40 底から伸びる糸
昼近くのはずなのに、すでに夕方のように薄暗い。そして、家の中は夜のように暗い。土間にはすでに油を入れた小皿に明かりが灯されていた。
足早に戻った俺を見て、水がめの前で安堵の表情をするミルの手には水差し。
思わずその手から奪い取ると、ミルは眉をひそめた。
「テリンが水を欲しいって言ったのか? 」
「えぇ。さっき目が覚めたんです。まだ具合が悪いようなので。ハルキはもう、大丈夫ですか」
「あぁ、うん。それより、テリンの傍には行っちゃ駄目だ」
「ハルキまでそんな事言うんですか? 」
さっき、シンハが「テリンから離れろ」と言った事を根に持っているのだろう。足元のシンハを軽く睨み、シンハは困ったように俺を見上げた。
まいったな。
思い出した記憶で慌てて戻ったものの、テリンと深淵の呪術をどうやって説明すべきか。
そもそも、テリンがどうして深淵の呪術を使うのか。
証明するものはなく、全ては憶測の話だ。
「雨が降り出す前にやるべき仕事は山積みなんです。早く持っていかないと」
「いや……ちょっと話があるんだよ」
「どんな話なんですか」
珍しく、怒ったような声をだす。
困ったな。
薄暗い土間で、二人と一匹で押し問答してる場合じゃないんだよ。
「これは俺の予想なんだけど。あくまで、俺の考え。はずれてるかもしれないんだけど」
念入りに前置きをして、深呼吸。
頭の中の立体迷路を、何とか解きほぐしながらミルの心を刺激しないように話さなければ。
これは難題だ。
「ずっと前、ダショーの魂は深淵の神殿に何度も囚われたって言ったよね」
「え、えぇ。まぁ。でも、そんな事ありえないでしょう」
突然変わった話題に、薄暗い中でもミルが眉をひそめたのが判る。
視線はまだ俺が奪った水差しのまま。
「理由なんか判らない。けど、俺の記憶の底には確かに縛られた光景や恐怖がある。それこそ、何度も何度も。この世界に来てから、妙に記憶が戻ってきてるけど、幾つもの記憶の中に確かに縛られた恐怖があるんだよ。蜘蛛の糸で何度も縛られたんだよ」
「蜘蛛の、糸? 」
ミルの視線が、水差しから俺に移る。
僅かに首をかしげてから、目を見開いた。
「まさか、ハルキは蜘蛛が苦手なのはそのせいだと? 」
「そうだとしか思えないんだ」
「でも、蜘蛛の糸でどうやって魂を縛るのですか? 」
「そりゃ、呪術が具現化したのだろうなぁ。オイラは人間の世界の事詳しくないけど、深淵には秘密がたんまり有りそうな気がする。だろ? 」
「それはそうですが。でも、蜘蛛のような呪術とテリンに何の関係があるんですか」
援護射撃に入ったシンハに、はっきりとミルは否定した。
考えたくもない。そう言うように。
俺は残酷な事をしようとしている。そう判っているけど、言わざるえない。
これは、キミの為なんだ。そう何度も心に言い聞かせて。
「俺は確かに縛られた。それに、テリンに縛られかけたんだ」
「まさか! 」
「テリンを助けてここに来たあの日、俺は青い蜘蛛の糸に縛られかけたんだ」
「それでは、テリンが深淵の秘術を使ったと? テリンは深淵の間者だと? 」
「いや、そうは言わないけど……不審な事があるんだよ」
シンハの言う、水のニオイ。
市場で出会った少女の、「このおじさんしんでるよ」という言葉。
時折する、酷い死臭。
全てを繋げていけば、認めがたい事実が出てきそうだ。
ミルの薄桃色の唇が、かみ締められて真っ白になる。白い頬に赤みが入っていく。
「ハルキも知っているでしょう? テリンは、テリンは私の師匠です! 親であり、唯一の家臣であり、仲間です!それなのに、知っているのに、そんな酷い事を言うのですか! 」
「違う! そうじゃなくて」
「何が違うのですか! テリンは大事な仲間ですよ! 私は、テリンがいなければ存在できなかったのに! そのテリンを疑うなんて、何て侮辱……! 」
「テリンを侮辱するわけないだろ! 」
思わずミルに大声を出したと同時に、閃光が走った。
そして、空気を轟かす雷鳴。天の水甕をひっくり返したように、一斉に始まった雨音。
