47 三章 ~劫火の都~ 旅する楽師
天頂の藍は宇宙の色。
この世界の宇宙は地球と同じ宇宙なのかもしれない。少なくとも、俺が学校裏の駐車場で見上げていた夕暮れに似ていると思う。そう考えると、ついつい空を見上げてしまう。
見る間に藍は濃くなって、高圧線が見当たらない地平線に赤みが濃くなっていた。
日が沈むのが、日に日に早くなってきたのを感じる。
澄み切って鋭さを帯びた風は、夕闇の向こうから人々の営みの音を乗せて吹き渡っている。
客を呼び込む掛け声や売れ残った商品を叩き売る行商人の声が、冷たくなった風に乗って橋げたの下まで届いてきた。
川の水で顔を洗おうと、手を水に入れて息を飲み込む。水は季節の移ろいを正直に表していた。
もうじき、本格的に木枯らしが吹くだろうな。
気合を入れて盛大に水しぶきと飛ばして顔を洗うと、寝ぼけた頭が冴え渡る感覚。アクビも消えた。
少し伸びてきたヒゲの感触に、明日は風呂屋へ行こうかと懐具合を思案する。
今日の稼ぎが上手くいけば、風呂上りに饅頭も買えるかな。
長い手ぬぐいをマフラーのように首元に巻きつける。もう少し寒くなったら、外套が必要になるかもしれない。
「ちゃんと飯を食えよ」
「今から行くから大丈夫」
「まだ少し痩せてるからな。しっかり食って体力戻せ」
「判ってるよ」
足元の影から、シンハの声がする。
心配性の相棒に声を返し、荷物を背中にくくりつける。
俺の全財産が入った風呂敷だ。
この世界では異質な日本のスーツ一式と、三線という弦楽器。
そして首元で揺れる、青い石の指輪。
ミルと俺の婚約指輪のような、大切な指輪。
これを、もう一度ミルの指につけよう。
キミはまだ望んでくれるのなら、もう一度細い指にはめよう。
まだ、望んでくれるだろうか。
「さて、と」
心に浮かんだ不安を、掛け声で吹き飛ばす。
今成すべき事を、少しづつこなしていこう。
現実と、向き合わなければ。
「炒め飯定食、一つ」
「あいよっ。炒め定一つぅ」
「毎度ぉ」
「毎度ぉ」
厨房からの復唱に、思わず頬が緩む。
異世界でも、繁盛する店の雰囲気は同じだ。
ふと、日本で水野と飲んでいた居酒屋を思い出してしまう。
「兄さん、水いるかい? 」
「あぁ、ありがとう」
忙しなくテーブルの間を動き回る女将さんが、空になっていた俺の湯のみに水を注いでいく。
そのついでにたずねてみる。
こういう質問は、地元の繁盛した店で聞いたほうがいい。
店の顔も広く、客からの情報も多く集まっている。
「ここらで辻演奏出来る場所ってどこかな? 」
「辻演奏? 兄さん、楽師かい」
「最近始めたんだ」
俺の身なりや荷物の三線に目を走らせた女将さんは、小さな火傷だらけの腕を組んで宙を睨む。
「人通りがあるところかねぇ。そうなると軍人さんがねぇ」
女将さんは、ちらりと俺の顔を覗き込む。
随分と伸びた前髪だけれど、目元全ては隠せない。
チラリと青い瞳が見えたのだろう。
少し息を呑んで、疑いの視線を送られる。
「そっちじゃないです。楽師なんですが」
「そうなんかい? 」
「よく誤解されるんですが」
呪術を行う共生者かと、暗に問いかけられて嘘をつく。
この後李帝国で共生者と名乗るのは、中世の魔女狩りのような危険が伴う。
徹底的に呪術という能力と技術をインチキと疑い、産業革命前夜の勢いを持つ巨大な国だ。
中央の方針は、こんな地方の街にまで行き届いている。
「ねぇ、あんた。辻演奏だってさ。どこがいいかね」
あの満月の晩に、俺は辻演奏という事を教えてもらった。
出会った楽師達は、道々で演奏をして人々から小銭を得るのを生業にしていた。
国を亡くしたクマリの民は、辻演奏や軽業や玉獣を調教する事を生業にしているらしい。
俺の演奏技術で不安はあったが、異世界の旋律は新鮮のようで。
あの後彼らの勧めに従い辻演奏を始めると、驚くほどの結果が出た。
その晩に得た小銭で、風呂屋にも入り食事も出来た。
異世界で自立しエリドゥへミルを取り戻す旅の、本当に小さな一歩を踏み出した。
「南の大広場はどうだ」
「あそこはいけねぇや。横の赤宿に軍の連中が出入りしてるぞ」
「じゃあ、神殿跡の辺りか」
「ここを北に行った広場の奥さ」
「そうだなぁ。あそこ以外ないよなぁ」
立ち会った他の客たちも賛同していく。
ただ、女将さんは顔を顰めていく。
「あんな所、妖しか来ないじゃないの。他はないのかい」
女将さんの呟きに苦笑する。
なるほど。この街に楽師はいらないようだ。
でも商売しないと、懐が寂しい現実。
何年も人の手が入ってないのは明らかな荒れ具合。
かつては巨大な建物だったろう大きな石の柱は倒れ、積み上げられたタイルの壁は崩れ落ち、地面は腰ほどの丈まで伸びた雑草に覆われている。
朽ち果てた神殿の跡地。
僅かに通りに出れば小さな広場があり、周辺には商店や宿屋が並ぶ通りもある。
ただ神殿の跡地だけが、繁栄するこの街の空気から離れていた。
