71 背負った罪の重さを量るには
赤く染まり始めた水平線の向こうに島影が見える。
炊事場にある小さな窓から差し込む光はすっかり夕暮れの色だ。
「間に合うかなぁ」
「あと少し」
「飯なんか一食ぐらい食わなくても平気だろ」
「食べなくても平気な玉獣と人間は違うんだよ。忙しいから少し黙れ」
炊きたてのご飯を手の平に乗せ、甘く煮た肉の塊を入れて握り飯にする。何十個と握ってきた手の平は真っ赤に痛み、額に汗が噴出す。
夕刻に禄山が来たら、素破達は採掘場へ出発する。夜の闇に紛れての偵察だ。その道中に簡単な弁当を用意してやりたい。
「ハルルンも何か食えよ。結局食べてないだろ」
「食べてないの? 駄目だよ。一個食べておけば? 」
「いい」
「ハルキ、どうしたの? 」
握り飯を葉で包む手を止めたミンツゥが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
その視線が痛い。優しさが辛い。
俺はその優しさに甘えていたのだから。まだ幼い少女に庇ってもらっているのだから。
「シャムカン、お弁当食べてくれたんでしょ? それともカムパに何か言われたの? 」
まるで小さな子に対するように。
腹の底で黒い湯が滾る。そうだ。怖がりで甘えてばかりで、俺は幼子と同じだ。
逃げてばかりで。見えないふりをしてばかりで。
「大丈夫だよ。ミンツゥが」
「何で俺を庇うんだ! 」
言ってはいけない。叫ぶな。蓋を開いてはいけない。抑えろ自分。
「何でミンツゥは自分がダショーって言うんだ! そんな重荷を背負ってどうするんだ! 恨みも妬みだけじゃない……後李だけじゃない……深淵の神殿だってダショーを狙ってるんだぞっ」
「深淵も? 何で? 深淵はダショーの家でしょう? 」
手の中に握り飯が潰れる。真っ白な米の中から赤く煮込んだ肉の塊が零れ落ちた。
抑えろ。煮えたぎった黒い水は、外に漏れるな。ミンツゥにぶつけてはいけない。
噛み締めた唇が破れて血が口の中へ滲む。
鉄のニオイが記憶を引き出させる。
耳の奥から聞こえる雨音。雷鳴。叫び声。
非力な自分。逃げたい。『今』から逃げたい。
「背負うものが多すぎるんだ。ダショーは、重すぎる。それは俺が背負わなくちゃいけない」
「何で? 」
「……俺がダショーだから。ハルンツの魂を持った、エアシュティマスの記憶を引き継いた者だから。深淵の神殿を頂点としたヘンテコな世界を作ったのはエアシュティマスとハルンツだ。後李に狙われるのもハルンツの魂を持った俺だ。共生者たちが歪んだ価値観で見られるのも、俺のせいだ。ダショーは、その罪は、重いんだ」
「じゃあ、なんでミンツゥがいるの? 今、同じ青い目を持ってあたしがいるの? 」
青い瞳が、微笑む。
「考えたんだ。あたし、今までダショーだって言われてた。でも記憶がないから自分でも変だと思ってたんだ。みんなに色々言われても言い返せなかった」
止まっていた手が再び動いて、握り飯を次々と葉で包んでいく。
小さな手が、優しく握り飯を包んでいく。
「あたし、少し判るよ。ハルキの言ってる事、少し判ってると思うよ。だって、今まで『ダショー』の役目をしてたもん。その罪っていうの全部はわかんないけど少しなら、ね」
新しい葉の上に、握り飯を置いて。包んで紐をくるりと結んで。
「でも、あたしのいる理由が判ったんだ。大丈夫。ハルキ、あたしが傍にいる。あたしが出来る事、頑張るよ」
「……ミンツゥ」
「一人だと重すぎるんだよ。だから、神様と精霊があたしを『今』ここに呼んだんだよ。私がいるのはハルキが辛すぎるから、お手伝いをするように神様が用意したんだよ」
優しい青い瞳が俺を見つめていた。
澄み切った瞳が、穏やかな心が、包み込む。
「一人は辛いし。だから、二人で頑張れって」
「そんなら話は通るよなぁ。オイラもミンツゥとハルルンは似てると思うし」
「シンハもそう思う? よかったぁ。あたしの勝手な思い込みだったら恥ずかしいと思ってて」
「オイラはミンツゥの味方だぜっ」
「シンハ大好きっ」
鼻と鼻をくっつけて笑い合うミンツゥとシンハが眩しすぎる。
俺は、ずっと甘えたままだ。
駄目なんだ。このままじゃ、駄目なんだ。
誰かに庇ってもらっては、支えてもらってばかりでは、隠れてばかりでは、ミルの時と同じになってしまう。
このまま、きっと大切なものを失ってしまう。
だから
「それじゃあ、駄目だ……」
きっとミンツゥまで失う。ミルと似た微笑を浮かぶ、この少女まで犠牲になる。巻き込んでしまう。
失ってからじゃ、駄目なんだ。
記憶を持っているのは、俺なんだ。きっと記憶を忘れずに持たされて生まれる訳がある。
「もう、何にも失くしたくない。また失くすのは嫌だ」
「ハルキ、ハルキは何を失くしたの? 」
「秘密。ミンツゥ、ありがとな。気持ちは嬉しいけど、ミンツゥが一緒に背負う事はないよ。背負っちゃいけないんだ」
「そんな事ないよ! あたしねっ」
「子どもがそんな心配しなくていいの。いや、心配させてごめんな。もう大丈夫だから」
もう一度、手を濡らして握り飯を握り直す。
頬を膨らますミンツゥに、今度は俺が笑いかけて。
俺が、創ってしまったんだ。創めてしまったんだ。
深淵を頂点とした共生者の世界を作った。
俺にはその原罪があるんだ。どうあがいても、それは覚えている。
その中で、俺には失いたくないものがあって。守るものがあって。
でも、どうすればいいんだろう。
握り飯をひたすらに握りながら、数を数えながら、漠然と考える。
どうすれば、いい? 何が出来る?