まるでフラッシュのように映し出されたミルは、泣きそうな表情をしていた。
絶え間なく低く流れる雨音に沈黙を支配される。
「俺は、ミルがテリンを大事にしてるのを、ずっと見て知っている。俺も、テリンを頼りにしてきた。そうだろう? 」
ミルを泣かしたくない。
まるで生徒に言い聞かせるように、俺は声を落ち着かせ頭のスイッチを入れ替えた。
そう。怒っては伝わらない。怒るのではなく、諭す。
大学で教授に言われたことを、ぼんやりと思い出しながら感情を律していく。
「だから認めたくなかった。テリンが俺を縛ろうとしても、テリンを信じたかった。だから、今までミルには言わなかった」
「じゃあ、なんで今頃こんな事を言うんですか! 」
「姫さん、今日は闇夜だ。今まで神苑の玉獣達が守ってきたここも、闇夜では俺達玉獣の力が弱まって完全に安全じゃねぇ。その上、テリンの様子がおかしい。気配が変わってきている。何か仕掛けるなら今夜なんだよ。いや、今だって雷雨で夜の闇になってきてる。危険なんだよ」
「シンハ……」
薄暗い中でも、ミルが小刻みに震えだしたのが判る。
思わず、水差しを持っていない片手でミルの肩を掴んだ。
「大丈夫。テリンが何で深淵の呪術が使えたか、それが判れば何とか出来るよ。とりあえず、テリンは目が覚めたんだろ? 」
「え、えぇ、えぇ。そうです」
「それなら、直接話してみよう」
「ハ、ハルルン馬鹿だろ! 本人に聞いても否定するに決ってるだろ! 」
シンハが尻尾を俺に叩きつけての一喝に、おれは頷く。
昨日、市場で遠まわしに聞いたが、否定された。いや、あれは何の事かすら判らなかったようだ。
それでも、夜にシンハと向かい合った時にテリン本人が明言した。
「昨日の夜、テリンは認めたじゃないか。明日は新月、今宵が最後の覚悟は出来ていると。確かに言ったじゃないか」
「そりゃな」
「そんな事をテリンは言ったのですか? 」
ミルの声が、僅かに震えている。
「それとなく蜘蛛の呪術を聞いた時は否定されたけど、今夜何か起きる事は知っていたんだ。テリンは何か知ってる。何か隠してる」
「そういう事だよな。姫さん、大丈夫か? 」
俺に投げつける声とは比べられないほど、優しい声色でシンハがミルに声をかけた。
肩にかけた手の比良からは、小刻みの震えがとまらない。
もう一度雷鳴が鳴れば、泣き顔のミルが照らし出されるかもしれない。
「ミル、辛かったらここで待っていて」
「ハルキ……」
「無理しなくていい。俺が、テリンと話をする。だから、ここで待っていて」
「≪ 相変わらずお優しいですね ≫」
ミルが息を呑んで薄暗い奥の座敷を凝視していた。
振り返る首が、悲鳴を上げる。振り返りたくない。
足元のシンハは、体中の毛を逆立てて唸りだす。
豪雨で舞い上がった土煙のニオイが、悪夢を現実だと突きつける。
「≪ それとも、クマリの姫宮だけにお優しいのですか? お二人は夫婦の誓いを立てられましたからね。いや、昨晩の返歌の儀は感動でしたよ ≫」
テリンの体が、薄暗い板間を歩いてくる。
ぎこちなく左右に体を揺らして歩く様子は、まるで操り人形。
テリンの体を吊る青い糸が見えるようだ。
そう、あれはテリンの体を動かす誰かの声。
「≪ まずは祝いの言葉を述べるのが先でしょうか ≫」
「テリンじゃない! 何奴! 」
ミルの悲鳴のような声に、俺の体中の筋肉が硬直する。
見開いた目に、研ぎ澄ました耳に、逆立った神経に、平調の声が撫でていく。
「≪ その青い瞳が再び見れるとは、長生きはするものですね。ダショー・オユン。オユントゥルフールムン。あぁ、今はハルキと名乗りましたね≫」
それが俺の名前。数ある中で、自ら命を絶った俺の名前だ。
閃光のように、また記憶が少し蘇る。あの忌まわしい小部屋の記憶が。
「あんた、やっぱりアイだな」
オユン~なる名前はモンゴルの人名から頂きました。貴方の隣人友人知人に同じ名前の方がいらっしゃっても,それは偶然です。はい。
次回 23日 水曜日に更新予定です。