58 甕のぞきの色のようで
全身で感じていた。
駆け巡る気脈の脈動を感じていた。思わず自分の手を見下ろそうとして、そこに手がない事を思い出す。
今、自分という肉体はない。精神となってこの星を巡る気脈に溶け込んでいた。
精神を気脈に乗せて駆け巡る。水の粒子と溶け込み、地の底を流れる水脈を。海流を感じ泳ぐ魚のように。竜のように風を駆け蒸気になって成層圏との境まで駆け上がる。
曲線を描く水平線と地平線。衛星写真で見た地球とは違う形の大陸や島々。それでも、そこは美しい青だ。
時間と空間を抱えて膨張する宇宙の深い青。脆くも命を乗せて瞬く星の青。
二つの青をそっと抱える。
『さぁ、行け』
温かな感情が注がれていく。
何処からか判らぬ声、感情が流れ込む。
心地よい。
『星の雫を受けた魂。愛おしい我の分身』
星の向こうから、白く輝く恒星が光を差し込む。
『怖がるな。恐れるな。我はいつもここに。いつでも見守っている』
暖かい。光が精神をも暖めていく。
『その背を押していこう。道を照らす光を差し込もう。真実を求め悟りを求める魂よ、さぁ行け! 』
美しい言葉。昂揚する心。柔らかく背を押すような、それでいて力強い波動に包まれて。
見下ろす星は、その世界は、瞬く生命の光は、美しい青。
その美しさに見蕩れた瞬間、世界は黒く暗転した。
「……ハルキっ」
「っ!! 」
揺れた。
それが自分の体だと気づくのに、瞬く程の時間が必要だった。
色鮮やで光を感じる世界に、空気の動きを感じる世界に、一瞬だけ自分が何処にいるのか判らなくて戸惑う。
見上げた夜空に、瞬く光が煌いている。その光を遮る影に、瞬きを繰り返す。
「ハルキっ」
「……ミンツゥ? 」
「よかった! 」
いきなり飛び込んでくる小さな体ごと、一緒に砂浜にめり込む。
何が起きたんだろう。
訳が判らぬまま、俺の上で泣きじゃくるミンツゥの背中をあやすように軽く叩いて周りを見渡す。
「何だ。大丈夫そうじゃないか」
「寝てたのかい」
「あぁ、寝てたんだろう」
口々に笑いながら「寝るならそこの天幕の下で寝なさいよ」と言うおばさん達。
今夜は飲み明かすつもりなのだろうか。呆然とする俺と、俺の上で泣き続けるミントゥを置いてきぼりにして宴に戻る背中を見送る。
どうなってんだ。
「何が起こったのか判らぬといった所か」
「黒雲……」
「自覚がないのも困りものだな。ミンツゥ、そう泣くでない。ハルキが随分と困っておるぞ」
「でっ……でもぉ」
「かように泣いていては、サンギ達が不審に思うぞ。そなた、まだハルキの事は秘密にしておきたいのであろう」
俺の上で泣き続けるミンツゥに、杯片手に宥める黒雲は優しく微笑んでいる。
「ハルルンっ。さっさとどけよっ」
「シンハ? 」
「いつまでオイラの上で寝てんだよっ」
「寝てた……寝てたのか? 」
「ふぇええん」
シンハの尻尾が俺の頭を何度も叩き、ミンツゥが泣きじゃくりながら俺の腹から降り、ようやく起き上がる。
一体どれだけの時間が経っていたのだろう。
砂浜に用意されていた松明は、幾つかが崩れ落ちていた。
酔いつぶれた者、子供達は天幕で寝ている。
底なしかと思われたサンギ達も、座り込んで笑っている。
見上げる空の星は、幾つかが海に沈んでいた。
「驚いたな。そなた、本当に覚えがないのか? 」
黒雲の傍を離れなかった禄山が天幕で寝ている子どもに足で蹴られながら寝ているのを眺めながら、俺は必死で記憶を辿っていく。
天幕に行く途中で睡魔に負けたのだろう。仲良く砂浜で倒れている双子を確認して、やっと思い出す。
三線を弾いて、思い出したんだ。
俺の中で唄うエアシュティマスの唄を、思い出したんだ。
夕焼けに染まる海に向かい、泣き叫ぶように唄うエアシュティマスの祈りの唄を思い出したんだ。
あれは、そう。
「御魂拾いの唄、だ」
「みたまひろい? 」
思わず呟いた言葉に、ミンツゥは涙で濡れた睫毛をしばたかせる。
そして黒雲は唸った。
「それが魂を飛ばす唄なのか? そなた、魂が抜けておったらしいぞ」
「魂が抜けた? 」
「そうだよ。いきなり聞いたこともない不思議な響きの唄を唄ったと思ったら、いきなり倒れたんだよ。シンハが呼びかけても全然戻ってこないし。よぉく観たら、ハルキの魂が抜けてるんだもん。ミントゥ、てっきり死んだのかと思って驚いたんだよっ」
「ハルルン何処に行ってきたんだよ」
なるほど。
魂が抜けた、とは。
さっきまでの感覚は夢でなかった。夢のような、あの恍惚感は夢ではなかった。
ミントゥ達の言葉に唸った。
では、あれは誰の声だったのだろう。誰の意思を感じたのだろう。
