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見下ろすループは青  作者: 木村薫
45/186

 45 絶望の中で微かに聞こえる

 「ハルルン。ボロボロの唄」

 「ん」

 「なぁ、ハルルン」

 

 気遣わしげに見上げてきたシンハに小さく笑い返す。

 あの豪雨でも、燃え盛る旅籠の炎を消す事は出来なかった。

 一晩で全てを燃やし尽くしてから崩れ落ちた梁を除け、炭化した木材の下からテリンの亡骸を掘り出した。

 高温で焼かれて脆く砕けた骨を掻き集め、庭先に埋めた。

 何十頭もの玉獣(ぎょくじゅう)が、遠吠えを送る。

 神苑(しんえん)で咲いていた野花を、手向ける。

 テリン、ごめん。

 ミルを守れなかった。

 満足な弔いも出来ない。

 

 「なぁ、ハルルン……」


 あの雷雨の後に残されたのは、青い秋空。 

 泣きはらして、腫れた瞼。

 大黒丸。

 そして、ミルの残した荷物と青い指輪。

 あの混乱の中、ミルが抱えた荷物は俺の服と三線だった。

 袖が破けていたYシャツ。ネクタイ。スラックス。ベルト。サンダル。

 いつの間にか、綺麗に洗濯をしていた。

 破けて袖が千切れそうだったYシャツは、繕いなおしてある。

 ネクタイは、普通に洗濯してしまったんだろう。皺が出来て縮んでいるけど。

 ミルがいる。そこにいる。

 ねぇ。そこにいるようだよ。

 油紙に包まれていた服から、平穏だった暮らしのニオイがする。

 

 「もう、秋だねぇ」


 嵐一過。

 見上げる高く澄んだ青い空は、燃えるように赤い公園の記憶と重なる。

 風に漂う微かな秋のニオイ。

 体中を食い破ろうとする、昂ぶった残虐な狂気。

 

 「ハルルン、せめて唄を唄ってくれよ」

 「唄……」

 「テリンに、唄ってやれよ」


 神様。

 冷酷な神様。

 青い空の向こうに、あんたは本当にいるのか?

 白い霞のような月の裏側から、俺達を見ているのか?

 こんなに辛いのに。こんな俺に、この澄み切った空へ賛美歌を響かせろというのか?

 

 「ひどすぎるなぁ」

 

 賛美歌なんて、唄えない。唄わない。

 俺は、地面に突き刺した墓標代わりの木の棒を軽く撫でる。

 心のこもってない唄なんて、耳障りだろう?

 そうテリンも思うよな。


 「どこ行くんだよ。おい、ハルルン」

 

 深淵(しんえん)へ? 

 クマリの雲上殿(うんじょうでん)へ?

 天鼓(てんこ)の泉へ?

 まさか。破壊されて日本へは戻れないし。

 なら、行くところは一つしかない。


 「後李へ行こうよ」


 俺を、殺してくれる所へ。

 もう、終わりにしたいんだ。

 

 「後李へ行こう」

 「正気か? 」

 「どうだろう。俺も判らない」


 歩き出した俺は、唯一の財産を背負う。

 ミルのニオイがまだ残る洋服と、ミルの心の証の三線を。

 手ぬぐいを切り裂いて紐を作り、指輪を首から提げる。

 キミを忘れないように。狂気を抑える鍵となるように。

 風に吹かれるまま、玉獣(ぎょくじゅう)達に見送られて歩き出す。

 神苑(しんえん)の向こうへ。

 俺の死に場所へ。





 腹が減った。

 飯が食べたい。

 死にたいのに、何で飯の事を考えているんだろう。

 何処からか漂ってきたの香りに意識が戻る。

 冷たい風を避けるために、橋の下の茂みで身を横たえていた。

 歩き通しの足が痛い。最後に食べたものは、街道沿いに植えられた街路樹の果実を勝手に拝借したもの。昨日だっけ? 一昨日だっけ?

 あぁ……寒いな。

 火傷するぐらい熱いコーヒーが飲みたい。

 思いっきり甘くして、牛乳を入れたのでもいい。

 こうなったら、熱々のカツ丼とか。

 味噌タレがかかっていても良いや。

 水野が大好物だった、甘い八丁味噌の味噌カツ丼。

 あんなもの食えるかって言ってたけど、今なら味噌かつ丼も食えそうな気がする。

 甘くふっくらと炊かれた米。さくさくの衣をまとった豚カツ。あの赤い豆味噌の中にどんだけ砂糖入れたんだという、極悪な程に甘く濃い味噌タレ。

 一緒に飯を食う時、満面の笑みでソレを食っていた水野。

 俺が今、何やってるか想像出来るか?

 異世界の街の片隅で、橋げたの下で、拾ったゴザに包まって寝てるんだ。

 あぁ……寒いな。腹が減った。

 




 夜は好きだ。

 だんだん風が冷たくなっているけど、歩けば身体は凍えない。

 肌を切り裂くような風に包まれれば、自分が清められていく感覚。

 夜は好きだ。

 人目に付かずに移動出来る。

 青い目は、昼間は目立ちすぎる。

 夜は生き物が気を失ったように眠る時間。

 誰も起きていない静寂の時間の中、俺とシンハは歩いていく。

 今日はどれだけ歩けただろう。

 もう、後李に入っただろうか。

 昨日よりは、町っぽい家並が続く集落だ。もうすぐ白み始める東の空を見ながら、小さな橋の下へ入り込む。

 こういう所は、人目につかないから昼間も寝られるのを憶えた。

 

 「寒いか? オイラにもっとくっつけよ」

 

 シンハが影から現れ、大きな身体で俺を風から守ってくれる。

 その背に寄りかかるように座ると、心地よい長い毛に包まれるような感覚。

 地の底へ沈んでいくような、睡魔と疲労感。

 温かな温もりは、人肌を思い出させる。

 ミルの、柔らかな肌を。ほっそりとした腰を。花の香りがした艶やかな黒髪を。青い指輪が光る指を。

 胸で、指輪が揺れる。ミルを主張する。

 ミル。

 元気でいるかな? 

