39 最悪の日の始まり
「だから、早く移動しようぜ! 」
「テリンがまた具合悪いみたいだし、無理ですよ」
「だから、あいつは置いてくんだよ! 」
「置いていくなんて出来ません! 」
「姫さんも、今回はオイラの話を聞いとくれよぉ! 」
「少し黙れ! 」
思わず怒鳴ってしまい、ミルとシンハが驚いて俺を振り返る。
驚き固まった二人の顔を見て、怒鳴った自分に嫌悪。
何やってんだ、俺。
深く息を吐きながら、両手で顔を覆う。
「ごめん。少し苛々してた。顔、洗ってく」
静まり返った場が苦しくて、土間の入り口にかけてあった手ぬぐいを掴んで外へ出る。
板間で目覚めないままのテリンを見る事も出来なかった。
朝から風もなく、暑くて澱んでいる空気。まるで、朝からのこの家の中の雰囲気を具現化したような重苦しさ。
このまま、サウナのような暑苦しく重たい空気がレンガのように、重なり重なり押しつぶしてくるんじゃないか。
馬鹿げた空想に、ため息。
俺、何を現実逃避してるんだよ。
「ハルルン、ごめんな。その」
「シンハが謝るなよ。俺が勝手にイラついてんだから」
後を追ってきたシンハを振り返らず、井戸に向かって歩き続ける。
心配してく気持ちが、シンハから伝わってくる。これが双子星の由縁だろうか。お互いの心の波を感じる事が多くなった。
と事は、俺の苛々を感じてるんだろうか。悪い事してるな。
「どうしたんだよ。いつも変だけど、今朝はかなり不機嫌だし」
「そりゃね」
「何だよ。昨日は目出度く返歌の儀式もしたろ? 」
「夢見が悪かったんだよ」
水を汲み上げる為、井戸の釣瓶に力を込める。
井戸底の水音を聞きながら、思わずため息。
よりによって、何であの時の記憶が出てくるんだろう。
「俺を育ててくれたばあちゃんが、死んだ頃が夢で出てきてさ。あの頃の俺は少し情緒不安定で、思い出すと今でもおかしくなるんだよ」
「ばあちゃん、死んだのか? 」
「みんな、死んでるよ。でなきゃ、惚れた人を、追って、気軽に異世界、に、来れないよ」
妙に区切って、全身の力を使って水を引き上げる。
木桶の水を桶に流し移し、乱暴に顔を洗う。
一時の清涼感。手ぬぐいで擦るように顔を拭くと、少し安心する。
悪夢も擦り落とせたような錯覚。
「大丈夫か」
「大丈夫だろ。ここで文句言ってもしょうがない。だから何で移動するか話せよ」
「ここで? 」
「テリンの事。なんで重傷人を置いてくなんて言うんだよ。ミルの前で話せる事か? 」
「あの姫さんには、キツイな」
手ぬぐいを帯の合間に挟み込んで腕を組むと、シンハは鼻を鳴らして俺の横に座った。
袴から出た足首に、シンハの毛がフサフサと触れる。
見上げる空は、今にも雨粒を落としそうなほど重く暗くなっている。
洗濯物、乾かないな。水も、甕一杯に汲んでおかないと。夕飯の山菜も、雨が降り出す前に摘みに行かなくちゃ。
俺、異世界に馴染んできたなぁ。
妙に場違いな考えが浮かび、軽く頭を振る。
さっきから現実逃避しすぎだ。
「昨日の夜、オイラが言った事を覚えてるか? 」
「今夜だけだぞってか」
「今夜は新月だからな」
「新月だと何かあるのか? そりゃ、夜は星明りだけになるけど」
「そうだよ。月の光も届かない。しかもこの天気だ。今夜は真っ暗の闇夜だぞ」
確かに、暗いのは嫌だ。ここには蛍光灯も懐中電灯もない。植物系の油を燃やして得る明かりは、酷く心細い。囲炉裏の明かりにも限度がある。
「違う。暗くて困るって話じゃねぇよ。闇夜は呪術を仕掛けるに最高の好条件だ」
「そうなのか? 」
「ハルルンや姫さんの使うような呪術には関係ねぇ。二人とも精霊に好かれてるから、闇夜だろうが真昼間だろうが、大丈夫だ。でも、心に邪なもん抱えてるもんは違うんだよ」
