表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見下ろすループは青  作者: 木村薫
39/186

 39 最悪の日の始まり

 「だから、早く移動しようぜ! 」

 「テリンがまた具合悪いみたいだし、無理ですよ」

 「だから、あいつは置いてくんだよ! 」

 「置いていくなんて出来ません! 」

 「姫さんも、今回はオイラの話を聞いとくれよぉ! 」

 「少し黙れ! 」


 思わず怒鳴ってしまい、ミルとシンハが驚いて俺を振り返る。

 驚き固まった二人の顔を見て、怒鳴った自分に嫌悪。

 何やってんだ、俺。

 深く息を吐きながら、両手で顔を覆う。

 

 「ごめん。少し苛々してた。顔、洗ってく」


 静まり返った場が苦しくて、土間の入り口にかけてあった手ぬぐいを掴んで外へ出る。

 板間で目覚めないままのテリンを見る事も出来なかった。

 朝から風もなく、暑くて澱んでいる空気。まるで、朝からのこの家の中の雰囲気を具現化したような重苦しさ。

 このまま、サウナのような暑苦しく重たい空気がレンガのように、重なり重なり押しつぶしてくるんじゃないか。

 馬鹿げた空想に、ため息。

 俺、何を現実逃避してるんだよ。


 「ハルルン、ごめんな。その」

 「シンハが謝るなよ。俺が勝手にイラついてんだから」

 

 後を追ってきたシンハを振り返らず、井戸に向かって歩き続ける。

 心配してく気持ちが、シンハから伝わってくる。これが双子星の由縁だろうか。お互いの心の波を感じる事が多くなった。

 と事は、俺の苛々を感じてるんだろうか。悪い事してるな。


 「どうしたんだよ。いつも変だけど、今朝はかなり不機嫌だし」

 「そりゃね」

 「何だよ。昨日は目出度く返歌の儀式もしたろ? 」

 「夢見が悪かったんだよ」


 水を汲み上げる為、井戸の釣瓶に力を込める。

 井戸底の水音を聞きながら、思わずため息。

 よりによって、何であの時の記憶が出てくるんだろう。

 

 「俺を育ててくれたばあちゃんが、死んだ頃が夢で出てきてさ。あの頃の俺は少し情緒不安定で、思い出すと今でもおかしくなるんだよ」

 「ばあちゃん、死んだのか? 」

 「みんな、死んでるよ。でなきゃ、惚れた人を、追って、気軽に異世界、に、来れないよ」

 

 妙に区切って、全身の力を使って水を引き上げる。

 木桶の水を桶に流し移し、乱暴に顔を洗う。

 一時の清涼感。手ぬぐいで擦るように顔を拭くと、少し安心する。

 悪夢も擦り落とせたような錯覚。


 「大丈夫か」

 「大丈夫だろ。ここで文句言ってもしょうがない。だから何で移動するか話せよ」

 「ここで? 」

 「テリンの事。なんで重傷人を置いてくなんて言うんだよ。ミルの前で話せる事か? 」

 「あの姫さんには、キツイな」


 手ぬぐいを帯の合間に挟み込んで腕を組むと、シンハは鼻を鳴らして俺の横に座った。

 袴から出た足首に、シンハの毛がフサフサと触れる。

 見上げる空は、今にも雨粒を落としそうなほど重く暗くなっている。

 洗濯物、乾かないな。水も、甕一杯に汲んでおかないと。夕飯の山菜も、雨が降り出す前に摘みに行かなくちゃ。

 俺、異世界に馴染んできたなぁ。

 妙に場違いな考えが浮かび、軽く頭を振る。

 さっきから現実逃避しすぎだ。


 「昨日の夜、オイラが言った事を覚えてるか? 」

 「今夜だけだぞってか」

 「今夜は新月だからな」

 「新月だと何かあるのか? そりゃ、夜は星明りだけになるけど」

 「そうだよ。月の光も届かない。しかもこの天気だ。今夜は真っ暗の闇夜だぞ」


 確かに、暗いのは嫌だ。ここには蛍光灯も懐中電灯もない。植物系の油を燃やして得る明かりは、酷く心細い。囲炉裏の明かりにも限度がある。

 

