36 それでも世界は回っている
暑さ寒さも彼岸まで。
そんな言葉が信じられないほど暑い秋分の日だった。絶対、俺はこの日を忘れない。この光景を忘れられない。
リビングからの和室。仏壇の前に座るばあちゃん。その周りに散らばった色鮮やかな帯や着物。そして、いくつもの書類や古い通帳。
Tシャツに張り付いてた汗が、一瞬で凍りついた。
「もう、ないんですよぉ。ないんですよぉ……」
「ばあちゃん? ばあちゃん? 」
そうめんと卵焼きの昼食を食べて、俺は図書館の自習室へ出かけて。
それはいつもの休日と変わらないはずだった。少し心配げに微笑み「そんなに勉強せなあかんの? 無理せんでいいんよ」と送り出してくれたのに。
虚空を見て怯えるように呟き続ける異様なばあちゃんの様子に、背筋が凍りつく。
これは、俺のばあちゃんじゃない。知らない人と思いたい。
恐る恐る俺が近づくと、ばあちゃんは小さく悲鳴を上げた。
「ごめんなさいぃ。許してぇ。もう、ないんよぉ。亜希子さん、堪忍ねぇ」
「ばあちゃん! 」
怯えるように縮こまったばあちゃんが発した言葉に、全てを悟った。
亜希子。あの女、あの死神。忌まわしい、あの女!
じいちゃんの遺産を漁りに来たに違いない。
じいちゃんの実家は、資産家だったらしく。両親との不仲で家を出たじいちゃんも、ある程度の資産は継いでいた。いくつかの不動産。株券。国債。そして、じいちゃん自身の手で築き上た貯金。
実家の豊かな資産を道楽で食いつぶしたという弟とあの女と違い、堅実なじいちゃんには財産があった。
それを、嗅ぎつけたあの女。病院からしつこく付きまとったあの女は、ばあちゃんの前で家中を物色したんだろう。
これが、初めてなんだろうか。もしかしたら、夏期講習で留守にしていたあの頃から、家に入り込んでいたんだろうか。俺とばあちゃんと、じいちゃんとの想い出が刻まれた場所に、踏み込んでいたのだろうか。俺達の大事な、大切な場所に、土足で踏み荒らしに来ていたんだろうか。何度も、何度も、踏み躙りに来てたんだろうか。
ばあちゃんは、すっと俺に隠していたんだろうか。ずっと、一人で抱え込んでいたんだろうか。
吐き気がするような考えが、湧き上がる。次から次へと押し寄せる考えに突き動かされるように、引き出しの奥の秘密の棚へ手を伸ばす。
震える指先で小さな引き出しを開けてみれば、そこにあるはずの通帳が消えていた。書類が消えていた。
関口栄太郎と刻まれていた、新しい通帳も消えていた。
「ごめんね晴貴……っ」
小さく叫んで、ばあちゃんが色鮮やかな訪問着の上に倒れこむ。
絹擦れの音が、やけに大きく聞こえた。紅色や桃色の牡丹の柄の上へ、すっかり痩せたばあちゃんの体が横たわる。
「ぅあああ!! 」
訳の判らない音が自分の口から叫んでる。
ガクガク震える足が、自分じゃない。
この現実が夢のようで。悪夢のようで。
耳に届く自分の叫び声で、夢じゃないと悟る。救急車を呼ばなくてはと、妙に冷静な自分が告げている事に気づく。
日常が、壊れた。
平凡が、壊れた。
それでも、世界は回っていくんだろうか。
泡だらけの手桶に前足を入れて遊ぶシンハが、ふいに顔を上げる。
緑色の目がまっすぐに俺を射抜いた。
「何だよ。言いたいことあるなら、ちゃっちゃと言いな」
「うん。シンハは、神苑で生まれた気なんだよね」
確か、玉獣という生き物は神苑で生まれる清らかな気だと聞いた。なら、知っているかもしれない。
湯桶の端に腕と顎を乗せて、シンハを見詰めた。
「じゃあ、魂ってのが存在すると仮定して」
「何度も生まれ変わってるダショーが言う言葉じゃなぇな」
「死んだら、魂はニライカナイへ行くのか? 」
「ニライカナイだ? 」
シンハは、鼻を鳴らして笑い飛ばした。
「ニライカナイなんてもんは、人間が作り出したもんだ」
「じゃあ、死んだら何処にいくんだ? 」
「だからさ。ダショーのハルルンが言うのか? 何度も生まれ変わってると証明されてるハルルンの方が知ってるだろ? 」
「俺の記憶は、全部思い出してないし。どれも順番も混乱してるし……ニライカナイらしき記憶はないし」
「そう。ないんだよ」
メレンゲのように前足についた泡の塊を吹き飛ばして、シンハは断言した。
「ニライカナイってのは、人間が考えた理想郷だ。行った奴にでもあったのか? 」
「あぁ」
ミントゥは「雲水様もニライカナイから来たの? 」と言った。「も」と。
あの子は、間違いなくニライカナイから来たんだろう。
そう頷くと、シンハは困ることなく返事をする。
「じゃあ、ニライカナイっていう地名だ」
「ニライカナイ通りとか、ニライカナイ村とか? 」
「だと思うぜ」
手桶の泡を吹き飛ばしながら、シンハは当然のように返事をする。
じゃあ、細胞が沸き立つこの感覚は何だろう。ニライカナイと口にする度に、ドキドキするこの気持ちは何だろう。