暖かく包まれた、あの安心感。心強さ。あの昂ぶる鼓動。
永遠に感じていたい、幸福感。
「オイラ、てっきりハルルンが死んだかと」
「勝手に殺すなよ。ちょっと遠出しただけだよ」
「どこへ? 」
「あそこ、かな」
見上げる夜空。
煌く星空。吸い込まれそうな宇宙の闇。無限に広がる空間と時間。
あそこに、いた。俺は地の底から大気圏まで突き抜けて、この星を見下ろしていた。
美しい青に包まれ、煌く星を見つめた。
大気と宇宙の狭間に、俺は確かに存在していた。
「そなた、夢でも見たのか」
「夢だと思うか? 」
「ミンツゥ、ちゃんと観たよ。ハルキの魂、どっか行ってたもん」
「うむ……」
手の中の杯を飲み干し、黒雲は唸る。
「まぁ……どちらにせよ、その唄はあまり唄わぬことだ。何度も魂が抜かれては、落ち着いて酒も飲めぬ」
「そうだよハルキ。迷子になったら大変だよっ」
「迷子、ねぇ」
「オイラは探しにいかねぇからな」
それぞれの忠告を聞きながら、俺の頭の中で違う事を考えていた。
魂が抜けた。
もしそうだとしたら。
あの記憶の断片が本当だったとしたら。
さっき通った気脈の道を使えれば。
それは、とても有効な使い道がないだろうか。
「うん。魂が迷子になるのは困るな」
そう。魂が迷子になるのは困る。
俺にはまだ、やらねばならない事があるのだから。
柔らかなミンツゥの髪を撫でながら、微笑む。
「魂だけ飛ばすのは、もうやめるよ」
魂だけを飛ばすのは、やめるよ。魂だけ、はね。
そこは、見覚えがある景色。
自分にとって大切な場所。そう、この場所に流れる時間は宝物。
自分が諦めたものが、そこには存在する。
この場所は変わらずにいて欲しい。そう、世界の終わりになっても変わらずに存在して欲しい。
それは、可能だろうか。そんな事は有り得ないと判っているのだけど。
でも、祈る事は許されるだろうか。
祈る事だけは、許されて欲しい。
そう思っている自分に気づく。
これは、遠い遠い俺の過去の記憶。
いつか見た夢と同じ、趣ある庭の一角。
揺れる柳の枝。零れる木漏れ日の下で座る自分。心地よい茶の香り。
ここは、李薗の宮廷の奥。
俺は、円卓の上に組み上げられた機械を見つめていた。
そして、誇らしげに説明をする青年を見つめていた。
「この水が流れ落ちる力を利用するのです。この歯車で上下運動を横へと変換してこちらの装置に送ります」
「尚慧……そのような事しなくとも、その円筒を回せば鈴は鳴るのでしょう? 水をわざわざ流し落とさずとも良いのに」
「それでは意味がありませぬ。姉様には、このカラクリの意味が判らぬのですか」
「えぇ。判りませぬ。鈴を鳴らす為に水を流す訳など判りませぬっ」
「まぁまぁ。そのように怒っては綺麗な顔が台無しだよ。兄弟ケンカはそのぐらいにして座りなさい」
円卓の向かい側で頬を膨らませる艶やかな黒髪を結い上げた少女。緑の瞳に勝気な色を浮かべている。
その少女と同じ緑の瞳をした青年は、優しげな目元を困ったように自分に向けてくる。
「玉葉。これは人の手を使わずに鈴を鳴らす事に意味があるのだよ。尚慧の考えたカラクリを使えば、人の力では出来ぬような事を可能にするのだよ」
「そのぐらい判りますっ。でも、そういう事は共生者が行えばよいのでしょう? 尚慧は何故にハルンツ様の御前でそんなカラクリを披露するのか。それが皆目判らぬと申しているのですっ」
この子は、変わらない。
幼子から美しい大輪の華と成長した今も、優しい心は変わらない。
その事が、何よりも嬉しく誇らしく。
夢の中のハルンツが微笑むのを感じた。
これは、ハルンツの記憶なのか。
「玉葉も李薗の皇族ならば、理解せねばならぬよ」
「父上」
「父はな、考える所がある。深淵の大神官であるハルンツと共に考える未来があるのだよ」
傍らからの声に、頷くハルンツである自分。
横には、中年となった男がいた。そう……名は玄徳といったか。
「今、この世界は共生者が大きな力を持っている。大地に祈り、風を読み、火を操り鉄を作り出す。だが、その共生者とて人だ。金や権力で動いていく。力のある者が富み、持っていないものは飢えていく。吾はそのような不平等があってはならぬと思うのだ」
低く響く声が、穏やかに心に伝わる。
不定期ですが,こちらも再スタートします。
水曜日更新だったので,こちらも水曜にUPしますね。
ただ,今の状況で2作品を定期連載にする勇気はちょとないので……こちらはストックが出来次第,更新する形にします。
ノロいですが,少しずつ継続してラストまで書いていきたいと思います。
苛立たせて申し訳ありませんが,どうぞご了承願います。すみません。