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見下ろすループは青  作者: 木村薫
30/186

 30 敵か味方か

 「なぁ、ボレボレの歌」

 『そんな気分じゃないよ』

 「昨日助けてやった時に約束したじゃねぇかっ」

 『覚えてない』

 「約束したんじゃボケェ」


 水を含んだ洗濯物を積み上げたタライは、ひどく重い。

 フラフラと歩きながら、シンハの催促に適当に答える。シンハが俺の脚を尻尾で軽く叩くと、まだ濡れたスラックスから水しぶきがはねる。

 空高く昇った陽の位置と腹の空き具合からして、もうすぐ昼だろうか。

 俺の記憶は、酷く曖昧だ。

 ハルンツの記憶が僅かに蘇った。けど多分、生前に印象深かった場面や感情、日常で見ていた光景を思い出したに過ぎない。

 蜘蛛使いが怖い記憶があっても、蜘蛛の糸が怖くても、具体的な訳が判らない。何で束縛されなくちゃいけないのか。その理由が思い出せない。

 その時の感情も、凍りつき気絶して楽になりたいような、深淵(しんえん)で俺の魂に対して行われていた壮絶な恐怖の断片しかない。

 一体、俺の過去世に何があったんだろう。深淵(しんえん)の神殿で、何が起こっていたんだろう。

 重要なポイントだと思うのに、思い出そうとすると恐怖が邪魔をする。

 しかし……俺の蜘蛛嫌い、まさか過去世が原因だったとは思ってもいなかった。


 『何がどうなってるんだかな……』

 「ボレボレー! ボレボレを唄ってくれよぉ」


 テリンは、何者なんだろう。ミルの知り合いなのは間違いないのだけれども、どういう人物なんだろう。深淵(しんえん)と関係があるんだろうか?

 湧き出す疑問。思い出せないもどかしさ。深いため息をついていると、足が軽く叩かれる。

 ボレロ禁断症状でも出てきているのか、シンハは尻尾を足に打ち付けていた。まったく。

 しょうがない。唄ってやるか。

 もったいぶって思った時、慌しい足音に気づく。思わずシンハを見ると、涙ぐんだ緑の瞳で俺を凝視しているままだ。相手は危険ではないのか。

 

 「ハルキ、ハルキ! 」


 木陰から駆けてきたのはミルだった。

 掃除の途中だったのだろう。汚れた雑巾を握り締めて全速力で駆けてきた。


 「目覚めました! テリンが起きました! 今すぐ癒しの唄を唄ってください! 『うた、うたって! はやくきて! 』」

 

 テリンがどうして俺を捕らえようとしたのか。それは判らないけど。

 助ける事が危険につながるかもしれないけれど。

 ミルがそれほど慌てる程に大切に思っている人物ならば。

 俺はタライをその場に置いて、ミルに向かって全速力で駆け出した。


 「おいっ。こんな所にタライ置いてどーすんだよっ。つーっか、ボレボレ唄えってんだ! このボケェ! 」


 シンハの哀しみの絶叫を背中で聞き流し、サンダルを踏みしめて走る。

 周辺で牧場で寝そべる牛のようにまどろむ玉獣達が、何事かと顔を上げていく。その中を全速疾走。

 開け放たれた板間の窓から、サンダルを跳ね飛ばして部屋に飛び込む。

 ミルは、土間へ入って、ブーツを脱ぐのに手間取ってている。その間に、薄い布団の上で横になっているテリンの側へ走り寄る。

 乱暴な俺の足音に気づいたのだろう。テリンの目がうっすらと開いていく。

 ミルと同じ茶色交じりの青い瞳には、戸惑いが浮かんでいた。でも、その戸惑いという影を知性の光で隠した。

 まるで、じいちゃんみたいだ。

 まだ中年の、そう、生きていたら俺の父親ぐらいの年齢に見えるテリンに対し、俺は死んだじいちゃんを思い出していた。


 「うぅ……あぁ……」

 「だいじょうぶ。だいじょうぶ。はなす、ない。『ミル! 水を用意してあげて!』」

 「はい! 」


 俺の姿を確認した途端、起き上がろうとするテリンの上半身を押さえつける。

 全身打撲のアザだらけ、所々に浅く深く傷もある体のどこに、起き上がる力があるんだろう。

 