神苑の森の中から遠吠えがあがるが、その悲しげな声色に思わず顔をしかめた。
何て切なそうに、心配げに泣いてるんだ。
つられるように、複数の遠吠えが森のあちこちから上がりだす。
「あいつらも、怖がってる。判るか? 」
「心が邪な奴らが来るのか? 」
「あぁ」
心が邪な奴ら。
悪いなと思いつつも、浮かぶのはあいつらしかいない。
「深淵の神官達か」
「闇夜は、神苑の星は動きづらい。妖獣は闇の影響が大きいけど、玉獣は元々が光の雫だからな。かといって、闇夜に精霊を動かすには、闇夜を味方につける力が必要だ」
「闇夜の、闇夜を纏う……金星の姉神……」
訳の判らない単語が出てきて、思わず口を覆う。
何だ、今の。
「おう。それそれ。金星の姉神の眷属だよ。冥界の女王だ。強力なんだけど、それを使えるのは深淵の神官どもぐらいだからな」
シンハの注釈に、頭をかきむしる。
自分の知らないはずの事なのに、勝手に記憶が喋りだした。こんな気持ち悪い事はない。
「辺り一帯で守りに入ってる玉獣の力が弱まり、闇夜の精霊が力を発揮出来る。それが今夜なんだよ」
「それとテリンと、何の関係があるのか」
「テリンは、蜘蛛使いだ」
背中に氷を落とされた。
心臓が一瞬だけ、止まりかける。
真っ黒になる視界に、恐怖の記憶だけが蘇る。
縛られる。締め上げられる。魂を喰われる。
「姫さんが慕うのに、こんな事言いたくねぇよ。でも、テリンはハルルンを深淵の呪術で縛ろうとした。覚えてるだろ? 」
「なんでテリンなんだよ。シンハも知ってるだろ。テリンはミルの大事な仲間だ。父親みたいな、大事な先生でもあるし保護者でもあるんだぞ」
「判ってるよ! でも、あいつオカシイんだよ。気配が、時々消えるんだよ」
「……は? 」
「ここんとこ、特に弱ってる。その度に、水のニオイと死臭がするんだよ。今日は、ほとんど気配がしないし」
「寝てるから、とか」
「そういうんじゃ、ねぇよ」
ブルンと、身震いして尻尾を妖怪アンテナの如く立てるシンハは、本当に何かを恐れているようだ。
俺が知る限り最強の玉獣のシンハが恐れる相手とは、何だろう。
背筋に寒気が入ったまま、両手で自分の体を抱え込む。
何が起きるんだ。何が起きてるんだ。
何も判らないけど、まるで悪夢が続いてるような錯覚に襲われる。
あの女が出てくる悪夢を見た時は、大音量で音楽をヘッドホンでかけながら酒を飲んで寝ていた。
そうやって悪夢から逃げていた。
泣き叫ぶような、鼓膜が破けるほどのラフマニノフ。狂うように頭を振って聞き入ったロック。
でも、ここで悪夢が襲ってきたら、どうやって逃げればいいんだ
ここには、酒もない。ステレオも、パソコンもない。
しかも、ここは異世界。夢ではない現実だ。
この先には、悪夢のような現実が待ち構えている。
今まで逃げようと、何度も試みて悪夢になった現実が待っている。
「何でこうなるんだ……」
思わず零した言葉に、シンハは緑の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
何も怖がるな。
シンハの心の声が、はっきりと存在していた。
オイラがここにいる。ハルルンは一人じゃねぇ。
「ずっと。シンハも、ずっと俺の傍にいてくれるか? 」
緑の瞳が微笑んだ。
可笑しいように、愛しそうに。
その笑みに、俺の心の怯えが収まっていく。
震え上がっていた心が、縮こまった心が、落ち着いていく。
「ずっと一緒だった。ずっと待ってた。ハルルンと、ずっと一緒だ。当たり前の事だ」
そうだ。
シンハは世界。
創世の瞬間に零れ落ちた星の欠片。天地、白と黒、光と影に分かれるその瞬間に生れ落ちた、清らかな気。星の雫。
