まった精霊たちを慰めて連鎖反応が起きていく。
喜びの輪唱だ。終わることのない賛歌。
蛍火は、まるで満月の夜の珊瑚の産卵のように揺れていく。あぁ、そうだ。精霊達が卵に還っていくのかもしれない。
憎しみと悲しみで疲れた精霊は、卵に還って生まれ変わっていくのかもしれない。
ゆっくりお休み。
今度はまた、一緒に唄おう。
「さぁ行こう! 」
まだ唄っていない精霊達が下にいる。
下の島に澱んで潜む人間達の心が鎖となってる。解放させなくては。
「ハルルン大丈夫か? 」
寄り添うように隣に飛んできたシンハに頷いて微笑む。
精霊だけじゃなく、俺の心も解放されたような心地よさ。
それは記憶の底にいた女性が、エアシュティマスの妃だった事が判ったからか。
最初の魂の主タシが母親に逢えたからか。
それもあるけど、きっと違う。
自分が何者か判ったから。自分の役割が判ったからだろう。
自分は深淵の神殿が恐れるような最終兵器ではなかった。精霊を自在に操る魂ではなかった。
この星が奏でる唄の、一つの旋律を唄う為に存在していると判ったんだ。
多分、きっと、そうだと思う。
アイが吐いた言葉に縛られていたと、気づいた。
俺は汚れた聖者でもない。世界を恐怖で服従させる力でもない。それは深淵の神殿が俺に望んだ役割だったんだ。
俺は、ただ星の唄を奏でるパートの一つなんだと判ったんだ。
「まだまだ行くぜっ」
「怖気つくなよ」
「ハルルンこそ」
青い雷が風の中を走る。火花が飛び散る。海面から水柱が立ち上る。巻き上がった水滴が花弁に変化する。
精霊がその力を昂ぶるままに表している中、ゆっくりと海面へ向かって降りていく。
地上の混乱が聞こえる。恐怖を感じる。
今や島全体を包むように奏でられる精霊の唄の中、雑音が不協和音をかき鳴らしているのは人間達だ。
大砲の弾込めを命じる声。逃げ惑う足音。延命を望む自己満足で朗読される祈りの言葉。
全てが煩わしい。
海面にそっと着水すると、水の精霊が優しく受けとめてくれる。さぁ、唄って。キミ達の唄が聴きたいよ。
「ハルルン、何か臭い」
「火薬の臭いだよ」
「あいつら、ひょっとして馬鹿? 」
海岸で爆発音と同時に火花が上がる。
何で大砲で対抗しようと思うんだろう。
精霊が大きな力を現しているというのに、それでも物質で人間が支配しようと思うのだろうか。
風が舞い上がる。
俺が唄う事もない。精霊達が大きくうねり出す。
風が砲弾を包み、細かい粒子として飛ばしていく。一つ二つと、飛んでくる砲弾全て消し去る。
その唄をかき消すように、空気を切る甲高い音が連続する。
「……訂正する。あいつら馬鹿なんだな」
シンハの言葉に、小さく頷く。
闇を切り裂くように、無数の矢が放たれているのが見えた。
俺に向かって雨のように降り注ぐ矢に、哀しくなる。
これ以上罪を重ねてどうするんだ。
もう、逃げてしまえばいいのに。それも出来ないのだろうか。撤退すると、彼ら軍人は処刑されてしまうんだろうか。
海岸の混乱を見ながら、そっと唄う。
もうお仕舞いにしないといけない。
精霊も、人も、傷つきすぎたんだ。
サブタイトルに『彼岸』と入れましたが,死後の意味ではなく『目指す理想』『悟りの先に行くところ』の意味で使いました。宗教的な意味はありません。念の為に。
次回 3月7日 水曜に更新予定です。