星の明かりだけが甲板の上を照らし、その僅かな光の下で黒装束の男達が肩を上下に喘いでいる。
水を満たした茶碗を差し出すと、ひったくるように幾つモノ手が伸びて脇に抱えた桶から水をすくって浴びるように飲んでいく。
僅かに漂う血の匂いに、思わず眉をよせた。
「どういう事だい。採掘場は探れたのかい」
「それが……ひでぇもんです」
カムパが濡れた口元を手の甲で拭いながら唸った。
今夜は偵察だけの予定だったのに、素破達の消耗ぶりは酷い。水を何杯も飲むと、深く息を吐いて大半の者は濡れた甲板に座り込んでうなだれてしまう。
「結界が三つ。周囲に磯部が囲っている天然の要塞みたいな島に、大砲が少なくとも8つはある。東西南北に二つずつ」
イルタサが素早く、防具の下から紙と筆を取り出して地図を描き出していく。
サンギは目で話の先を促した。
「採掘場の周りの精霊が、もう酷く荒れてる。ありゃあ……正気じゃねぇ」
「何があった」
「俺達に精霊が襲い掛かってきたんですよ……もう、手遅れなのかもしれねぇ」
座り込んだ男の一人が、そう呟いて首を振った。
他の男達も、そっと船首で虚空を見つめるシャムカンから顔を背けている。
水がすっかり底をついた桶を置き、立ち尽くすミンツゥの傍に寄り添う。
暗闇の中でも震えているのが判る。
血のニオイを嫌がるシンハも、そっとミンツゥの足元で尻尾を丸めていた。
「もう、数多の精霊が捕らえられているんでしょうな。周辺の風や水が人間と見るや攻撃してきます」
「しかし、後李の人間が出入りしているのだろう? 島で必要な食料や、歓声した虹珠を持ち出しているのだから、何らかの手段があるはずだ」
「恐らく音叉でしょう」
禄山が深く息を吐き出すように言い、顔を覆った。
黒雲に命じられて、彼らを採掘場まで案内したのは禄山だった。彼らは何処からか情報を得ている。後李にとって極秘であろう、虹珠の最大の採掘場であり加工場の島の情報を提供している。
後李の重要人物と縁があるのだろう。となれば。黒雲も、彼に仕える禄山もそれなりの地位のハズだ。
「半年ほど……天鼓の泉崩壊の前に、音叉の使用許可を皇帝に求める動きが太極殿でありました。てっきりクマリの残党狩りで使うのかと思っていたのですが、ここで精霊の錯乱状態が起こっていたのなら納得です」
「音叉? 」
「全ての音の波を消してしまう道具だそうです。音叉の発する音無き波が伝わる周辺は精霊が離れますから。かつては初代ダショー様に対しても使われたと聞きます……あくまで伝承ですが」
チラリと、禄山の視線が俺に投げられる。
胃が確実に縮まった。まさか、な。うん。まさか知っている訳ない。
「とにかく、その音叉って奴を俺達も用意できればいいんだが」
「そんなの無理だろう」
「当然です。いくら殿でも持ち出せません。帝国にも限度がある貴重なものですから」
「おれ達素破が共生能力使って何とかできる場所じゃない」
「呪術じゃあ、太刀打ちできない場所か。まぁ、カラクリ好きな後李らしいわね」
鼻息あらくサンギが結論を出すと、カムパはやっと甲板へ座り込んだ。
見れば、身につけた防具の幾つかに裂けたような痕跡がある。彼らほどの術者集団でも、襲い掛かる精霊から逃げるので精一杯だったのかもしれない。
精霊が荒れ狂い、大砲を縦横に備え付けた要塞のような島。
島に辿りつけないのか。
じゃあ、シャムカンはどうなる。モルカンはどうなるんだ。
次回2月8日 水曜日 に更新予定です。