だから、ずっと一緒だった。遠い遠い世界の始まりに。
だから、異世界に行った俺をずっと待っていた。あの灰色の空を見上げてくれていた。
だから、これからも一緒だ。
これは当たり前の事。星の定めなのだから。
俺達は、双子星なのだから。
「この世界の終わりまで、ずっと一緒だから泣くな」
「泣いてない」
「嘘つけ。ちょっぴり泣いてただろ」
「泣いてないって」
過去も現在も未来さえも。この世界が終わるまで、一緒。
なんて甘美な契りだろう。
一人ではないという事は、なんて幸福感を感じさせるのだろう。
この瞬間にも、「なんて事、あるのかな」と疑ってしまう俺にも感じる、震えるほどの幸福感をもたらす響き。
一人ぼっちを覚悟して、一人で人生を歩んでいく決心をしていた俺には、蕩けるほどに恍惚感。
こんな感じ方をしてしまう俺は、なんて偏屈な奴だろう。
「大丈夫か? やっぱハルルン変だ」
「大丈夫だよ」
この幸福感を感じられた。
悪夢が現実になっても、正気を保てる自信が少しついたよ。
きっと、俺は壊れない。一緒にいてくれるのなら。本当に、本当に傍にいてくれる存在があるのなら。
俺には、シンハもいる。何より、ミルがいてくれる。
記憶の底の恐怖が現実になろうとも、俺は踏みとどまれる。
この狂気に、付き合ってくれる存在がいるのならば。
「さぁ、テリンのそばに行こう」
「だから、逃げるんだってば! 話聞いてたのかよっ」
「逃げても無駄なんだ」
歩き出した俺の足元に、不安そうに寄り添うシンハを撫でる。
このふさふさの体毛は、なんて心地いいんだろう。心強いんだろう。
「テリンの後ろに深淵の連中がいるのなら、全て無駄だよ。蜘蛛の糸は、何度死んでも俺の魂を見つけては縛り続けた」
そう、何度でも。
何度生まれ変わっても。魂に刻み込まれた、この恐怖。
「だから逃げても無駄なんだ。もう逃げるのは嫌なんだよ」
この恐怖に、俺の意識の芯まで囚われない今のうちに、蜘蛛の糸は断ち切らなければ。
恐怖は、何度も再現されてしまう。そんな恐ろしい事は、もう、もう二度と体験したくない。
「蜘蛛退治だ」
「姫さんが慕うテリンだぞ! どうするんだよ! 」
「どうするかは、まだ考えてないけど……。とにかく何とかするんだよ。蜘蛛は、巣に虫がかかると牙をむくんだ。俺達は、もう、蜘蛛の巣に引っかかってるんだろ? なら、牙を剥かれるのは時間の問題じゃないか」
周到な、その性格。甘い平調の声で、真綿で絞め殺すような残虐さ。
あぁ、思い出していく。記憶が、恐怖で開かれる。
俺の中の複数の記憶と意識が、蠢いていく。
「あいつは……アイは、大切なものを奪って身動きさせなくして縛るんだ」
「アイって誰だよっ! 」
「俺を縛ってた奴……思い出した。思い出したくなかった」
一番思い出したくない事を思い出してしまって、手を握り締めた。爪が皮膚に食い込むまで、強く握り締める。
分厚い壁の向こうから囁くあの声を思い出し、思わず鳥肌になった腕を見て唇をかむ。
≪ 貴方は、エリドゥと深淵の繁栄の為にだけ、存在しているのですよ。辛抱なされませ ≫
忘れられない、この言葉。
あの男がこの世界に、この時間に存在するのなら、今ここで一番危険なのは、ミルだ。
俺が一番大事な存在。二つの世界で、最も大切な想い人。
ミルを、あの男に触らせてなるものか。
本文中に『金星の姉神』と出てきます。また作品中に使用しているのはシュメール神話に出てくる神々の名前ですが,本作品と現実世界は何の関係もありません。この場を借りて,お断りさせていただきます。
また,作者の不勉強さで間違いがあるやもしれません。
ご指摘,受け付けております。