51 船上の騒動
緑江。
その名が示すとおりに、河の水は緑色だ。でも水は澱み、その水面には残飯や死んだ動物の死骸らしき物体が漂っている。
岸には連なるように大小さまざまな船が停泊し、人のざわめきが途切れる事はない。
船は、そんな忙しない夕暮れの停泊場を帆に風を受けながらゆっくりと進む。
停泊した船にも岸にも無数の明かりが煌きだし、夕闇が濃くなるにつれ想像以上に大きな都市だと判ってくる。
その光の量に日本を思い出す。
夜の東京を海から眺めると、こんな感じかもしれない。
その光の下には広がる世界は、汚れているのか幸福に溢れているのか。
「お疲れさまですっ」
「おぅ。出迎えご苦労。モル、シャム」
「「はいはぁい」」
いつの間にか伴走していた船から声がかけられるとモルもシャムも、素早くも手馴れた動作で船を岸に寄せて綱を操り帆をたたんでいく。
「団長からの言づけで、やはり母船で待っている、との事です」
「判った。頼む」
イルタサの言葉で、伴走の船に吊り上げられてた小船が下げられる。
公園の池のボートのようなそれは、この船と比べればまるで柳の葉のように頼りなげで小さい。
とはいっても、重そうだ。
向かいの船にも、何人もの男がいるのだろう。野太い掛け声と共に作業しているのが、薄暗い夕闇の向こうに見える。
「ハルキ。荷物をまとめろ」
「母船へ行くのか? 」
「サンギ様……いや、団長に会ってもらう」
もう、何が出てきても驚く事もない。そう、たとえ白粉を塗り真っ赤な鼻の道化が出てきても、丸坊主のマッチョに肩車された芸人が体当たりな芸をみせようと。
この世界に来てから、俺の価値観は激しく崩れているようだから。
ミルを取り戻すまで、俺に怖いものなんかない。
自嘲気味に笑って、少ない荷物を船室から持ち出して甲板へ戻る。
何事だろう。慌しい幾人もの声が聞こえる。
「火は用意するな」
「しかし、こうも足元が見えないのは」
「とにかく篝火を消せ! 」
珍しいイルタサの慌てた口調に、何事かと走りよる。
「何かありましたか? 」
「ここへ来てはいかん! 」
慌てて船べりに走り寄り、澱んだ水面に写った俺の霞んだ影から水柱が立ち上がる。
「くっせーーー! 」
「シンハ?! 」
水面から飛び出して甲板に降り立ったシンハが、体を振るい水滴を跳ね飛ばしていく。
何度も何度もその行為を繰り返し、尻尾の先までブルンとさせるとイルタサに牙を剥いて笑った。
「残念だったな」
「お、お前は何考えてるんだよっ」
夕闇とはいえ。
周りの船は比較的小さく、甲板の上は死角とはいえ。
他人様たくさんいるこの状況で、どうして出てくるんだ!
思わずシンハの頭を叩いてしまう。
このもふもふの毛に覆われた頭の中には、慎重とか遠慮とか敬語というものが入ってないに違いない。
「叩くなよっ。オイラはハルキの身の安全を第一に考えてるんだぜっ」
「また化け物とか言われるんだぞっ」
「そんな小っせー事グダグダぬかすなっ」
「俺にとっては小さくないんだよっ」
再び頭を叩こうと上げた手を、シャムとモルに捉まれる。
「頼むからっ」
「頼むから叩かないでくれ! 」
「玉獣を叩くなんて恐ろしい事」
「しないでくれっ」
「何でだよ。この馬鹿相手に叩くなって無理だろっ」
「だーーー!」
「馬鹿って言わないでっ」
「これ以上の刺激はヤバイよっ 」
双子の顔は、引きつっている。
いつも余裕で笑っている茶色の目が真剣そのもので、俺は思わず力を抜く。
戸惑い辺りを見渡すと、向こうの船の人も逃げ腰でこちらを伺っている。
やはり、シンハの姿を見たのだろう。普通の人間は玉獣を恐れるのが普通という事を、見せ付けられる。
「よ、よくやったモルとシャム。大丈夫か? 」
イルタサの坊主頭が汗で光っている。
心なしに、イルタサの腰が引け気味だ。
「大丈夫だ。シンハは何もしないから」
「人間はさ、オイラ玉獣が怖いんだよ」
少し誇らしげに、シンハが堂々とした歩みで俺に近づく。
それは、まさに王者の風格だ。
モルとシャムが、慌てて俺から離れてイルタサの背に隠れた。
確かに。彼らはシンハを初めて見た時、物珍しそうに見ていたが必要以上に距離を空けていた。
「神苑で生まれる星の欠片が玉獣の正体だ。そこいらの人間の共生者なんか目じゃねぇよ」
「そうなのか? 」
「こいつらなんか、その気になったら瞬殺だぜ。人間が使う呪術なんか使わないで精霊を動かすんだからな」
「あぁ。なるほど」
「だから、こいつらはオイラに出てきて欲しくなかったんだろ? ハルルンを船から降ろさなかったし、船べりにも近づけなかった」
「そうだけど」
「双子星は、大地の気に触れた影からしか出てこれないからな。俺を影に閉じ込めたかったんだ」
「当たり前だろう。おい、そんなにみんなを怖がらせるな」
シンハは再び牙を見せるように笑った。
間違いなく、肉食獣の微笑み。
「ハルルンをどうする気だ? お前らの頭……団長とか呼んでいたな。その団長がオイラを影に閉じ込めておくように言ったのか? 」
「シンハ」
