31 それは秘密の攻防戦
焼け石を入れると、猛烈な水蒸気が風呂場に立ち込める。
「もう少し入れましょうか。ハルキ、熱いお湯が好みでしたね」
『すごいなぁ。ガスも電気もないのに風呂に入れるのかぁ』
「ハルキの家とは、かなり違うので勝手が判らないと思いますが、大丈夫ですか? 」
『大丈夫、かな。だいぶ昭和のニオイがするけど』
改めて風呂場を見て、考え込む。
巨大な木のタライのような湯船。大人が一人は入れそうだ。
そこには、生温かい湯がなみなみと注がれていた。寂れても宿場だけある。遠くの源泉から管を使い引き込む仕組みがあったらしい。それを一日で直したのだから、ミルの風呂に賭ける情熱が感じられる。
だから俺が一番風呂をもらっていいものか戸惑ったが、ミルはまだテリンと話があるようだ。
有り難くいただこう。
「着替えは、こちらに用意しておきました。単衣ですから着れると思いますが、大丈夫ですか? 」
『うん。大丈夫。「だいじょうぶ」。髭剃りとか、あるかな』
「こちらに。泡は、この包泡と青涼草の布袋を泡立てて使ってください。体もこれで。後は」
手際よく、隣の脱衣所に置かれた籐の籠の中身を説明していく。
湯上りの着物は、浴衣のようだ。旅館で着たことあるから、まぁ、大丈夫だろう。髭剃りは、床屋で使う本格的な剃刀だったが何とかなる。
お湯もいい具合に熱くなってきたのだろう。ランタンに照らされた風呂場が湯気に包まれていき、山奥の温泉宿に来たような雰囲気だ。
「何か困った事がありましたら、声をかけてくださいね。あら、シンハも入るの? 」
脱衣所から、不機嫌な緑の瞳が俺を睨んでいる。
こいつ、まだ機嫌が悪いらしい。
昼間、テリンが目覚めた時に俺が洗濯物を放棄して帰ってしまった。
ボレロの唄を聴きそびれ、結果的に洗濯をさせられ、重たいタライを引きずって夕方に帰ってきたシンハは、俺を睨むだけで喋る事もない。
あれだけ饒舌だった奴が喋らないのは、気味が悪い。
そりゃ、悪い事したなとは思う。でも、しかたなかったし。そこまで怒らなくてもいいのにと、思うわけで。
のっそりと風呂場に入ってざら板に座るシンハに、ミルは笑いかけた。
「シンハは本当にハルキが好きなのね。二人でゆっくり入って下さいね」
『こ、こいつも一緒に?! 』
思わず非難の声を上げると、ミルは当然と頷いた。
『だって、ミルの玉獣の雷光は影に入ったきり出てこないじゃないか。こいつ厚かましい』
「雷光は、強いシンハがいるから影に入っているのです。だって、雷光よりシンハの方が強いんですもの。それに、「ハルキ、きけんある。だから、シンハ、かげにならない。そばにいる。そこは、ありがとうです。そんなにいや、しない』」
自分の味方だと判るんだろう。シンハは、ミルの太ももに頬を擦り付ける。
ゆ、許せん。
大人気なく嫉妬の視線を向けると、シンハは鼻で笑う。
怒りのあまり言葉を失ううちに、ミルはシンハの頭を撫でて「ごゆっくり」と、出て行ってしまった。
「あの姫さんはいい子だな。ハルルンとはえらい違いだぜ」
『そりゃ悪かったな』
ペットの小型犬をわが子同然で育ててる大石先生が、風呂も抱っこで入れてやってると話していたな。
ふと職場の同僚の話を思い出して、深くため息をついてシャツを脱ぐ。ベルトを外す。服を脱いでいく。
ペットを飼った経験がない俺からすれば、異次元の話と思っていたが。まさか本当に異世界へ行ってソレをやる羽目になろうとは。しかも、相手はライオン並みの大型獣だ。空飛ぶ獣だ。
人生、何があるかわからないもんだ。
布袋を泡立て、適当にシンハに撫で付けてやる。俺は俺で頭っからつま先まで、入念に洗う。
おっかなびっくりだったが、ヒゲも剃る。うん、さっぱりだ。
木桶で湯を汲んで、床に落ちた泡で遊んでいるシンハにも不意打ちでかけてやる。泡が流れてしまい盛大に文句を言ってきたが、気にしない気にしない。
俺も頭から湯を浴び、清涼感に大満足。泡の布袋に入れた香草の香りだろうか。爽やかな香りが全身から漂い心地よい。
さて、濡れた顔を拭おう。
濡れた前髪をかき上げ、引き戸を開ける。
確か脱衣所の籐籠の中に手ぬぐいがあったはずだ。
手触りの良い布を探し当て、引っ張り出す。
ちょうどフェイスタオルほど幅の白い布で顔を拭き、髪を軽く拭き、勢いよくタライ湯船へ身を浸す。
あぁ、気持ちいい。極楽極楽。
思わず声を出して幸せに浸っていると、シンハが緑の目を見開いて俺を見ている。
「ハルルンは異世界の人間だから、少々変わっていると思ってたけどさぁ」
『何だよ』
「ハルルンの国では、下帯で顔を拭く風習があるのか?」
俺は、シンハの言葉の意味が判らずに固まる。
いや、意味は判った。けど、思考回路が焼き切れる寸前になった。
「この世界じゃあ、人間が股間に巻きつけてる布だぜ? おいらは、それで顔は拭きたくないけどさ」
下帯。下帯。それって、言い換えると、ふんどし? あの、尻が見える、古来からの伝統下着の、アレか?
