44 幸せが遠退いていく
「下がってください! 」
瞬間、ミルの周りで風が巻き起こる。
突風が渦を巻き上げ、ミルの胸元に括りつけてあった風呂敷を切り裂く。油紙に包まれた中身が泥水の中に散らばる。
飛び散った荷物に、ミルが気をとられた瞬間だった。周囲から雨粒を切り裂いて風が巻き上がった。
「姫さん立てっ! 」
「ミル!! 」
いきなりの風の罠に驚き立ち尽くしている間に、さらに泥が吹き上がる。
何十本もの泥柱が立て上がり見る間にミルを包み上げ、その細い足を、刀を抜きかけた手を、縛り上げていく。
「≪ 逃がしませんよ ≫」
豪雨のカーテンの向こうに霞む人影。その数の多さに唇をかむ。
増えてる。さっき押しかけてきた数より、ずっと増えている。
「ハルキ! ハルキ逃げて! 」
「≪ 私は、やり方を間違えてしまいましたね。ダショー様の御力と相対する事など出来ぬのに。手痛い失敗をしてしまいました ≫」
「おまえ、おまえ、アイかっ」
「≪ 先とはやり方を変えていきましょう ≫」
黒装束の男が、一歩前に出る。
泥で縛り上げられたミルに寄り添い、微笑む。
打ち付ける雨粒が、彼の身体から途切れない鮮血を洗い流し続ける。
さっき襲わせた手下なのだろう。俺と同年代の男が邪魔そうにローブを脱ぎ捨てた。
この手下の身体も、ローブのように使い棄てる気なのだろう。
口が裂くように笑うその顔は、先のテリンと同じ笑い方だ。
「≪ 異界渡りをしたダショーを甘く見ていました ≫」
「ハルキ逃げて! 」
「≪ 返歌の契りをした相手を見捨てる非情な人ではないでしょう? 貴方は足手まといの怪我人を守ろうとする優しいお人だ。後李の軍人に蹴られても身を張って下さいましたな ≫」
「……お前を助けたんじゃないっ」
再び唇を細めると、男が口の端を吊り上げて笑う。
「≪ 口笛はお止めなさい。我らを炎で包むと同時に姫宮も燃えますぞ ≫」
捕らえられたミルを囲むように、男達が動いていく。
罠に掛かった蝶を糸でくるむように泥で縛り上げ、食い荒らそうと集まる蜘蛛の集団のように。
「≪ 異界で一体、何があったのですか? あのような御技、歴代のダショーにはありませなんだ ≫」
男は楽しそうに顎を撫でる。
目が、見開いたまま。
瞬きをしないで喋る人は、酷く恐ろしい。
化け物、だ。
「≪ それよりも、炎で人を燃やそうとするなど……恐ろしい。貴方には躊躇がありませなんだ ≫」
「何が言いたいっ 」
「≪ これが最初、ではないですな ≫」
アイの言葉に、固まる。
打ち付ける雨粒が、痛い。酷く痛い。冷たくなっていく。
「≪ 以前、あのような御技をお使いになった事があるのでしょう? しかも、人に対して炎を燃やされた経験があおりなのでは? ≫」
「ハルキっ」
視界が暗くなる。雨のせいだけじゃない。
ミルが見えない。見れない。
俺は、こんな事をミルに知られたくないのに。
心の底に、記憶に鍵をかけた奥底を、アイツに暴かれるのだけは嫌なのに。
「≪ 見事な炎でしたよ。我ら熟練の術師ばかりですが、あまりの素晴らしさに圧倒されてこの様ですからね ≫」
「言うな……言うなっ……これ以上言ってみろ! 」
「≪ 否定されないという事ですね。ふふふ ≫」
それは、勝者の声だった。
アイは、人質をとる。弱みを握る。そうやって、目的を果たす。
知っていた事なのに。骨身に染みていた事なのに。
なのに何故、また過ちを繰り返しているのだろう。
「≪ 大丈夫ですよ。姫宮は丁重に深淵へお迎えしましょう。この先は……お分かりですな ≫」
「俺も、深淵に来いと言うのか。蜘蛛の糸を、結びつけると言うのか」
「≪ 穢れた聖者なら尚の事。唄も楽の音も舞いもなく精霊を動かせるような魂を、躊躇いもなく人を炎で燃やすお人を放置できましょうや ≫」
「ハルキは穢れてはいません! 」
降りしきる雨が、悲鳴のような声を塞いでいく。
それでも、俺にははっきりと聞こえた。
澄み切ってよく透る、ミルの声が聞こえた。
言葉が冷え切った心に染みていく。
「ハルキはずっと泣いていました! たった一人で異界で生きてきました! 自らの生きる道を見つけようと、必死で生きていました! 」
「≪ 何を言い出す? ≫」
「異質な自分の存在を、孤独な心を、必死で受け止めていました! 自分の居場所がない恐怖が、貴方達に判りますか! 私達には想像も出来ない孤独と向き合ってこられたハルキを、穢れたなどと言う事は私は許しません! 」
「……ミルっ」
「ハルキは美しい! そして誰よりも強く優しい! ハルキを愚弄するのは許しませんっ! 」
ミルは知っていたんだ。
俺の心の中の葛藤を。
俺が抱えていた孤独も、恐怖も、狂気も、知っていたんだ。
仏壇の中の写真を見詰めていたミルの横顔を思い出す。
眉を寄せていたミルは、そんな事を考えていたのか。
「≪ どのようにダショーを庇い立てても、この魂が化け物なのは変わりない ≫」
「化け物はお前達でしょうっ……きゃあ! 」
泥が、ミルの身体を締め上げる。