 「だいじょうぶ。『今から、唄いますから。だから、大きく息を吸って。落ち着いて下さい。俺は、貴方を助けますから』」


 ミルの大事な仲間なのなら。

 俺自身の息も整え、意識をテリンの中へと向ける。

 俺を捕らえようとしたとしても。ミルが安心するのなら。





 それからテリンが目覚めたのは、日が暮れてからだった。

 植物性らしい油を入れたカンテラ状の明かりを灯し、囲炉裏の鍋から雑炊の甘い香りが漂った頃に、テリンは目を覚ました。

 そして俺と目が合った途端、唐突に布団から飛び起きて板間の端まで走る。

 時代劇の後半山場を生で見ている気分だ。

 事件を解決しようとしている人物が、じつは身を隠した高貴な人物だったという、あのお決まりパターン。俺は貧乏旗本の三男坊でも、全国縦断の旅の最中の副将軍でもないんだけどな。


 「テリン。そんなに遠くては会話が出来ませんよ。本調子ではないのですから、横になりなさい」

 「ダショー様を前に横になるなど! そ、そんな失礼な事はっ」

 「ハルキ様の世界では、身分が無くそのような平伏に慣れておりません。却って恐縮されますよ」

 「身分がない?! 」 

 「ハルキ様は、お優しい方です。安心なさい」


 ミルとテリンの高速異世界語の会話が、まだ聞き取れにくい。

 板間の端で頭を床にくっつけて土下座しているテリンの様子に、思わずあの光景を思い出して呟く。


 『そういえばミルは唄の後で起きた時は、同じ様子で走り出してガラスに顔面強打したんだよなぁ』

 『ダショー、だいじ。だからとおくはなれて、おじぎするからはしった。ガラス、しらなかった。これ以上、いわない』


 簡潔に、そして強引な終了宣言。

 思わずミルの顔を振り返ると、凍りついた無表情の顔の中、ギラギラと輝く茶色交じりの青い瞳が睨みつけた。

 よほどの失態なんだろうか。消し去りたい過去の失敗なんだろうか。俺は、本能で首を激しく縦に振っていた。

 ミルは、本気を出すととてつもなく怖い。ここ数日の緊迫した場面を思い出せば明らかだ。

 俺の従順な姿勢を確認して、ミルは頭を下げたままのテリンに寄り添い上着を肩にかけた。


 『テリン、大連(おおむらじ)のひとつ (はつゐ)家の南分家のうまれ。わたしのせんせい。うたも、けんも、テリンにおしえてもらった』

 『ミルの先生?! 』

 「お初に御目にかかります。(はつゐ)南分家のテリンと申します。こちらへのご帰還、真に有り難く……われらの姫宮にも寛大なお心を砕いて頂き恐縮の極み。その上、この老いぼれの命を助けていただいた事、一生の大恩。このテリン、ダショー様に一生御仕えいたしまする」

 

 何だか、話す言葉に酷く癖があってよく判らない。ここ数日水分を取っていなかったのだろう。掠れて弱弱しい声だったが、低く落ち着いた声色だ。

 姿勢を正して、正座でペコリとお辞儀をした。

 ミルの先生なら、大事な人だ。


 『関口……「せきぐち はるき いう」。関口晴貴と申します。まだ記憶が曖昧なのであまり役には立ちませんが、よろしくお願いします』

 「ダショー様は、あちらの世界で関口晴貴と名乗っていました。ハルキ様と、お呼びしています。あちらでは子供達に文学や器楽を教えていらっしゃいました。テリンと、少し似ていますよ」