俺は、ゆっくりと手の中にある布を観察した。
何度も洗いこまれた、柔らかい繊維の布。厚くもなく、薄すぎる事もなく、使い勝手のよさそな、何の変哲もない布。
立ち上がり、布を湯につけないよう、慎重に広げていく。
俺の身長の倍程の、長い布。これだけの長さの布を、着替えのセットに入れておく理由を考える。
バスタオルのように体を拭く為?
否。答えは明白だ。
『------っ! 』
俺、顔拭いた。髪も拭いた。
声にならない悲鳴。なんてことだ。なんたることだ。
さっきまでの爽快感が、一気に生理的嫌悪感に変わる。
「いやぁ。驚いたなぁ。下帯も知らねぇのかぁ」
『知ってたら早く教えてくれっ』
慌てて湯船から飛び出し、下帯を放り出して顔を何度もすすぐ。頭ももう一度洗いなおす。
この宿の残っていた古着でも、綺麗なものを用意してくれたと思う。綺麗に洗いなおしてくれたものだろう。ミルは、そういう心配りをする子だ。
あの下帯は決して汚いものではないだろう。そう判っていても、清めるような気持ち。
俺の慌てぶりが面白いのか、シンハは床を叩くように尻尾を揺らして水しぶきを上げている。
「そうかそうか。じゃあ、下帯の締め方なんか知らないよなぁ」
『知る訳ないだろっ』
「教えてやろうか? 」
思わず、振り返る。
雫の向こうに見えるシンハが、輝いて見える。
生意気な大型獣は、緑の瞳をキラキラさせて言い放った。
「まず一つ。ボレボレの唄、唄ってくれること」
『……』
思わず黙り込んだ俺に、千切れんばかりに尻尾を振って要求を続ける。
「も一つ。おいらに対する今までの扱いを変えてくれるなら、下帯の締め方を教えてやるよ」
『今までの扱いって何さ』
「モノを頼む時はお願いします。間違ったらごめんなさい。これ常識だろ。獣扱いすんなってことだ」
獣を獣扱いして、何が悪い。
黙り込んだ俺に、鼻の頭に皺を寄せて牙を見せた。まるで凶悪な笑顔。
「別に教えなくてもいいんだけどな。そしたら、ハルルンは下帯つけないままで過ごす事になるんだぜ。それとも、さっきの汚れた異世界の下帯、また穿くのか? 」
『よ、汚れた下着なんか穿くか! 』
思わず言い返してしまい、唇をかみ締めた。
そうだ。争うまでもない。
この長い布を股間に巻きつける術を俺は知らないのだ。
プライドを取って拒否すれば、俺はこの世界で下着を身に着けずに生活する事になる
かといって、穢れないミルに下帯の装着方法の教えを請う事も出来ず。まだ面識のないテリンにお願いするのも、恥ずかしすぎる。
たかが下着。されど下帯。
激情を押し殺し、素っ裸な俺は流し場に突っ伏して肩を震わせた。
敗北だ。
「随分と仲が良くなりましたね」
『……色々あってね』
縁側で延々と唄を唄う俺に、ミルは盆に水差しに湯飲みを持ってきた。
湯上りに星を見上げて、ボレロとトルコ行進曲、桃太郎に浦島太郎と金太郎の唄までオンパレード。
深い夜の森の暗闇から、玉獣達のあげる喜びの咆哮が夜空へ消えていく。
「ほら、あの唄も聴きたいです。車の中でよく流していた曲」
『あぁ、昔の映画のサントラ集のかな』
ミルの肌から漂う甘い香りに、少しうっとりする。
足元でまどろんでいたシンハが、尻尾で俺を打つが気にならない。
浴衣のミルは、とても綺麗だ。
差し出された水を一口飲んで、俺は往年の名曲を口ずさむ。
異世界の月と超新星を見上げながらの宴は、まだまだ続きそうだ。
え,えと……お馬鹿なお話ですみません(汗)。
私の密かな疑問だった『異世界で異文化に戸惑う主人公が,下着を身につけるという恥ずかしい問題をどうやって解決しているんだろう』というお話です。
だって,絶対に一悶着起こしてる問題だと思うんですが(笑)。
人に聞くに聞きにくすぎる問題ですもん。
ちなみに……下帯で顔を拭いてしまうというのは,私の実体験です(爆)。
お願いですー洗面所の横に,鏡の横に綺麗に伸ばして干しておかないで下さい(涙)。いや,本当に,凄い体験してるなぁ,私(失笑)。役に立てたけどさ。
基本は毎週 水曜日に更新していく予定です。よろしくお願いします。