思わず息を吸い込んだ俺に、アイが微笑んだ。
「≪ 深淵に、いらっしゃいますね ≫」
「駄目です! 来てはいけません! 私の事は捨て置き下さ……っ! 」
「やめろ! これ以上ミルに手を出すな!! 」
「≪ おぉ。怖いですねぇ ≫」
わざとらしく肩を竦ませるアイに、シンハが牙をむき出し毛を逆立てて唸る。
それでも、アイが乗り移った男の顔に浮かぶ余裕が消える事はない。
配下の男が、そっと耳打ちして大きく頷く。
「≪ そこの玉獣。この神苑中の玉獣を押さえつけろ。一匹でも我らに牙を向ければ、姫宮の命は保障出来ぬぞ ≫」
「逃げる気かよっ」
「≪ そうです。そして我らはダショー様に時間を与えましょう ≫」
凶悪な笑顔。
「≪ 貴方は、すでに姫宮なしでは生きていけられない。違いますか? ならば、深淵に必ずいらっしゃる ≫」
「アイ……」
「≪ 我らは根気強く待ちましょう。その確約として、これを渡しておきましょうか ≫」
ミルの手足を縛る泥の中に手を突っ込み、何かを強引に引っ張り出す。
稲光に照らされて、それは青い光を反射した。
アイに操られる手が放り投げた光を、俺は両手で抱くように受け取り握り締めた。
雨に濡れて、冷たく光る青い指輪。
「≪ 貴方は、その指輪を見る度に姫宮を思い出す。指を、体温を、唇を思い出すでしょう。孤独を思い知るでしょう。絶望にひれ伏すでしょう。そして、例え姫宮を忘れようと他の女と一緒になったとしても、その指輪と想い出は貴方を後悔の念で押しつぶす ≫」
縛り上げられたミルが、必死に首を振る。
雨で濡れてつややかに光る黒髪が、泥で汚れた頬に張り付いていく。
手の中の指輪の感触を握り締め、俺は呆然とミルを見詰めていた。
ここで、口笛を吹いてはいけない。
ここで、絶叫を上げてはいけない。
ここで哀しみの感情を爆発させてはいけない。
ミルを、ミルの安全を。
でも。
このままじゃ、ミルが連れて行かれる。
じゃあ、どうすればいい?
「≪ 貴方が深淵に来て下さる日を、心待ちにしておきましょう。その気になってくだされば、水に向かって呟いて下されば結構。何時でも何処だろうと、お迎えに参じますよ ≫」
「駄目です! 指輪を棄てて! 私を忘れて下さい! ……くぅ……っ」
「≪ 私に逆らう事がどれ程苦痛か。生まれ変わって忘れている貴方が悪いのです。絶望と苦痛を充分に味わい、勉強し直しなさい ≫」
「汚ぇぞてめーら! 」
「ミル……ミルっ……ミル!! 」
突風が、彼らを包む。
風の精霊達が、吹き荒れる。
雨粒と風が音を立てて渦巻いていく。
垣間見えたミルが、何かを叫んでいても聞き取れない。
轟音と雷鳴が聴覚すら奪っていく。
喉が震える。
白く立ち上る竜巻の向こうに、声を張り上げる。
痛いほど、手を握り締めて。
叩きつける雨粒を受け止めて。
「くっそお! 水遁かよ! まだ近くにいるはずだぞ! 追いかけようぜ! 」
「駄目っ。駄目だ! 」
「ハルルンっ。まだ間に合う! あいつら、姿を隠しただけだ! 近くに荷馬車か何かを隠してあるはずだ! 間に合う! 」
「どうやって助ければいいんだ! ミルを人質にとられて、どうすればいいんだ! 」
「そ、そりゃ……」
逆立ったシンハの毛が沈んでいく。
容赦なく叩きつける雨が、高ぶった気持ちを奈落の底へ落としていく。
突き落とされる。地の底よりも深く暗い、地獄へ落とされる。
「頼む……神苑中の玉獣を抑えてくれ……頼むよ……」
「ハルルン、いいのか」
「頼むよ……」
今大事なのは、ミルの安全。
ただそれだけ。
キミが無事でいてくれれば、それでいい。
今は、ただそれしか俺には出来ない。
俺は、何も出来ない。
シンハが遠吠えを始めると、神苑のあちこちから答えるように遠吠えが始まる。
いつもより、哀しく長く響いていく遠吠え。
雨が、どんどん弱くなっていく。
きっと、深淵の神官達が去っているのだろう。
ミルが、連れ去られていく。
この雨と共に、遠くなっていく。
雷鳴が、遠ざかる。ミルも、遠ざかってしまう。
何も出来ないまま。玉獣の遠吠えに見送られて、連れ去られていく。
「シンハ……俺、最低だ……」
身体を叩きつける雨粒が痛い。でも、足りないよ。
俺に、もっと罰を与えてくれ。
誰か罵ってくれ。
そうしたら、きっと楽になる。
苦痛に耐える方が、どんなにいいだろう。
非難する叫びに打ちひしがれた方が、どれだけ易しいだろう。
悔しさで手を握り締めれば、思い出させるように指輪が食い込む。
この痛みが、心を切り裂いていく。
「ミル……ミル……っ! 」
あの絶望が押し寄せる。
孤独と恐怖が迫ってくる。
異世界でも、俺は大事な人を失ってしまった。
ようやく手に入れようとした幸せも、守れなかった。
泥水の中、座り込んだ俺に光が降り注ぐ。
灰色の雲の切れ間から、一条の光が零れ落ちた。
雨が、やんでいく。
遠吠えは、嘆きの叫びとなって止むことはない。
神様。
俺には、祝福を与えては下さらないのですか?
これでも、まだ生きろと言うのですか?