「答えによっちゃあ、お前ら覚悟できてるだろーな。その魂まで食ってやるぜ。誇り高きダショー……っ痛! 」
「この馬鹿玉獣! 」
思いっきりシンハの頭を叩いてしまう。
ここでダショーと言うなんて。相手が何者か判らないのに正体ばらす馬鹿がどこにいる。
シンハの首を捻って、耳元で囁く。
「イルタサ達は俺をクマリの大連とか思ってる。このまま勘違いさせとくんだ」
「何でだよ! ダショーとしての扱いを要求していいじゃん」
「イルタサ達が深淵に繋がってるかも判らないんだぞ」
「あ、そっか」
やっぱりシンハの頭の中には慎重という考えはないんだな。
確信。緑の目は尊敬の眼差しで俺を見ている。勘弁してくれよ。
「まぁ……確かに、シンハが出てきた方がイルタサ達への威嚇になって話が通りやすくなりそうなのはあるけどなぁ」
「だろ? オイラ役に立つから出てきてよかっただろ? 」
「でも、さっきみたいな馬鹿は困るんだよなぁ」
「また影の中に入るのは嫌だ! あの水、クッセーもん! 」
よほど、緑の水は澱んでいるんだろう。
シンハは必死になって「影には入りたくない」と駄々をこねはじめる。
そして遠巻きに不安げな視線を送ってくるイルタサ達。
さて。どうすべきか。
三者三様。俺はついと、夕闇に包まれだした夜空を見上げて妙案を思いつく。
思わず、シンハに向かってニヤリと笑いかけた。
リーダーの条件。
決断力とか、判断力とか。
でも違うと思う。目の前のおばさんを見て、判った事がある。
リーダーの条件とは、カリスマ性と声のデカサだ。
さっきから、耳の鼓膜どころか肌まで震わす声で質問攻めだ。
船長室とはいえ、程ほどに狭い部屋に大人が幾人も入ってこの声はキツイ。
「あんた、名前は」
「……ハルキ」
「どこの家の? 」
「関口晴貴」
嘘は言ってない。
俺は事実を言っているだけだ。
ただ、それが地球での名前である事や魂の履歴は言ってない。
そう。嘘はついてないけど、解説を入れていない。
明らかに当惑した彼女は、鼻の穴から息の塊を勢いよく吐き出して唸る。
どうやら、このおばさんがイルタサやモルやシャム達のリーダーらしい。
ガリ股で仁王像のように立つその姿には、迫力がある。永田町のオジサン達より迫力があると思う。
「セキグチなんて家は大連にあったかい」
「サンギ様もご存知ないんですか」
「団長とお呼び」
イルタサを一喝し、自らを団長と修正した彼女は一歩前に出た。
途端、シンハは全身の毛を逆立たせた。
「ふん。確かに玉獣は確かのもんだね。まぁ……クマリっていうのは間違いなさそうだけど」
俺は黙って、サンギと呼ばれても団長と名乗るおばさんを見返す。
僅かに青が混じった緑の目は、鋭く俺の目を捕らえたままだ。皺が深く刻まれた肌は、赤銅色に焼けている。長い髪を後ろに一まとめに結い上げ、逞しい腕は米袋を軽々と担げそうだ。
「その青い瞳。こんなに青い瞳を持った大連なら、その筋で話題になりそうなもんだけどねぇ。ハルキとか言ったね」
「呼び捨てにすんなよっ。そんな安い魂……痛っ」
また余計な事をじゃべりそうなシンハを思わず叩く。
サンギは太い眉を片方だけ上げる。
「おやまぁ。随分な扱いだね」
「それでも、コイツがいるからあんた達はおとなしい。違うのか? 」
「それはそうさね。玉獣なんか連れられたら、こちらは下手に出るかないからね。それでも縄をつけてくれたからありがたいけど……この子は随分と怒っているよ。いいのかい」
「喧嘩っぱやいから、これで丁度いいんですよ」
「ひでぇ! ハルルンひでぇよ」
影に戻るのを嫌がるシンハと、シンハを怖がるイルタサ達。そしてシンハを威嚇に使いたいと思った俺。
妙案として、俺はシンハを縄で括る事を提案した。
荒縄で縛るだけでも、充分に威嚇として使える。そしてイルタサ達には視覚でシンハは俺の支配下であると強調出来る。
ただ、シンハはかなり怒った。ゴネた。まぁ、気持ちは判る。
「首元がかっこよくなる飾りしてやるって嘘つきやがってっ」
「ネクタイ似合ってるよ」
「これはいいんだよっ。でも後に縄つけたら括ってるのも一緒だろーがっ」
酷ぇ! 人でなし! 嘘つき! 詐欺師!
あらん限りの言葉で罵倒するシンハの首元には、俺のネクタイが縛ってある。
そして首の後で、こっそり縄を括りつけた。
作戦通りに光沢あるネクタイに気をとられ、シンハは縄付きとなった。
蝶結びのネクタイを飾ってリードを付けた姿は、ペットのようだ。
「まぁいい。話を戻そうか。私の手元の情報だと、ここんとこ街道に鬼火を出す楽師が出てたんだけど。それはアンタで間違いないかい」
「アンタじゃない。ハルキだ」
「間違いないんだね」
それは事実だ。
俺はサンギの目を見たまま頷いた。
上手な嘘をつくには、事実を混ぜる。
ここ半年で身につけてしまった技術だ。
「何の目的で後李で危険を犯して楽師をしていたんだい。鬼火と言われても、それは精霊の舞だったんだろう? そこまでの共生能力を持っているのに楽師をしている。しかも共生者を徹底的に排除している後李で、一体何をしていたんだい」
次回 10月6日 水曜日の更新予定です。