42 その声は甘く響く
思いもしなかった言葉に固まる。
激しい雨の音と落雷の音だけが、時を埋めた。
「≪ 世界を掌握出来る力を持つ魂を野放しにしておけましょうか。共生者ならば、その魂の価値に気づかない者はいない。世界の平和の為に、貴方様は深淵の奥底にいなければならないのです。我らには寿命があり死んでゆくのに、死ねば記憶は失うというのにダショーの魂と記憶は何度も蘇る。若く美しい青い瞳で何度も何度も蘇ってくる。厄介な事に、精霊に愛された最強の魂は、偉大な魔術師エアシュティマスの記憶を持ち合わせ、何度も蘇る。これが危険ではないと言えましょうか。生まれ変わった人物の性格や嗜好で、世界が地獄に落とされるやもしれないのに≫」
「俺は、厄介な危険人物だと? 」
「≪ もちろん、民衆の信仰の対象でもありますがね。それに、ダショーという存在を抑えた深淵の神殿の影響は大きいのはおわかりでしょう ≫」
ダショーが深淵に縛られた意味。
ダショーが神聖だからとか、宗教的な意味は深淵の神殿にはなかった。
その魂は、危険だから。その力は世界のパワーバランスを乱すから。そして、民衆の心をダショーという存在を使って掌握するために。
始祖『エアシュティマス』の記憶を持ったその存在は、他国をも押しのける。それ以前に、この世界の安全すら脅かす。
思いもよらない言葉に、眩暈がする。
二本足で踏ん張るも、体の芯から震えてくる。
俺は、異世界にも居場所がないのか?
ミルを追ってきた異界のココにも、俺の居場所はないのか?
不可解な能力を持った俺は、日本でも異質な存在だったのに。この世界でも俺は異質なのか?
俺がいけないのか? クマリが滅んだのも、ミルとテリンの人生を狂わせたのも、俺がいたからなのか?
俺は、いなければよかった存在なのか?
「ハルルン! 外の様子がおかしいぞ! 」
「……え」
「チクショウ! 雨と雷ですっかり気がつかなかった! 人間くせぇぞ! 」
立ち尽くす俺達の前に、シンハが全身の毛を逆立てて飛び出した。
牙をむき出し、土間に鋭い爪を立てる。
「姫さんしっかりしなっ。テリンの体から爺を引っ張り出せ! 爺にこれ以上好き勝手言わせてたまるかよ! 」
「……外に何名いますか」
「雨の音が酷くてわかんねぇけど、両手で数え切れないぐらいだな」
「承知。ハルキは決してシンハから離れませぬよう」
薄暗い中、ミルがゆっくりとつっかえ棒を拾い上げる。
薄紅の小花が描かれた小袖を、捲り上げた。露わになる白い足首が、薄暗い中に浮かび上がった。
「この地上に残された清らかな気の欠片を魂に宿した白鷹の主様と、輪廻を繰り返し精霊の祝福を人々に分け与えて下さるダショー様。そして神聖な神苑をお守りするのがクマリの役目。深淵がダショー様を愚弄しようなら、我らクマリは相対す」
「≪ もはや従う臣下はおりませんよ ≫」
「だからなんだ」
雷鳴が轟く。
閃光に照らし出されたミルの顔に息を呑んだ。
涙で濡れた茶色混じりの青い瞳が、淡い光を放っていた。
まるで、蛍火のように微かで青い光。
俺がその美しさに一瞬見とれた隙だった。
片手に持った水差しが、ミルに奪われていた。
激しく水面を揺らし、溢れた水が放射線を描いて宙へ零れていく。
雫を撒き散らしながら、ミルは水差しをテリンに向かい放り投げる。
水滴が無数に散らばり、絶え間なく落ちる雷の閃光に宙を飛ぶ水滴が煌く。
「ぅぁぁああ! 」
ミルが散らばる水滴の空間に飛び込んでいく。
放り投げられた水差しに気をとられた瞬間に、ミルが疾風のように飛び上がる。
板間を踏み込む音が大きく響いたと、同時だった。
電光石火。テリンの体がくの字に折れ曲がる。
空気を切り裂き唸るつっかえ棒が、テリンの腹部にめり込み吹っ飛ばす。
壁に激突して倒れるテリンを一目もせず、ミルは素早く板間の片隅に置かれた籐籠をひっくり返し床板を外し床底を探る。
「ハルキ。持っていて下さい! 」
鋭い声と共に、一振りの刀を投げ渡された。
この刀は、何でいつも投げ渡されるのだろう。
大黒丸。
俺の生活が一変した、あの時と同じ。
「≪ この男の体に一打を食らわせるとは……いいのですか ≫」
「この体はテリンではない。自分でそう言ったではないか? アイ執政官殿」
