38 深紅の地上と藍色の天上
今回は最後の方に痛い描写があります。
苦手な方。火傷にトラウマがある方,お気をつけ下さい。
「こんなトコでのんびりしてていいの? おばあちゃん、ほったらかしてイケナイ子ね」
ばあちゃんは、もう死んだんだよ。
飛び出しそうになった感情と言葉を、飲み込む。亜希子さんには、知らせなくていいことだ。知ったら、また骨までしゃぶろうと襲ってくる。
腹の中の炭酸が、憎しみの激情と混ざりあう。消化に悪そうだ。
「学校帰りに呼び出して、何の用事かしら」
風下になると、亜希子さんから香水のニオイが暴力的に漂ってくる。
さっきまで辺りに存在していた清清しい木々の薫りが消えていた。
思わず眉を寄せて顔を上げると、禍々しい笑顔が返される。
分厚い化粧と、赤い唇。年のわりに、やけに明るく染めた茶色の髪に毛先の強めのカール。全てが、不愉快な存在。
「ここ、よく来るのかしら」
「あんまり。初めて来た」
「今日は何? ここでお茶会でもするつもり? 」
何でここに呼び出されたのか、検討もつかないのだろう。
亜希子さんは気だるそうに首元をハンカチで押さえ、俺の手にあるペットボトルを見た。
「あげますよ」
「あら、悪いわね」
放ってやると、まだ一口飲んだだけのポットボトルを何の躊躇いもなく蓋を開ける。
炭酸の音と、僅かな嚥下の音。
あぁ、全てが汚らわしい。
この女から漂う香水も、視線も、触ったものも、その気配すら、全てが汚らわしい。
返そうか。そんな仕草をされても、無視。
赤い口紅がべっとりと付いたペットボトルを返すなよ。
あんたが触ったもの、触りたくもない。
「で、何の話? 長くなるなら、お店に入らない? 」
「そんなに長い話のつもりはありません」
同じ場所の空気を吸う事すら、嫌なんだよ。
判る? こんなに嫌ってる事、判ってる?
だから簡潔に。
「返して欲しかったんだ。祖父の通帳と、土地の権利書や契約書を返して欲しかっただけ」
本家から分割された遺産はいらない。譲渡された株券もいらない。
じいちゃんが作り上げた財産だけを。じいちゃんがばあちゃんと俺の為に汗水ながして築いたものだけを、返して欲しい。
たったそれだけなんだ。
それだけを、返して欲しい。
「どういう事よ。まるで私が取ったみたいに言わないでよ」
「亜希子さんがした事を、警察に言ってもいいんですよ」
「民事には介入しないわよ」
余裕を浮かべた笑みに、俺も笑って返す。
知ってるよ。警察が遺産騒動に首を突っ込まないぐらい。
知ってるよ。あんたが、こんな言葉で臆する訳ないって。
乾いた唇を舐めて、微笑む。
「本家のものだもの。返してもらっても、おかしくないでしょ」
「その本家を傾かせたのは、誰ですか」
「私のせいじゃないわよ。父が食いつぶしたんだから。わたしはむしろ被害者よ」
江戸初期から所有していた美術品も、軽く県をまたいで移動できるほど所有していた土地すらも、全て食いつぶした奴らが。
じいちゃんから、帰る家を奪った奴らが。
被害者面かよ。
「ウチの通帳も、家の権利書も、本家のものじゃないですよ」
「本家からの財産があったから築けた財産でしょ。なら、それも本家を継いだ私のものよ」
太陽が、赤く世界を照らしていく。
噴水の雫も、コンクリートで固められた地面も、紅葉していく木々の葉も、穏やかになびく風も。
亜希子さんの持つペットボトルも。ジンジャーエールも、赤く赤く染まっていく。
沈み行く太陽が、世界を染め上げていく。
燃える炎のように、血の色のように、全てを赤く染め上げていく。
「話って、そういう事? 大丈夫よ。おばあちゃんの入院費は保険でなんとかなるでしょ? 晴貴くんの学資保険もちゃんとあるでしょ? 大丈夫。何かあったら相談してね。ちゃんと面倒見てあげるわよ」
「……っ」
怒りのまま、喉の奥が空気を切る。
腹の奥の微炭酸が、弾ける。
亜希子さんの手の中のペットボトルが、一瞬で沸騰したように真っ白く膨れ上がり破裂する。
「きゃあ! 何これ! 」
短い悲鳴で、噴水周辺にいた人々の視線が集まる。
びしょびしょになった亜希子さんが、手にしていたペットボトルを俺に投げつける。
異形の朝顔のように広がったペットボトルの残骸が、俺の肩にペコンと当って落ちる。
修羅場に漂う、ジンジャーエールの薫り。甘い甘い香り。
「当て付けに、こんな細工する訳?! 」
「当て付け? 」
奪ったのは、あんた。
きっかけは、あんた。
「俺からばあちゃんとじいちゃんの命を奪ったのも。家や財産を奪ったのも。お金や形以外のものも、奪ったあんたが何言ってるんだ」
俺を怒らせた、あんたのせいだよ。自分のせいだよ。
判ってる?