 「違う。暗くて困るって話じゃねぇよ。闇夜は呪術を仕掛けるに最高の好条件だ」

 「そうなのか? 」

 「ハルルンや姫さんの使うような呪術には関係ねぇ。二人とも精霊に好かれてるから、闇夜だろうが真昼間だろうが、大丈夫だ。でも、心に邪なもん抱えてるもんは違うんだよ」


 神苑の森の中から遠吠えがあがるが、その悲しげな声色に思わず顔をしかめた。

 何て切なそうに、心配げに泣いてるんだ。

 つられるように、複数の遠吠えが森のあちこちから上がりだす。


 「あいつらも、怖がってる。判るか? 」

 「心が邪な奴らが来るのか? 」

 「あぁ」

 

 心が邪な奴ら。

 悪いなと思いつつも、浮かぶのはあいつらしかいない。

 

 「深淵しんえんの神官達か」

 「闇夜は、神苑の星は動きづらい。妖獣ようじゅうは闇の影響が大きいけど、玉獣ぎょくじゅうは元々が光の雫だからな。かといって、闇夜に精霊を動かすには、闇夜を味方につける力が必要だ」

 「闇夜の、闇夜を纏う……金星の姉神エレシュキガル……」


 訳の判らない単語が出てきて、思わず口を覆う。

 何だ、今の。


 「おう。それそれ。金星の姉神エレシュキガルの眷属だよ。冥界の女王だ。強力なんだけど、それを使えるのは深淵しんえんの神官どもぐらいだからな」


 シンハの注釈に、頭をかきむしる。

 自分の知らないはずの事なのに、勝手に記憶が喋りだした。こんな気持ち悪い事はない。


 「辺り一帯で守りに入ってる玉獣ぎょくじゅうの力が弱まり、闇夜の精霊が力を発揮出来る。それが今夜なんだよ」

 「それとテリンと、何の関係があるのか」

 「テリンは、蜘蛛使いだ」


 背中に氷を落とされた。

 心臓が一瞬だけ、止まりかける。

 真っ黒になる視界に、恐怖の記憶だけが蘇る。

 縛られる。締め上げられる。魂を喰われる。


 「姫さんが慕うのに、こんな事言いたくねぇよ。でも、テリンはハルルンを深淵しんえんの呪術で縛ろうとした。覚えてるだろ? 」

 「なんでテリンなんだよ。シンハも知ってるだろ。テリンはミルの大事な仲間だ。父親みたいな、大事な先生でもあるし保護者でもあるんだぞ」

 「判ってるよ! でも、あいつオカシイんだよ。気配が、時々消えるんだよ」

 「……は? 」

 「ここんとこ、特に弱ってる。その度に、水のニオイと死臭がするんだよ。今日は、ほとんど気配がしないし」

 「寝てるから、とか」

 「そういうんじゃ、ねぇよ」


 ブルンと、身震いして尻尾を妖怪アンテナの如く立てるシンハは、本当に何かを恐れているようだ。

 俺が知る限り最強の玉獣ぎょくじゅうのシンハが恐れる相手とは、何だろう。

 背筋に寒気が入ったまま、両手で自分の体を抱え込む。

 何が起きるんだ。何が起きてるんだ。

 何も判らないけど、まるで悪夢が続いてるような錯覚に襲われる。

 あの女が出てくる悪夢を見た時は、大音量で音楽をヘッドホンでかけながら酒を飲んで寝ていた。

 そうやって悪夢から逃げていた。

 泣き叫ぶような、鼓膜が破けるほどのラフマニノフ。狂うように頭を振って聞き入ったロック。

 でも、ここで悪夢が襲ってきたら、どうやって逃げればいいんだ

 ここには、酒もない。ステレオも、パソコンもない。

 しかも、ここは異世界。夢ではない現実だ。

 この先には、悪夢のような現実が待ち構えている。

 今まで逃げようと、何度も試みて悪夢になった現実が待っている。

 

 「何でこうなるんだ……」


 思わず零した言葉に、シンハは緑の瞳を真っ直ぐに向けてきた。


 何も怖がるな。

 シンハの心の声が、はっきりと存在していた。


 オイラがここにいる。ハルルンは一人じゃねぇ。


 「ずっと。シンハも、ずっと俺の傍にいてくれるか? 」

 

 緑の瞳が微笑んだ。

 可笑しいように、愛しそうに。

 その笑みに、俺の心の怯えが収まっていく。

 震え上がっていた心が、縮こまった心が、落ち着いていく。

 

