72 青い唄が囁く
南の海に、真冬のような氷固まった空気。
誰もが口に出せないまま固まっている。時間が流れ、波が船体に当り砕ける水音だけが間を埋めていく。潮風が甲板の上を通り過ぎていく。
エクボが可愛い、ミルによく似た少女の顔が歪んだ。
「おばさん……」
「黙ってな」
「でも」
「黙ってるんだ」
「嫌だよ! あたし、あたしが頑張る! だから」
「お黙り! 碇を揚げな! 帆の向きを変えろ! 」
ミンツゥの悲鳴に目を固く瞑る。真っ赤になる目蓋の裏に叫ぶ。
違うんだミンツゥ! 頑張らなければいけないのは俺なんだ!
何もかも、俺がやってしまった事なんだ。
深淵の神殿に大きな力を持たせた事。共生者を畏怖の対象にしてしまった事。クマリを焦土にしてしまった事。
全て、諸々、俺が多かれ少なかれ関わってる。
だから頑張らなきゃいけないのは俺なんだ。
俺が、ケリをつけなきゃいけない事だ。
「俺がモルカンを連れ戻す」
吐き出すように、言葉が音になった。
音となった瞬間に、歯車が動き出す。
その音が聞こえた。音無き、音が聞こえる。
「結界を壊す。精霊を宥める。虹珠も解放させる」
「何を言ってんだ……話を聴いていたのか」
「ハルキ……っ」
チクタクと、進みだす秒針に似たその音が体の中から湧き上がる。
過去を憂いた。充分に恐れた。今も、怖い。でもだからこそ。
変えるんだ。ここを始点とするんだ。
目を見開け。現実を見ろ。その先を見つめろ。
見えない足元ではなく、その先に広がっている闇夜を見通せ。
「俺が結界を壊して精霊を宥める。その間に囚われた共生者を救い出せ」
「お前、お前誰に言ってるんだ。何を馬鹿な事を」
一歩進み出た俺の手を、誰かが掴む。
それはきっと、恐れ。戸惑い。昨日、今さっきの、流れ過ぎた過去だ。
手を振り払い、もう一歩進み出る。
戸惑う自分を、恐れる自分を、刻々と過ぎる時間に流し去れ!
失うのは、もう嫌だ。後悔して生きていくのも嫌だ。
水底から空を見上げて、草原を流れる緑の風を想い死んでいく自分を変えるんだ。
「俺がダショーだ! 異世界から還って来た、今生のダショーだ!! 」
言ってしまった。
震える足を、さらに一歩、一歩進める。
もう戻らない。
風が巻き上がる。感情が湧き上がるままに、風の精霊が集まってくる。空間に舞い踊る。
一歩。一歩。船首に向かって歩く。
「駄目ですっ」
「禄山」
「殿からの命だ! 貴方がダショーと名乗るなら、尚の事行かせる訳にはいかん! 」
日に焼けた顔から鋭い眼光が闇の中で光る。
でも、俺は判る。両手を広げて立ちはだかる禄山が、微かに震えている。俺を見て恐れている。
心を感じる。震えているのは体ではない。俺の目を見て、恐れている。青い瞳を恐れている。
『 懺悔の時間は終わったか 』
真っ白な鷹が一羽、闇夜に浮かび上がった。金色の瞳が月よりも強く輝いて、その場の人間全てを射すくめた。
羽音をさせず、大きな翼を広げて禄山の横の船縁に留まる。悠々と、まるで闇夜の帝王。
『 さぁ 行こう 』
あぁ、何て勝手だ。
俺をこの異世界に連れ出し、数日放ったらかしで消えていたクマリの主。
気分気ままなクマリの主に、何故だか怒りは湧かない。むしろ、笑いが込み上げる。
禄山が、震えて後ずさった。
『 今お前の胸に脈打つその高鳴りを 我らに与えておくれ 』
「高鳴り……」
『 大黒丸を持て さぁ進め! 』
そうだ。
感じるんだ。
体の中を脈打つこの鼓動が高鳴っていく。このまま駆け出したいほどの解放感。
水底から見上げた空へ。あこがれ続けた緑の風の中へ。満天の星の中へ駆けろ! 飛び上がれ!