苦悶の顔を浮かべて起き上がろうとするテリンの目から、ドロリと正体不明の液体が出てきた。少なくとも、あれは涙ではないのだろう。
一段と、腐臭がきつくなる。
「この肉体は既にテリンの魂を宿してはいない。ならば、何を躊躇する理由がある」
冷たく感情の宿らない声に哀しみを感じた。声にならない叫びが聞こえる。幼子の泣き声が聞こえる。
青い蛍火の向こうにミルの涙が見える。
「深淵の神官どもに伝えろ。クマリの姫は最後の一人になろうとダショー様を守り抜くと」
「≪ そうは出来ませぬな。ダショー様の魂に蜘蛛の糸を結び付けねば ≫」
同時、雨粒と共に突風が吹き込む。
戸板が弾き飛ばされ疾風と共に、ずぶぬれの黒い影が幾つも飛び込んできた。
シンハが素早く俺を土間から板間に上げさせる。
呆然としたままの俺は、ミルに引っ張られ背に隠れさせられた。
この状況が飲み込めない。
俺は、危険人物で。
俺は、ミルとテリンの人生を無茶苦茶にしてて。
それでもミルは、俺を体を張って守ってくれている。
俺は、一体何をやってんだ。
「≪ 目的を果たさせて頂きましょう ≫」
黒い影が、頭に深く被ったフードの奥から唸るような旋律を唄いだす。
地の底かた這い上がるような、重く響く合唱。
濃い霧が立ち込めるように、真っ黒い影が男達の足元から湧き出していく。
部屋の中を吹き荒れる風の精霊は、パニックになってますます暴れ飛び回る。
「闇の精霊かよっ! きたねぇぞ! 」
「声明を止めなさい! 止めなければ、執政官の命はありませんよ!」
「≪ おやおや。この身体に刀を刺しても、私は痛くもありませぬよ。この男の身体が無駄に傷つくだけ 私はヒラリと逃げ出せば良いだけの事 ≫」
「……っ」
「≪ 諦めなさい、姫宮。ダショー様。貴方が深淵にその魂を預けると約束するならば、姫宮と暮らす事を許しますよ。貴方は、もう誰も傷つけたくないでしょう? 深淵に来て頂ければ、姫宮の人生を狂わさずに生きていけますよ ≫」
「もう、誰も、傷つけずに? 」
甘い甘い誘惑の言葉。
ズタズタに切り刻まれた心に、アイの言葉が蕩けるように染み込んでいく。
イチゴ味の、シロップ。
脳天まで赤く赤く染める、魅惑の声色。
「ハルキ! 駄目です! 声明を聞かないで! 深淵に落ちては、生きながら絞め殺されるようなものです! 」
「ハルルン! 」
遠くなるミルとシンハの声。
飛び回る風の精霊の気配。
「≪ さぁ、ダショー・ハルキ様…… ≫」
このまま、このまま流されてしまえ。
ミルと暮らせる。
例え飼い殺されても、ミルと過ごせるのなら。
それでも、いいかな。
両手に抱えた大黒丸が、床に転がり落ちる。
板間に落ちたその瞬間、鈴の音がこの場に響き渡った。
『 いつか、この世界を旅して回るんだ 』
誰なのだろう。
鈴の音が、記憶の中の誰かを呼び覚ます。
『 いつか、大好きな人と暮らすんだ。ささやかな日々の糧を分け合って、一緒に暮らすんだ 』
青い風が、身体の中から湧き上がる。緑の草原を吹き渡る風。揺れる茂み、木々の葉が唄いさざめく。絶え間ない水音と、星の瞬く囁き。
あぁ、あんた、ハルンツだ。
見上げた暗い天井に、俺がいた。
青い瞳を持った、少年。
これが、ハルンツの願いなんだな。
深淵に最初に捕まってしまった、昔の俺の残影が笑う。
あんた、何を覚悟していたんだ?
わざわざ深淵に落ちた理由は、何なんだ? 何の為に深淵に落ちたんだ?
こんなにも、あんたは自由を求めていたのに。ささやかな幸せを追い求めていたのに。
その願いが叶わず、何度も何度も生まれ変わったなんて。
「やっぱ、落ちない。落ちれない」
楽な道なんか選べない。
ささやかな願いなんだ。ただ、好きな人と人生を添い遂げたいだけなんだ。
贅沢も、名誉も、権力も、何も求めてない。
ただ平凡な毎日だけを望んでいるんだ。
この願いを、叶えたい。その為に俺は生まれたんだ。
俺の成すべき事は、深淵からの開放だ。
「アイ。お前、何も判っちゃいないよ」
床に落ちた大黒丸を拾い上げる。
一段と大きくなる声明に、俺は笑いかける。
黒い鞘から、大黒丸の震動が伝わる。
ずっしりと手の平にかかる重みが、記憶をさらに掘り起こす。
「判らせてやる。俺がどんだけ深淵が大っ嫌いか、判らせてやる」
既に穴という穴から、緑の液体を垂れ流しだしたテリンだった肉体に宣言をした。
このまま、こいつらを帰すものか!