 「何と……では、本当に姫宮様は異世界に行かれたのですな! 」

 「ハルキ様とご一緒なのですから当然ですよ。異世界で何も判らない私に、言葉も生活の仕方も教えてくださいました。あちらでは半年ほど経っていましたが……私が異世界へ行ってから、どれだけの時間が経っているのですか?」

 「半年も異世界でお過ごしになったと? 恥ずかしながら拙者、深淵の者どもに捕らえられてから時間が曖昧ですが……恐らく七日ほどかと」

 「そう……。やはりそれぐらいですか。では、他の者達の行方も判りませんか」

 「申し訳ござらぬ」


 二人の間に、深い哀しみの空気が流れる。

 他に、どれだけの仲間がいたのだろう。天鼓の泉で見た後李帝国の空飛ぶ軍艦群に、どれだけの人数で挑んだのだろう。玉獣がどれだけ強いか知らないが、クマリが火薬を使わないのなら鎌倉武士とモンゴル帝国の元寇と大差ないんじゃないだろうか。ミルと最初に出会った時、肩に毒矢を受けていた状態だった。身に着けていた大小の刀と大黒丸(だいこくまる)。あれで、鋼の軍艦に立ち向かったのなら勝ち目などないだろう。

 惨敗、か。


 『とにかく、ゆっくり休もう。テリンの怪我は治ったけど、まだ体力が戻ってないし。その間に、他の人たちと連絡を取ろう。もう一度、態勢を整えよう』

 「そう……そうですね」

 「姫宮様、ハルキ様は何と」

 「テリンの体力を回復させようと。ゆっくり休み、クマリの態勢を整えましょうと、そう仰っているのです」

 「おぉ。なんと……ではハルキ様は、ダショー様はクマリの旗頭となって下さるのですな」


 テリンは、決して俺と視線を合わせようとしない。

 それは、ダショーという存在に恐れを抱いているからか。敬意を表しているのか。

 それとも。怪我を癒したばかりの胸の中に、深淵への思いがあるからか。俺への罪悪感があるからか。

 蜘蛛使い。深淵(しんえん)の束縛を図る者。テリン、あんたは何を考えてるんだ。

 部屋の端でミルとテリンが高速で異世界語で会話するのを見つめながら、ふとミルから離れた距離を思う。

 ミルの師匠というテリン。ミルは大事な仲間なんだろう。けど、俺にとっては不安そのものだ。

 その正体も。その存在も。俺を縛る敵なのか。ミルを奪う障害か。


 「しかし、ハルキ様はまだ言葉が違いますな。まさに異世界で生まれ育った証拠ですが」

 「しかたありません。でも、今日で三日目ですが聞く耳は大分出来ていますよ。私は一月はかかったのですが」

 「そうでしょうな。姫宮様は深淵(しんえん)言葉を覚えるのすら、大分遅かったですからな」

 「それは秘密ですっ。テリンしか知らない事にしておいて下さいよ」


 楽しそうな二人の会話に深淵(しんえん)の単語を聞きつけて、思わず反応する。

 途端に、ミルが真っ赤な顔になっていく。


 「おそかった……? 深淵(しんえん)このは? それは何? 」

 『かんけいないっ。ないしょ、ひみつ、ひみつです! 』

 「大丈夫ですよ。テリンは、姫宮様が七つになっても布団を濡らしていたなど言いませぬ」

 「テ、テリン!」

 『七つ、濡らす? まさかミル、七つになってもおねしょ』

 『ないしょですー! 「これ以上話さないで! 」ひみつですー! 』


 耳まで真っ赤で湯気が出そうなミルが、両手を伸ばして俺を耳を塞ぎ、そんなドタバタな様を見たテリンが笑い出し咳き込む。

 慌てて茶碗を差し出す俺に、テリンは笑いすぎて涙を浮かべた目を向けた。

 深い知性を見せていた目が茶目っ気たっぷりに笑いかける。

 この人は一体、何者なんだろう。

 敵か、味方か。 

 




 

 

 

 

 



 

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