 結構、頑固なところがあるから……深淵しんえんで抵抗してるだろうか。

 そんな事しなくていいから。

 キミは、ちゃんとご飯食べてる?

 身の回りの人を困らせたら駄目だよ。

 変な意地を張らないで頑張らなくていいんだよ。

 キミだけは。ミルだけでも、ここから人生をやり直してくれよ。

 クマリに縛られず。俺の事を忘れて良いから。見捨てていいから。

 どうか、幸せになって。


 「あぁ……今夜は冷えるね」


 こんな寒い夜に星を見上げて思い出す。

 じいちゃんもばあちゃんもいなくなった、最初の冬を思い出す。

 たった一人で迎えた冬休み。

 正月明けのセンター試験に向けて、ただ勉強に打ち込んでいた。

 忘れたくて。頭の中から、感情を追い出したくて。

 二人がいた時に決めたレールを機械的に、黙々と歩いていく事しか出来なかった。

 生きている。俺は生きている。その不自然な感覚で毎日を生き延びる方法は、決められた予定をこなす事しかなかった。

 リビングのコタツの上に、散乱した問題集と参考書。食事をつくる時間も手間ももったいなくて、大量に作ったカレーで食いつないでいた。

 部屋の片隅に積み上げられていく新聞。小論文用に読んでいた新聞だけが、俺に今日が何日か、世界で何が起きているかを知らせてくれた。

 クリスマスも、正月も、なくなった。

 もう、一緒に季節を楽しむ家族がいなくなった。

 その事実を理解するのが嫌で、昼間に外出はしなくなった。

 深夜営業のスーパーへ買い物をして、町に流れる年の瀬のBGMで浮き足立つ人々から逃げるように、人気のない堤防の道を歩いて帰った。

 重いレジ袋が指に食い込む。

 遠くに聞こえる、トラックの音。救急車のサイレン。

 あのサイレンの所には、泣いてる人がいるんだろうか。

 付き添う家族が、泣いているだろうか。

 凍えるような星空の下で、俺みたいに泣いてる人がいるんだろうか。

 俺みたいな一人ぼっちが、いるのかな。

 そう思って、涙で滲むまま夜空を見上げて夜の堤防を歩いていた。

 東の空が、ゆっくりと色を失いだす。

 あの時とは、違う星空が、溶けていく。

 今目の前に広がっている空も綺麗なんだ。

 キミも、この夜空を見ているといいな。

 キミに逢いたいよ。逢いたいよ。

 北の極星近くに一際輝く、超新星。

 想い出の星は、今夜も輝いている。


 「シンハも、休むんだぞ」

 「ハルルンが休んだら、オイラも休むよ。だから」

 「あぁ……ありがとう」


 その温もりだけ。

 今は、シンハの優しさが俺を現実に引き止めてる。

 胸で揺れた指輪を、着物の上から握り締めた。

 俺は、ここにいる。

 俺は、まだ生きている。





 夕闇の気配に、そっと橋げたの下から這い出す。

 昼間、頭上の橋を渡る足音は騒がしかった。

 今までになく、忙しなく活気がある街のようだ。北風の中に、様々な食べ物のニオイが運ばれている。

 人目に付かないよう、そっと川沿いに歩き出す。

 小船が、荷物を山のように積み上げて流れていく。

 随分と伸びた前髪の間から、慌しく行き交う人々が見える。

 このまま、人通りが途絶えるまで川沿いを歩いていこう。

 闇が濃くなれば、シンハが月影から出てくる。それまでは一人で歩いていこう。

 この世界は、まだ電気がないからだろう。夜の帳が下りると、殆どの人々は家に帰る。

 僅かに繁華街は夜が更けても明かりをつけているが、この街はどうだろう。

 家路を急ぐ人たちの足元を見上げながら、ぼんやりと歩いていく。

 赤く染まっていた空は、東から夜の帳に覆われて灰色の雲が流れていく。

 

 「あ……」


 ふと、足を止めた。 

 冷たい風の中に、明かりを感じた。

 懐かしい音。

 

 「あぁ……」


 弦が震える音。

 胸が締め付けられる、あの音。

 三線だ。

 気づいたら、足が駆け足になっていた。

 腹が減るのに、足の裏が傷むのに、音に惹かれて走っていた。川沿いから這い上がっていた。

 俺の汚れた姿を見てギョッと道を空ける通行人を目の端に入れながら、音に導かれるようにその場へ行った。

 人が流れるように行き交う繁華街の中、道端に座り幾人かの男と女が演奏をしていた。

 流れる旋律。重なる和音。

 女が二人、手足につけた鈴を鳴らして踊る。手にした太鼓を打ち鳴らす。

 穏やかな笑みを浮かべて、演奏する男達。

 華やかに色鮮やかな着物の裾を揺らして微笑む女達。

 立ち並ぶ屋台の明かりに浮かび上がる演奏。

 空気が心地よく揺れる感触に、鳥肌が立つ。

 あぁ。

 世界に色が蘇る。

 あの時も、そうだった。

 まだ桜の花びらが残る桜並木の下で、音を久々に聞いた。

 入学したてのキャンパスを勝手が判らずうろついていた時だった。

 俺は目の前の人懐っこい顔を睨んで、足元の桜の花びらを踏み潰していた。

 


 






 

 

 


 

 

 

 

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