 「ずっと一緒だった。ずっと待ってた。ハルルンと、ずっと一緒だ。当たり前の事だ」


 そうだ。

 シンハは世界。

 創世の瞬間に零れ落ちた星の欠片。天地、白と黒、光と影に分かれるその瞬間に生れ落ちた、清らかな気。星の雫。

 だから、ずっと一緒だった。遠い遠い世界の始まりに。

 だから、異世界に行った俺をずっと待っていた。あの灰色の空を見上げてくれていた。

 だから、これからも一緒だ。

 これは当たり前の事。星の定めなのだから。

 俺達は、双子星なのだから。


 「この世界の終わりまで、ずっと一緒だから泣くな」

 「泣いてない」

 「嘘つけ。ちょっぴり泣いてただろ」

 「泣いてないって」


 過去も現在も未来さえも。この世界が終わるまで、一緒。

 なんて甘美な契りだろう。

 一人ではないという事は、なんて幸福感を感じさせるのだろう。

 この瞬間にも、「なんて事、あるのかな」と疑ってしまう俺にも感じる、震えるほどの幸福感をもたらす響き。

 一人ぼっちを覚悟して、一人で人生を歩んでいく決心をしていた俺には、蕩けるほどに恍惚感。

 こんな感じ方をしてしまう俺は、なんて偏屈な奴だろう。

 

 「大丈夫か? やっぱハルルン変だ」

 「大丈夫だよ」


 この幸福感を感じられた。

 悪夢が現実になっても、正気を保てる自信が少しついたよ。

 きっと、俺は壊れない。一緒にいてくれるのなら。本当に、本当に傍にいてくれる存在があるのなら。

 俺には、シンハもいる。何より、ミルがいてくれる。

 記憶の底の恐怖が現実になろうとも、俺は踏みとどまれる。

 この狂気に、付き合ってくれる存在がいるのならば。


 「さぁ、テリンのそばに行こう」

 「だから、逃げるんだってば! 話聞いてたのかよっ」

 「逃げても無駄なんだ」


 歩き出した俺の足元に、不安そうに寄り添うシンハを撫でる。

 このふさふさの体毛は、なんて心地いいんだろう。心強いんだろう。


 「テリンの後ろに深淵しんえんの連中がいるのなら、全て無駄だよ。蜘蛛の糸は、何度死んでも俺の魂を見つけては縛り続けた」


 そう、何度でも。

 何度生まれ変わっても。魂に刻み込まれた、この恐怖。


 「だから逃げても無駄なんだ。もう逃げるのは嫌なんだよ」

 

 この恐怖に、俺の意識の芯まで囚われない今のうちに、蜘蛛の糸は断ち切らなければ。

 恐怖は、何度も再現されてしまう。そんな恐ろしい事は、もう、もう二度と体験したくない。


 「蜘蛛退治だ」

 「姫さんが慕うテリンだぞ! どうするんだよ! 」

 「どうするかは、まだ考えてないけど……。とにかく何とかするんだよ。蜘蛛は、巣に虫がかかると牙をむくんだ。俺達は、もう、蜘蛛の巣に引っかかってるんだろ? なら、牙を剥かれるのは時間の問題じゃないか」

 

 周到な、その性格。甘い平調の声で、真綿で絞め殺すような残虐さ。

 あぁ、思い出していく。記憶が、恐怖で開かれる。

 俺の中の複数の記憶と意識が、蠢いていく。

 

 「あいつは……アイは、大切なものを奪って身動きさせなくして縛るんだ」

 「アイって誰だよっ! 」

 「俺を縛ってた奴……思い出した。思い出したくなかった」

 

 一番思い出したくない事を思い出してしまって、手を握り締めた。爪が皮膚に食い込むまで、強く握り締める。

 分厚い壁の向こうから囁くあの声を思い出し、思わず鳥肌になった腕を見て唇をかむ。

 ≪ 貴方は、エリドゥと深淵しんえんの繁栄の為にだけ、存在しているのですよ。辛抱なされませ ≫

 忘れられない、この言葉。

 あの男がこの世界に、この時間に存在するのなら、今ここで一番危険なのは、ミルだ。

 俺が一番大事な存在。二つの世界で、最も大切な想い人。

 ミルを、あの男に触らせてなるものか。


 


 

 


 




 

 本文中に『金星の姉神』と出てきます。また作品中に使用しているのはシュメール神話に出てくる神々の名前ですが,本作品と現実世界は何の関係もありません。この場を借りて,お断りさせていただきます。

 また,作者の不勉強さで間違いがあるやもしれません。

 ご指摘,受け付けております。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