56 重なる過去
オレンジ色に染め上げられた世界を支配しているように、そいつは歩いてきた。
波打ち際の飛沫すら、その男を際立たせる宝石のように煌く。
一寸の乱れなく結い上げられた髷。程よく日に焼けた肌。姿勢がよいその体には、人目で上質と判る着物を纏っていた。そして衣が海水に濡れるのを気にもしてない。
黒い上衣は海風を含んで大きくはためき、堂々とした男っぷりを演出している。
「これ童達。かように玉獣を扱ってはならぬぞ」
「あ、ごぜんさまだ! 」
「ごぜんさま、ようこそ! 」
突然、子供達の態度が変わる。
わんぱくが消えて行儀をわきまえた良い子に化けた。
「サンギ殿はどこにおられるかな」
「サンギさま、むこうだよ」
「おはなし、してる」
「あっちいけっていわれた」
「そうかそうか」
ごぜんさま……午前様……違う。御前様、か。
変換ミスをした頭を軽く振り、もう一度その若い男を観察してみる。
俺と同じ年ぐらいだろう。なのに、この威圧感はなんだろう。
庶民では晴れ着のレベルの着物を海水に濡らしても平然としている。その様子からしても、お金持ちなのはわかる。
でも、ただの金持ちではない。腰に差された刀は、使い込まれた感じだ。武人か。
そして着ている着物は李薗式だ。首元に襟が立てられ、帯を巻いた下の衣は流している。
いつか夢でみた玄徳帝のような李薗式の着物。そう……この男は後李帝国の役人だろうか。
「禄山。先にサンギに挨拶へ行ってきてくれ」
「しかし」
「私はこの男と話がしたい」
御前様と呼ばれた男の後ろから、もう一人の男が現れる。
足元を取られる浅瀬を素早く駆けて、背後に控える真っ黒に日焼けをて目つきの鋭い若い男。
禄山と呼ばれた男は、俺をじっと睨む。
まるで「ご主人様に何かするんじゃないぞ」というかのような視線。
一時睨み、それでも心配だという顔をしたまま素早く砂浜を息も乱さず走っていく。
シンハに圧し掛かっていた子供達も素早く、禄山を案内するために駆け出していった。
「足が濡れてしまったな。何か拭くものはあるか」
「自分のものを使ってくれ」
砂浜に上がった男は足に付く砂粒に眉をひそめ、俺の言葉に思いついたように懐に手を入れる。
そして真っ白な紙を取り出して、ガシガシと足を拭き始める。
「あんた、何してるんだ」
「拭くものを持ってはおらぬ」
「持ってない? 」
俺の使い古した手ぬぐいを差し出すと、当たり前のように紙を俺に渡し、手ぬぐいを受け取り、足を拭い、俺の手に返す。
そして、当然のように料理を並べた敷物に座る。
遠慮という概念すらないような一連の動作に、ますます不信感。流れるような所作で、腰元の刀を脇に置く。
この男、何者だ。
というか。俺の手に残した紙はどうすればいいんだ。
見れば、真っ白で上質な和紙のような紙。こんな上等な紙を手ぬぐい代わりに使い捨てる感覚が判らない。
「さて。お主が先日サンギ殿が受け入れたという共生者であろうか」
俺が紙で困っている事すら気づいてないのか、男が問いかける。
仕方無しに、その紙を自分の懐の中へ突っ込む。
「まぁ、お世話になってますけど」
「それで、名は何と言う」
「自分から名乗らないのか」
「私の名か? 」
問い返される事には慣れてないのか。男は面白そうに笑って俺を見た。
何だろう。こいつの笑った顔、どこかで見た覚えがある。この楽しそうな顔、物事を楽しそうに捉える笑顔を、どこかで見た事がある。
初対面の男を相手に何を感じているのだろう。
「私の名は分け合って名乗れぬ。それ故に御前と呼ばせておる」
「サンギ達は知っているんだろ? 」
「そうだな。では黒雲とでも呼ぶ事を許そう」
何でこうも偉そうなのだろう。
「して、お主の名は」
「ハルキ。関口晴貴」
「ほう……セキグチとは聞いたことのない響きだ」
「こいつズルイぞ! 自分の名前名乗らないでハルルンに名乗らしてさっ」
子供達からようやく解放されたシンハが、歯をむき出して唸りだす。
「ハルルンも何で名乗るんだよ! 」
「黙っててもバレるだろう。シンハ、ここから動くな」
「何でだよっ。今すぐそいつの首元掻っ切ってやるのにっ」
背中の毛を逆立てはじめたシンハの首元を何度も撫でてやりながら、必死に記憶をたどる。
この世界に来てから出会った顔を必死に思い出す。
こいつに、黒雲に俺は会った事がある。
