37 健やかな時も 病める時も
「明日、もう一度だけ市場へ行こうよ」
「危険です。後李の兵も増えておりましたから、しばらく市場へは行かないほうがよいと思いますが」
「絵筆を買いに行こう。絵の具とか画材とか」
「ハルキ……」
見えないゴールへ走るのは、一人じゃない。
俺も、ミルとテリンと一緒に走るんだ。
そっと、横の手を握る。不安な気持ちを、俺も感じよう。重責を負おう。
俺は、ミルに寄り添っていくから。
遠くを眺めていたミルの瞳が、潤んで俺を見詰めた。
「戦が終わったら、全て終わったら、使えるだろ? それでさ、まずミルを描いてほしいな」
「ハルキ……ありがとう。でもそれなら、まずハルキを描くように私が頼みます。ダショー・ハルキの御影を」
「では仲睦ましいお二人を、最初に描くとしますか」
「テリン! 」
突然入った声に、俺達二人が手を繋いだまま振り返る。
痛みに顔を歪ませながら、テリンは布団から上半身をゆっくり起き上がらせた。
ミルが素早く単衣をかけてやると、テリンは大きく息を吐いて笑いかける。
「市場は危険だと骨身に染みましたからな。絵筆はまた次の機会があれば買うとしましょう。それより、姫宮様は今日のアレをお渡しになったのですかな」
「いえ、その……」
途端、ミルは顔を赤らめて俯いてしまう。
「時間というものは、無尽蔵ではありませぬぞ。このテリンでよければ見届け人になります故、お渡しになされませ」
「テリン……ありがとう。あの、ちょっと待っていて下さいね」
真っ赤な顔を俯かせたまま、ミルは板間を小走りに奥へ行ってしまう。
残された俺達の間に、シンハが素早く回りこんだ。背中の毛を逆立たせ、布団の上に痛々しく座るテリンに歯をむき出しに唸りだした。
「シンハ! 」
「構いませんよ。穢れを嫌う玉獣は、全てを知っているのでしょうな。誇り高きダショーの双子星よ、どうか今晩だけはここにいさせておくれ。ここで、祝福を挙げさせておくれ……」
土色の顔に微笑を浮かべ、シンハに頭を垂れるテリンの様子に戸惑う。
何を言っているのか判らない。
威嚇を止めないシンハの首元を押さえつけながら、一匹と一人のやり取りに首を捻る。
だいたい、俺以外の人間と口をきかなかったシンハが、急にテリンに怒鳴りだす事にも驚いているのに。
「くそっ……今晩だけだな? 本っ当に今晩だけだぞ! 明日は新月だ。意味判ってんだろうな! 」
「夢は覚める。その事は重々承知の上でしたからな。仕方ありませぬ……今宵が最後の覚悟はありますぞ」
「テリン? 何言ってるんだ? 最後って、何ですか? 」
「姫宮様に、このような立派な殿方がいてくださる。見届けていける事に、その幸運に感謝をしておるのですよ。ダショー様でなく、姫宮様が心を寄せる殿方としてお話しますが、よろしいですかな」
襟元を直し姿勢を正したテリンは、布団の上で俺を真っ直ぐに見据えた。
心の底まで見通すような視線に、俺はシンハと首根っこから手を放して板間に座りなおす。
急に改まった雰囲気に呑まれながら、背筋を伸ばしてテリンと向かい合う。
「姫宮様が指につけられた指輪は、ハルキ様がお贈りになられたのですな」
「そう、ですが」
「ハルキ様の世界では知りませんが、我らの世界では贈り物には意味があります。男女の間の贈り物には、意味がございます」
あぁ、これは、まるで彼女の実家に挨拶にいったような雰囲気だ。
水野が言っていたのを思い出し、俺は僅かに鳥肌がたった。
相手の家の父親と向かい合って結婚をお願いするのは、面接なんか目じゃないぐらいに最高に緊張すると言っていた。
「ハルキ様は、指輪をお贈りになった。そして姫宮様はそれを受け入れて身につけられている。ハルキ様は求婚をされ、姫宮様は受け入れられたという事ですぞ」
「そう、ですか」
よかった。
ミルは、俺を受け入れてくれた。
判っていたけど、それを客観的に伝えられ事に嬉しさがこみ上げる。いや、ここでミル側の保護者にキチンと挨拶をすべきなのか。
緩む口元を慌てて引き締め、額を床につけるように頭を下げた。
「もちろん、俺はそのつもりです。こちらの慣習は知りませんでしたが、俺の気持ちは間違いありません」
口に出した途端、指先が細かく震えだす。体中の血が消えてしまったように、冷たくなっていく。それなのに、心臓の脈打つ音だけがうるさい。
あぁ、これは結納だ。まるで、結婚を約束する儀式だ。
真っ直ぐ、テリンと向き合う。
言わなければ。偽りない、真心を伝えなければ。
ミルを、ミルの傍らで生きると。
「俺は、ミルと生きて生きたい」
僅かに声が震えてしまう。
「俺は、ただその為にこの世界に来ました。ミルと一緒に、生きたい。生かせて下さい」
「ハルキっ」
布に包まれたものを胸の前で抱え、ミルが板間の端に立っていた。
大きな目が、潤んでいく。くしゃくしゃに歪むミルの顔に、緊張が解けていく。
好きだよ。大好きだよ。
「では、姫宮様の心をお渡ししましょう」
「……はいっ」
ミルが俺の横に座り、抱えていた布をゆっくりと解いていく。
その細く長い指が震えている。ミルの緊張しているのか。
「ここは、ハルキの世界とは違いすぎて。ハルキの好きな本もプレイヤーも、車も、何もないので、何がよいか判らなくて」