「シンハっ」
「合点! 」
駆け寄るシンハの影に手を突っ込み、大黒丸を取り上げながら甲板を走り出す。
耳元で幾多の声が飛び去っていく。カムパ達の怒鳴り声。サンギの叫び。そしてミンツゥの絶叫。
鋭く吹いた口笛に風の精霊が集まる。巻き上げる。重力の呪縛を断ち切って風の中へ入る。
船首の縁から踏み出した瞬間、座り込んでいたシャムカンが大きく口を開けた。
「行けぇ! ハルキ行けぇえええ! 」
枯れ木のようになった体から搾り出された叫びに押されて、宙に身を投げる。
俺も訳の判らないまま何かを叫んでいた。体から溢れ出す叫びが抑えられない。止められない。
風を身にまとうように精霊と飛び上がり、シンハと共に吼える。
『 感じろ その高鳴りを我らに伝えよ 』
海上を疾走するようにシンハと飛ぶ俺の横、主様が羽ばたく事なく風を切っている。
『 喜びを 幸せを 愛する心を 』
響く言葉が、一つのイメージを伝える。
真っ黒な海と散り散りに煌く星星を視覚で捕らえながら、俺の中で見えていく。
光が生まれる光景。闇が生まれる瞬間。零れた光の雫が青く光って丸くなる。丸く、粒粒に。あぁ。まるで受精卵のようなその中に、赤ん坊が甘い笑みを浮かべて眠っている。
地球によく似た淡く青い光を放つ卵の中で眠る赤ん坊は、唄っている。ハミングのような旋律に震えるように、卵から小さな煌きが幾つも零れ浮かぶ。
その一つ一つが水になり、風になり、炎になり、白い鷹になり、黒い光になり、そして俺になる。
「あぁ」
この星が唄っている。青い囁きを感じる。主様も精霊も、全てこの星から零れた輝きの一つ。
俺の中から溢れる唄は、この星の囁き。精霊の唄は星の囁き。青い唄が囁かれてる。
『 お前は星 星はお前 我らも お前の中にいる 』
だから、俺の感情は主様も感じている。この高鳴りは星をも震わしている。
自由を歓喜する心を。愛しい人を想う心を。人の為に動き出す心を。
この世界に来た時、大切なのはミルだけだった。ただミルの為に存在していた。
でも今は違う。
記憶を思い出した。懐かしい浜辺も、潮風も、陽の光すら愛おしい。
時間を越えて逢えた人達がいる。もう俺は一人ぼっちじゃないんだ。
守りたいものが、山のように出来たんだ。
『 恐れるな 我らはここにいる 』
あぁ、恐れるものなど何もない。
全てを感じているのだから。
細胞が沸き立つ。魂が荒ぶるままに唄おう。
「 さあ唄おう 母なる大地に感謝を込めて さぁ唄おう 大地から光輝き唄う星よ 」
俺の歌を包むように飛ぶ精霊達が震えるのを感じる。何て心地よい。空気が震動し光が波紋のように広がっていく。
そして銀色の粒が散らばる海の向こうに意識を向ける。
呼んでる。聞こえる。水の精霊が、大地の精霊が、炎の精霊が、そして雷の精霊が泣き叫ぶ。
「ハルキ! 」
「判っている! 」
水平線の向こうに感じる、絶対的な闇。全てを拒絶するように、精霊達が放つ光が感じられない深い闇。
やるせない哀しみが侵食するように感じる。同時に燃えるような激しい怒りも感じる。
「ひでぇ……何なんだよコレは! 」
シンハの叫びが痛い。
共に唄う同志と思っていた人間が行った蛮行に打ちのめされている。
精霊たちから見れば、同じ星に存在する同志が自分達を捕まえ閉じ込め酷使したのだ。
精霊を虹珠に閉じ込めて呪術に使うのは、一方的な搾取と思われてもしかたない。
彼らは、怒り狂っている。裏切られたと思っている。もう、同志と思っていないのかも知れない。
この場所の精霊達からみれば、人間は性質の悪い病原体だ。そして、病原菌は駆除される。
「背中に乗せてくれ」
「いいけど、どうすんだよ! まさかあの真っ暗闇ン中に入れとか言うなよ! 」
「突っ込まないでどうするんだ」
逃げ腰になったシンハの首元を掴んで、強引に背中にしがみつく。
足でシンハの両脇をしっかりとはさみ、大黒丸の鞘を抜き捨てた。
黒光りした鞘が、光りの粒子になって散らばっていく。
「あぁもう! 馬鹿じゃねぇか! 」
「大丈夫さ。シンハがいるじゃん」
まるで地獄への門のような暗闇を見据えて微笑む。
敵意をむき出した精霊達を前にしても、漆黒の闇を前にしても、俺は怖くない。
シンハがいる。この大黒丸を預けてくれたミルの心が傍にいる。
猛烈な勢いで飛ぶ風の中で確信する。
精霊達の哀しみが判る。この慟哭を感じる事が出来る。
それは俺が抱えてきた闇があるから判るんだ。
ダショーである事。異能を抱えてきた事。孤独に苛まれた事。家族を何度も失った事。ミルと離れ離れになった事。
だから絶望の底で見えた希望を、光を、彼ら精霊に見せられるんだ。
漆黒の闇へ、光を差し込もう。
「もう何も怖くない」
目の前にそびえ立つ闇の表面が沸き立っていく。無数に蠢く黒い大蛇となって生え、真っ赤に避けた口。
恐れ。怒り。まるで人間が抱える生々しい感情の塊のような大蛇の群れ。
苦しかったんだよね。哀しかったよね。
「うぉおおお! 」
シンハの雄たけびが空気を震わす。まるでそれが開始の知らせのように、大蛇が一斉に飛び出した。
一直線に飛んでくる一群の大蛇に、大黒丸を構える。
低く唸るような大黒丸の震動が手の平から魂の芯まで響いていく。
調律だ。俺の中に、一つの響きが大きく膨らむ。
最初の音は、これだ。
黒い光が粒子のように零れ、風が凪ぐ。
迷い無く、大黒丸を真横に振り切った。
次回は22日 水曜日に更新予定です。