「今日の話は、簡単。返して。でも、駄目なら消えてくれよ。もう、キツイ」
「何いってんのよっ。消えてくれって、どういう事よっ」
「じいちゃんとばあちゃんがいたから、俺は生きてたんだ。でも、死んじゃったから、もういいんだ」
「死んだの? おばさんも死んだの?! いつよ! 私、知らないわよ! 」
乾いた唇を、舐める。
喚く亜希子さんから視線を外して、遠くを見詰める。
北駐車場に人影がない事を確認して。
そっと、息を唇に乗せる。
赤い空気を切り裂いて、振動が赤い車へ真っ直ぐに響いていく。
公園に響いた口笛は、爆音にかき消される。
駐車場に、火柱が聳え立つ。
「あ、あ、な、何よこれっ」
「なくなったのを、返せとは言わない。死んだじいちゃんとばあちゃんを返せとか、言わない。俺はあんたと違って優しいから」
とても、とても、優しいから。
「だからお願い事は一つだけ。俺も消えるから、あんたも消えてくれ」
熱を帯びた風が、吹き荒れる。
落ち葉と悲鳴を巻き上げて、世界が完成していく。
腹の中の微炭酸が、再び弾けた。
お願い事は、一つだけ。一つの願いを叶える為に、代償を一つ。
あんたの存在が、許せないんだ。
大切な思い出があるこの世界に、あんたが存在していく事が許せないんだ。
だから。
「消えてくれよ」
唇の形を、僅かに変えて。
肺いっぱいに吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出そう。
さぁ、世界に響け。
あの女が消えゆく世界に、響き渡れ。
「あんたが、あんたがやったの?! でも、そんな馬鹿な事……、何やってんのよぉおお! 」
目の前で金切り声を上げる亜希子さんが、燃える車と口笛を吹いた俺を交互に指差して。
公園の事務所へ走っていく人。携帯を取り出す人。子供の手を引いて、この場から離れようとする人。遠回りに俺達を見てる人。
あぁ、消えてくれ。
全て、消えてくれよ。
「何よ、何よ! 何なのよ! 」
パニックになりかけた亜希子さんは、俺を指差して罵る。
まるで酸欠の金魚。醜い、腐臭を漂わす金魚。
「電子レンジの仕組み、知ってる?」
電磁波で食品内部の分子を震動させる。
ガソリンで同じことをやれば、車を爆発させるのは簡単な事。
「だから車って簡単に爆発するな……」
「あんた、何したのよぉお! 私の車に何したのよぉお! 」
口笛で、分子を震動させる。
何でこんな馬鹿げた力を持ってるんだ。
こんな力、いらないよ。欲しいのは、じいちゃんとばあちゃんと過ごした毎日だよ。欲しいのは、これから過ごすはずだった僅かな未来だけ。
ねぇ、神様。
いらないよ。こんな力。
たった一人、こんな力を持って何になる? 生きていて何になる?
だから、ねぇ、神様。
俺も消してよ。
真っ赤に燃えていく世界と一緒に、俺も消し去って。
「ぎゃあああ! 」
空を見上げて、唇を細める。高く高く、口笛を響かせる
震動する音が、炎を風に巻き上げさせた。
渦巻いていく風が、熱を帯びる。俺を包んでいく。
逃げようと走り出す亜希子さんに、炎の風が吹き荒れる。
そして俺の制服に、赤い炎の舌が舐めていく、白いシャツの袖が、あちこち穴を開けて燃えていく。髪の毛が、鼻を焦がすような異臭を上げて燃えていく。
夕焼けの空を見上げて、口笛を吹き続けた。
あぁ……天頂付近の宇宙の色はなんでこんなに美しいんだろう。
藍色の、底なしの青。果てない空間の、宇の色。過去と未来を秘めた、宙の色。
あの宇宙の色の中に、帰る。帰ろう。
じいちゃんと、ばあちゃんが帰っていく色へ。父さんと母さんが待っている色へ。
神様。
俺を青の中へ帰して。
「助けてぇぇええ! 」
空を見上げ、炎に包まれようとした瞬間だった。
炎の隙間から、闇雲に走り回る亜希子さんが燃える髪を振り乱し突進してくるのが見えた次の瞬間、体が突き飛ばされていた。
思わず、息を吸い込む。炎が唸る高温の空気を一気に吸い込んで喉が焼ける。途切れた口笛。炎の風が止んでしまった。
飛ばされたまま、盛大な水音を立てて噴水の中へ転がり込む。
「ひいぃいいい! 」
絶えない悲鳴と、異臭。
助けようとする、通行人。
噴水に突き落とされた俺は、浅い底に手をついて起き上がる。
あぁ、死に損ねたんだ。
そう理解するのは、早かった。
悲鳴を上げて燻る服をもみ消そうと、踊り狂う錯乱状態の亜希子さんは、走ってきた公園事務所の関係者らしき男性達に取り押さえられていた。
チリチリになった髪を振り乱し、赤く腫上がった顔をさらに醜く歪ませて、俺を指差して喚いている。
あぁ、神様。
俺は死に損なったんだね。
生臭い噴水の水が滴り落ちる前髪を上げて、ため息をつく。
「あぁ……」
通行人の優しいおじさんに引っ張られ、びしょびしょの俺は噴水から助け出される。
狂った女が焼身自殺をし損ねて、まき沿いを食らった哀れな高校生に見えるんだろう。
周りの大人が口々に「大変だったね」「火傷は酷いかい? 」と気遣ってくれる。
違う。酷いのは俺。
狂っているのは、俺かもしれない。俺が狂ってるのか? いいよ。もう。狂っているなら、それでいい。
でも、俺はこれからどうやって生きていけばいい? 狂ったまま、大切な人がいない世界で、こんな世界で生き続けなきゃいけないのか?
「大嫌いだ」
俺を指差し喚く女に、呟く。
青が濃くなった天頂を見上げ、呟く。
「大っ嫌いだ」
この力も。この女も。燃やして消し去ろうとした俺も。失敗してしまった、愚かな道化の俺も。
美しすぎる、この青い空も。淡く微かに光る星も。
全ての存在を作り出して、この時間を眺めているだろう、存在も。
あんたなんか、大嫌いだ。生きろという、残酷なあんたなんか、大嫌いだ。
神様なんて、大っ嫌いだ。