さっきから、その感覚だけが心を逸らせる。
「なるほど。これでは禄山の玉獣が恐れてしまう訳だ。ハルキの玉獣はなかなかに勇猛だな。お陰で私の乗ってきた玉獣は酷く怯えてしまっていたよ」
「怯える? 」
「砂浜まで乗って来たがったのだが、沖で怖がってしまってな。浅瀬までは何とか宥めて着いたが、とうとう禄山の陰に逃げ込んでしまった。故に足や着物を濡らしてしまった、難儀な事だ」
「オイラのせいじゃねーよ。その玉獣が腰抜けだって事だ。ついでにそいつら使ってるお前らも大した事ねぇな。お前らなんざ……」
「シンハっ」
ヘボ共生者。老いぼれ星使い。
散々な言葉を言い始めたシンハの首元を思わず優しく撫でて呟く。
「またネクタイを縛ってやってもいいんだぞ」
その途端、ぴたりと黙る。
よほど縄で縛られる事が嫌だったのだろう。
黙ったシンハを撫でながら、軽く頭を下げた。
「失礼な事を言った。いい奴なんだけど、口が少し悪いんだ」
「いい奴……か。そのように玉獣を宥められるとは」
「何だ? 」
「いや。サンギ殿の言う通りだ。新しい共生者は変わり者だ」
黒雲がそう言い、胡坐を組んだ足をポンと叩いた。
楽しげに笑みを浮かべた口元に手を置いて頬杖をする。何気ない仕草。掠めるデジャブ。
「その青い瞳があるのに帝国にいた事、サンギ殿達も敵わぬ力を持ちながら帝国内にいた事が、不可解でならぬ」
「記憶がなかったから、仕方ない」
「記憶がなかったとはいえ、自分が共生者である事は知っていたのだろう? なら、エリドゥ方面へ行けば待遇が良くなった事も判るであろう? 」
「黒雲はずるいな。疑問ばかりじゃないか」
「そうだな」
男前の顔で笑うな。
「その青さなら、瞳を見せれば誰もがひれ伏すだろう。それだけの力を持っているのだろう。その力で、ハルキは何をしようとしている」
「だから疑問形はやめろ」
「答えによっては、私はハルキを殺すのだろうか」
「俺に聞かれても困る」
「それはそうだ」
口の中で笑い声を含ませ、黒雲は首を傾げる。
「何故だろうな。ハルキと何故こんな話をしているのだ」
「だから俺に聞かれても困る」
途端に、声を上げて笑い出した。
笑い顔を見ると、年上かと思えた威厳が消える。ひょっとしたら同い年なのかもしれない。
「こいつ、変なの。ハルルン……こいつ何者? 」
「判らないけど変な奴なのは間違いないな」
「私を変というのは、そなた達ぐらいだ」
そうだろう。いかにも身分が高そうな黒雲に言いたい放題。
でも、こいつには言いたい事を言える気がする。どんな事でも語れる気がする。
警戒しようにも、気持ちを閉じれない。
黒雲も、そう思っているのだろうか。
砂浜を全速疾走で戻ってきた禄山が、肩を震わせて笑い声を零している黒雲の姿を見て目を見開いていた。
禄山から遅れて駆けてきたサンギ達も、目を白黒させて立ちつくしている。
ミンツゥは、嬉しそうに微笑んだ。
「御前様とハルキ、絶対仲良しになると思ったんだ。ね? ハルキはいい人でしょ? 」
満足げに微笑むミントゥの言葉に、黒雲は切れ長の眦から零れた涙を拭いて頷く。
「なるほど。人見知りのミントゥが懐くだけはある……くくっ」
「だから何で笑うんだよ」
「ハルキ。あんた何を言ったんだい」
「無礼な事を申すな! 」
サンギと禄山の慌てた声に、俺は肩を竦めるしかない。
俺を殺すかもしれないと、そう言われた。
絶対に会った事がある、黒雲。
喉元まで浮かぶ『知っている』感覚をもてあまして、視線を遠くに投げる。
水平線に夕日が沈んでいく。
夢にまで見たハルンツの故郷で、これから何が起きるのだろう。
時間の経過を見守ってきた沖の岩は、すっかり小さくなっている。
タシであった自分。ハルンツであった自分。そして、今を生きている自分。
同じ魂を持った、けど別々の人格が自分の体で湧き上がる感覚。
今の感情は、俺のもの。この感覚は誰のものだろう。
連なる記憶の連鎖に、意識が巻き込まれそうだ。
砂浜に足を踏ん張って、燃えるように赤く染まった沖の岩を見つめる。
俺はまた、この岩を見つめる時があるだろうか。
別の肉体で、別の意識を持って、この記憶を抱えて、この場所に来るのだろうか。
明けましておめでとうございます。
新年早々…ストックがとうとう無くなりました(涙)
すみません。とりあえず2月9日までお休みします。
ごめんなさい~!