「すげぇな。確かに妖しか来ないぜ」
「来るのか? 」
「オイラがいるから来ねぇよ。何だよ。ハルルン怖ぇの? 」
「いや。来たら見たいと思って。ヌリカベみたいな奴かな」
「……暢気だな。で、ヌリカベって何だ? 」
月明かりで出来た俺の影から、シンハが出てくる。
大黒丸を背負った玉獣は、威厳溢れる歩みで朽ち果てた神殿を闊歩していた。
妖に出会うと「若い男は筋肉ついた太ももを齧られる」とか「骨を噛み砕いて髄液をしゃぶられるぞ」とか、物騒な言葉を並べていく。
用心しろと、言いたいのかもしれない。
「これじゃあ、人もこないぞ。今夜の稼ぎはどうすんだ」
「さぁ。どうしようか」
無くても、風呂屋を我慢して何とかするしかない。
無精ひげが生え始めた顎を無意識に触り、覚悟を決める。
客が来る気配がなくとも、万が一の希望を持って演奏はしよう。するしかない。
神殿の入り口だったのだろう、正面の階段に座り荷物を降ろして、三線を取り出す。
爪弾いて調弦する俺の様子を見て、シンハは諦めたように俺の足元に座り込んだ。
「なぁ、客が来たら」
「客なんか来ねぇよ。こんな場所で玉獣を従えて演奏してる青い瞳の楽師が、妖そのものだからな」
「やっぱり、そう見えるかな」
「万一にも客が来たら、ちゃんと影に入ってやるさ」
相変わらず口が悪い。
憎まれ口を叩きながらも、俺の足に顎を乗せて緑の瞳を閉じてしまう。
苦笑いをして、北風に乱された前髪をかきあげる。
さて、客がいないのなら今夜は気兼ねなく弾ける。
一応、チップを入れてもらう小さな竹籠を下の段に置いて夜空を見上げた。
寒々とした空気は、澄み切って星空を煌かせている。
凍えそうな指先に、息を吹きかけて星を見詰める。
深く落ちそうなほどの闇に魅入る。
ミル。
希望の光は、届くかな。
慟哭の調べは聴こえるかな。
逢いたいよ。
キミに逢いたいよ。
弓を、弦の上に走らせる。
溢れ出す感情が、弦の振るえに共鳴していく。
奏でる曲は、ショパン。
清く澄み切った旋律が流れていく。
真っ直ぐ規則正しく綴られる音の流れに、意識が入り込んでいく。
俺の目的は、なんだろう。
ミルと添い遂げたい。
深淵から解放されたい。
そしてエアシュティマスとハルンツの願い。
『この世界を終わらせよう』
この世界を、一人の人間が終わらせる事など出来るんだろうか。
音が繋がっていく。
流れ零れる旋律が、冷たく澄んだ風に乗って広がっていく。
ただ、キミに逢いたいよ。
逢いたいだけなんだ。
「……」
無心に、弓を動かす。指で弦を押さえる。
心の葛藤が、旋律に憂いの色を帯びさせる。
次第に狭まる視野。研ぎ澄まされる感覚。
あぁ、世界に溶けていく。
「神殿の廃墟に鬼火が出たって? 」
「楽師の周りで青や赤やら、幾つも浮かんでたとかさ」
「こりゃやっぱ、戦で殺された楽師の亡霊じゃないのか。三線の旋律が流れてたんだろ」
「あぁ。聞いたことのない旋律だったね。この世のものとは思えない、妙なる音色だったよ」
「あんた命拾いしたねぇ」
店を変えるべきだった。
まさか、昨日の廃墟での演奏が幽霊騒ぎになっているとは思わず、同じ店にふらりと入ったのだが。
俺は丼を食べながら居心地が悪かった。
俺の顔と昨日の会話を憶えていた女将さんは、ご丁寧にも大声で安否確認をしてくれた訳で。
違法っぽく道端で広がった屋台が立ち並んだ中、幽霊楽師の噂で持ちきりだ。
廃墟になった神殿に、鬼火が出た。そして、殺された神官の亡霊が聞いたことのない妙なる旋律を三線で弾いていた……と。
おめでとうショパン。貴方の才能は異世界でも認められたよ。
ではなくって。
まさか、こういう騒動になるとは思ってなかった。大体、鬼火ってなんだよ。
変な汗が背中に流れるのを感じる。
「しっかし、綺麗な旋律だったねぇ」
袖口に木屑をつけた男が、恍惚な顔で酒を仰ぐ。
家が広場に近く、直接音楽を聴いたという男だ。
俺の背中を叩いて溜息をついた。
「あんた損したよぉ。あんな音色で奏でられた旋律、楽師なら聴いとくべきだったねぇ」
俺も損したよ。
聴いてたんなら、チップ払ってくれよ。
鬼火が浮かんでたなんて、見てた奴いるのか? なら、チップ置いていってくれよ。
今更その幽霊楽師ですと名乗れば、共生者かと疑われるのも困るし。
あぁあ。チップ、欲しいんだけどなぁ。
「いや本当、綺麗な曲だったねぇ」
「そんなに綺麗だったんか」
「おれも聴きたかったな~」
「幽霊だぞ。魂抜かれたらどーすんだよ」
「綺麗なもんは良いんだよ」
「いい女と美味い酒と肴と綺麗な音楽があれば、文句ねぇよな」
口々に勝手な事をいう野次馬達の下、俺は丼で隠した口元を緩める。
一緒だ。
空の色も、人の好むものも。同じような生き物だもんな。
三章始まりました。
また読んでくださると,PCの向こうで作者が喜びの舞を踊ります。
次回,9月8日 水曜日に更新予定です。