一瞬止めた手を、固く握り胸の前で組んだ。
祈るように。願うように。
左手の指輪が、薄暗い蝋燭の明かりに照らされて鈍く光っている。
「でも、これが私の心。偽りない、私の心と共に贈ります」
ミルがゆっくりと最後の布端を解くと、弦楽器があらわれた。
バイオリンより、やや大きく。チェロよりも小ぶりな、三味線の面影を持った見たことのない弦楽器。
添えられた弓も、胴も、古びたキャラメル色の楽器に、目を奪われる。
「どうか、受け取って下さい」
「これを、俺に? 今日の買い物って、これ? 」
「今は、これしか用意出来なくて。本当はもっと名器をと思うのですが……。でも、でも、心はハルキに捧げていますからっ」
最後の方は涙声で囁いたミルの言葉に、俺は動けなくなった。
心をも、全てを、俺に委ねてくれるんだね。一緒に生きてくれるんだね。
あぁ、よかった。キミは、心をも俺にくれるんだね。
キミを好きでよかった。ここに来て、よかった。
体の奥から込み上がる激情に、思わず顔を覆う。その両手も、震えている。
心が震えると、体も震えるんだな。
ありがとう。
ありがとう。
「すんごい、嬉しい。すごく、すごく、嬉しいよ。ありがとう……」
同じ言葉しか、浮かばない。国語の教師だったのに、この気持ちを表現出来る言葉が浮かばないよ。
ありがとう。これ以上の言葉は、どこにあるのだろう。
それを伝えたくて、滲む涙を手の甲で拭いて楽器に手を伸ばす。
「弾いてみて、いいかな」
「おぉ。弾いて下さいますか! 」
テリンに笑いかけ、そっと棹を撫でる。
手になじむ感触に、じいちゃんのチェロを思い出す。
ミルに差し出された弓を、そっと弦に当てて弾いてみる。
優しい音が、空気を震わす。
一弦一弦、音を確かめていく。弦の振動が胴を共鳴して鳴り響く。その振動が心地よい。
あぁ、なんて懐かしい音だろう。
「三線という楽器です。ダショーは三線を好んでおられましたし、ハルキも弦楽器を持っていたので三線を選んだのですが」
「うん。あぁ、だからかな。懐かしいんだ。すごく、懐かしいんだ」
軽く弦を締めて音程を整え、指の置き場所を確認する。
最初に弾く曲は、ミルに捧げよう。
キミが好きな曲を、捧げよう。
「……いい唄だな」
シンハがそう呟き、ゆったりと尻尾を揺らす。
目が合ったミルは、涙を零して微笑んだ。
テリンは、土色の顔に幸せそうな笑顔を浮かべた。
震える弦は、共鳴されて大きく空気へ広がっていく。幸せの気持ちも、広がっていく。
細かな心の動きすら、その空気の震動に乗せていこう。
世界中に、宣言するよ。キミが、好きだ。大好きだ。
キミと何処までも行こう。
虹すら越えて、何処まででも。
だから、奏でる曲は、オーバー・ザ・レインボウ。
時も、空間も、全てを越えて、キミと何処までも。
吹く風に、秋の薫りがする。
悲しげで、太陽の季節の終わりを宣言する薫り。生きるものが休眠する冬の訪れを遠くに感じさせる気配。
そんなのは、気のせいだ。まやかしだ。
日照時間の変化と、葉の色の僅かな変化と、乾燥した空気の変化によって、体が感じ取っている季節の移ろいにすぎない。
噴水を背に、俺は公園の北入り口を睨んで待つ。
大きな駐車場に接しているのは北入り口だから、あの女がやってくるのはここしかない。
真っ赤な流行の小型自動車に乗ってくるのは、じいちゃんを見送ったあの女。ばあちゃんを追い詰めたあの女。
学校帰りで制服姿の俺は、噴水の端に腰掛けている。
赤ん坊を連れた若い夫婦が、「今日の晩御飯、何にしようか」と笑いながら通っていく。
駄々をこねた幼子が「まだ遊んでくぅー」と泣き叫び、母親に引きづられて行く。
犬の散歩を兼ねてジョギングするおばさん、おじさん。
近くの自動車学校の本を抱えて走っていく、大学生風のカップル。
幸せそうだ。
みんな、みんな幸せそうだ。
俺も、そう見えるだろうか。
俺も、幸せそうな学生に見えてるだろうか。
誰も、誰も他人の事なんか知らない。
誰も、俺の心の中なんか知らない。
たった一人、俺を知っていたばあちゃんは、今は病院にいない。心臓の鼓動も止まって、柔らかな呼吸も止まって。
もう、悩む事もなく。熱で苦しむ事もなく。
葬儀を簡易にして、火葬もすませて。真っ白な骨になってしまった。小さくて軽い砂糖菓子のように真っ白な欠片になったばあちゃん。
その欠片を拾っても、俺は何も感じない。そして死んだ事実ではなく、自分が何も感じないことに戸惑っているなんて。
誰も、そんな俺を知らない。
軽薄で、残酷で、自己中心的で、自分が可愛いだけの、俺を誰も知らない。
「来た」
駐車場に、左ハンドルの赤い小型自動車が入ってくる。
大きなエンジン音を響かせて、乱暴にハンドルを切って。何度も切り返して駐車スペースに入れていく。
カバンから取り出したペットボトルを一口飲んで、固く蓋を閉じる。
ジンジャーエールの細かな炭酸が、腹ではじけた。
作中の『三線』なる楽器は,架空のものです。
大きさは人が気軽に持ち運べる程の大きさで(ミルが胸に抱えてましたから,そのぐらいですね),三本の弦を弓で弾きます。……って感じの設定で(汗)。