黙り込んだ俺を、緑の瞳が覗き込む。
「何だよ。さっきからシケた顔してると思ったら、死んだ奴の事思い出してたのか? 」
「俺を育ててくれた人達の事。ニライカナイが存在しないなら、みんなは何処にいるんだろう。何処に行ったのかな」
何を子どもみたいな事を口走っているんだろう。思わず零れた言葉に動揺してしまう。
俺はもう、じいちゃんとチェロに抱かれていた子どもではないのに。
なのに突然、胸の奥が熱くなって視界が滲んでしまう。固く目を閉じれば、残像のように色鮮やかな着物の上に倒れたばあちゃんが浮かんでしまう。
ツンと、鼻の奥が痛む。閉じた眼が潤む。目尻から涙が零れそうだ。おかしい。あの時、泣き尽くしたはずなのに。
慌てて湯を顔にかけて誤魔化すと、シンハは大きな舌で俺の目元を舐めた。
「死んだら、みんな帰るんだ。過去も未来も、一つに帰るんだ。だから大丈夫だ。いつかハルルンの大事な人達にも会えるさ」
「会えるかな」
「あぁ。みんな一つになるんだ」
大丈夫。
そう言いながら冷たい鼻先を俺の頬に寄せるシンハは、少し笑っていた。
当たり前の道理を小さな子供に言い含めるように、何度も「大丈夫」「安心しな」と繰り返し、繰り返し。
俺は鼻先を撫でながら、頷いた。
目から涙が滲み続けるのに、少し困ったが。
昼間の暑い空気を、夜風が吹き流していく。湯上りの肌に、心地よい涼しさだ。
風呂から出た俺がすっかり定位位置になった縁側に座ると、ミルが何も言わずに水差しと湯のみを持ってやってくる。
「ありがとう」
「いえ。今日は大変な日になってしまいました。ゆっくり休みましょう」
「うん。みんなのぶじ、判らなかったし。テリンはけがするし。大変だったね」
「本当に。でも、当座のお金を工面出来ましたし。これで良しといたしましょう」
「そうだね。まだ、先はながいね」
受け取った湯飲みから水を一口飲むと、ミルが遠い目をしていた。
今夜は細い月。明日は新月だろうか。
星明かりだけの深い闇。遠くに茂る神苑の木々を眺めながら、ミルは呟く。
「いつまで、続くんでしょうね……」
その言葉から響く、深い哀しみと諦めと孤独。
何も言わず、ミルの白い横顔を見詰める。
「物心ついてから、ずっとクマリを再興させる事を考えてきて。神苑の守り人の大連すら、どんどん死んでいって。家臣も何人も失って。本当に、本当に、みんな、どこにいるのでしょうね……」
夜風が、ミルの髪を撫でていく。
横で寝そべっていたシンハが、目を閉じたまま耳を立てる。揺れていた尻尾が、おとなしく丸まった。
「テリンはね、本当は絵師になりたかったんですよ」
「テリンが?! 」
思わず声を上げてしまうと、ミルは少し笑って頷く。
驚いた俺の顔を面白そうに見て、口元を緩ませた。
「まるで武人になる為に生まれてきたような、あのテリンが絵師になりたかったなんて。私も初めて聞いた時は信じられなくて、ハルキと同じように叫んでしまいました。おかしいですよね」
「絵師って、絵をかいていたの? 」
剣を持ったほうが様になる筋張った腕を思い出し、聞きなおしてしまう。
でも、声や雰囲気を思い出せば少し納得だ。知性を感じさせる落ち着いた声色は、絵師を志す若者を想像させるのに難しくない。
「一度だけ、若い頃に描いた絵を見せてもらいましたが……ふふ。あれでは周囲が止めるのも判ります」
「あぁ、そういう事か」
残酷な事に、本人が希望する才能を持って生まれる訳ではない。これが現実だ。
「本人は絵筆で生活したくとも、武術のほうが才能豊かだったようです。周囲も武人としての未来を望んで説得したらしいのですが、テリンの絵師に対する想いは熱かったらしいですよ。家を飛び出して北の大公国へいこうと計画するぐらい」
「テリンが家出を計画するなんて、余程に思いつめていたんだね。信じられない」
「えぇ。でも、そのうちに戦が始まって。エリドゥへ人質に出される私の護衛と守り役になったので絵どころではなくなってしまい……。テリンは、どれくらい長い間絵筆を握っていないのでしょう。絵筆を握れるまで、どれくらいかかるのでしょうね」
絵筆を握れるのは、戦が終わりクマリが復活してからだろう。それは、何時の事になるのだろう。
先がわからない。それはとても不安な事。
ゴールが判れば、全力で走れる。けど、そのゴールが何時になるか判らす、仲間も消えていくなんて、不安や孤独を感じずにはいられない。
細い月明かりだけじゃ、沈黙は辛すぎる。未来は見えない。
かなり記憶が錯綜してきます。
異世界の現在(作中の中心的なハルキが存在する『今』)。異世界の過去(ダショーとして生きた過去世)。そして日本で過ごした高校生時代。
三つの時間がここから入り乱れます。
作者の力量では,こうでしか描けませんでした(涙)。
ゴメンなさい。苦情受付中です。