3 宙駆ける獣
白い珊瑚の砂浜。打ち寄せる波の音。 鼻先を掠める青々とした香りと潮のニオイ。見上げる入道雲。金色の瞳。漆黒の刀身。広がる波紋。零れ落ちる雫。
「関口! 」
「……っ」
腕を強く揺さぶられ、現実に引き戻される。
目に飛び込む惨状に、どちらが現実か迷う感覚。思わず額を押さえる。
今見たのは、何なんだ。瞬く光のように見えたアレは、何なんだ。
「大丈夫か? 」
「あぁ……」
正直、大丈夫ではない。さっきから、何かおかしい。飛び散るガラスの破片を水に変化させた事も信じられない。
今までの俺は、モノを動かしたり繋げたりは出来た。でも、物質の粒子の配列を変えさせる事なんて出来なかった。明らかに、レベルアップしてる。それに、さっきから頭にフラッシュしてくる光景。どれも鮮明で見たことのない光景のはずなのに、心の柔らかい部分を締め付けられる。堪らなく、いとおしく懐かしい感覚に捕らわれそうになる。
どうなってるんだ、俺は。
「みなさん、お怪我はありませんか? こちらに避難くださいー! 」
ようやく店のスタッフが正気に戻ったんだろう。幾人ものホールスタッフが、慌ただしくお客の誘導を始める。
「火事かよ」「ガス爆発かな」「事故? 事件? 」
そんな言葉を零しながら、ずぶぬれの人々が去っていく。誰もガラスが水に変化した事を追及してこないのは幸いだ。
そりゃそうだ。非科学的。根拠のないこと。それでも、直前に声を出したからだろう。明らかに俺が何かをしたと、疑い気味悪がる視線を感じる。
「お客さま、こちらへ避難を」
「ちょっと待て……逃げるなら、裏口に誘導しなきゃ駄目だ」
誘導をしようと駆け寄るスタッフに、思わず零していた。
途端、周りの空気が変る。不安を形にしてしまった俺に、一歩引かれる雰囲気が漂いだす。
何故だろう。満員電車に吐きそうな人がいると、どんなに満員でも直径一メートルの空間が出来上がる。本能で危険から遠ざかろうという仕草。あれに似ている。
一メートルの中心は俺だ。危険人物。不吉な出来事を予言していく不審人物。
自分でもわかっている。こんな事を言わずに、黙って逃げればいい。でも、危険が差し迫っているのを感じながら無視は出来ない。
不快な大音響は、確実にクライマックスに向けて加速している。フォルテ、フォルティシモ、フォルティシシモ!
「建物の裏に行ける階段がいい。表に出ちゃ駄目だ」
「しかしですね、非常時の規則では」
「マニュアルなんていいだろ! どうせフロアに誘導されても、避難する人が多くて動けなくなるぞ。早くここから出れる階段へ誘導しろ! 」
野球部顧問の水野の一喝に、辺りのスタッフが痙攣した。迫力ある喝に、周りの客のブーンイング。慌てて厨房への通路が開かれていく。
水野の日焼けした手が、俺のリュックも掴む。避難する人の最後尾に並ぼうと歩き出す。
その途端だった。
夕焼けの赤い光を、何かが遮った。十二階の壁の向こうを、何かが飛び去った。
その異変に、店内に残った僅かな人が立ち止まる。恐怖ではなく、ありえないものを見定める為に。人間というものは、かなり好奇心が強いというコト。
震えるように互いの身を寄せ合いながら、吹き抜け状態でビル風が舞い込む壁の穴に近づいていく。
その光景に、首筋の毛が逆立っていく。思わず、傍らで動き出した水野のスラックスの裾を掴んだ。
「……行くな……」
「関口? お前、真っ青だぞ」
「来る。何か、来る……そっちに行くな! 」
俺にしか聞こえない不快なオーケストラは、鼓膜を限界まで震わしていた。噴水広場の異変は続いている。何か、起きている。
動揺しまくった頭と足を奮い立たせ立ち上がる。同時、生臭いニオイの風が舞い込んだ。
風と共に、壁面に現れたのは馬ほどもある動物らしき獣。
十二階に、浮かんでいる。空を翔るように移動していく。その太く逞しい四肢には大きな爪。茶やら黒やらの長い体毛に覆われた体は虎のようにしなやかで。左右でいびつに大きさが違う目には、野生の獣の光を宿して。ある獣は歪んだ角を勇ましくのせている。
一頭ではない。まるでパラパラ漫画のように、次々と獣が飛んでいく。
ありえない絶景に、空気が固まる。
「う、うわぁぁあ! 」
誰のかも判らない絶叫が、凍りついた時間を砕かせる。
悠々と飛んでいた獣達の数頭が、宙を蹴る足を止める。ドミノのように、次々と頭を向きをビルの中に向ける。獲物を見つけた獣の獰猛さを撒き散らし、咆哮と同時に俺たち目掛けて駆けてくる。
悲鳴と絶叫がパニックを起こす。
それまで固まっていたと思えない動きで、厨房へ向けて人々は走り出す。
水野が馬鹿力で二の腕を引っ張ってくる。それを振りほどき、息を吸い込む。
俺は、何をしようとしてる?
冷静に、そう考えている自分を感じながら喉から音を響かせていた。
『 耳を傾けよ 吾らが父なるエンが 母なるナンムが囁く言葉に 』
その音を、知っている。
この旋律を知っている。
この感覚を知っている。
体の粒子が騒ぎ出す。まとう空気が、動き出す。巻き上がる風に、自分の中で動き出す、俺が知らない意思を感じていた。
『 全てを包み込む風よ そなたは美しい この世を駆け巡る風よ その最も強い力よ 』
真っ赤な口を見せて駆けてくる獣を見据え、唄う。巻き上がった風は、辺り一体の空気を全て巻き込む勢いで空気の壁を作り上げる。鋭い突風が獣達に向かって吹き荒れる。
『 吾らを護れ 』
まるでガラスに激突した雀のように、巻き上がった風の壁とぶつかると獣達は音もなく下へ落下していった。
まるで殺虫剤をかけた虫の最後のよう。そう思えるほどのあっけなさ。
そのありえない光景に立ち尽くす水野の手を引っ張る。ここが危険なのは変らない。
「階段どこ?! 早く誘導して! 」
「は、はは、はいっ」
訳の分からないまま、スタッフが機械仕掛けの人形のように厨房へ走り出す。その姿に、居残った人々が小走りに動き出していく。
頭は動かなくとも、体は動くのだろう。呆然とした顔のまま、導かれるまま動く。すでにフロアから悲鳴と絶叫が聞こえる。
厨房の冷蔵庫の前を通り、ダンボールの積み上げられた狭い通路を走り抜けると、関係者用らしき階段が現れた。
無言のまま吸い込まれるように駆け下りていく人々。その流れに水野を押しやる。
「裏通りを使って逃げろ。出来るだけすぐ地下鉄に飛び込んでそんまま帰れ! 」
「帰れる訳ねーだろ! 」
人波に逆らって階段を駆け上がろうとする俺に、水野の罵声がかけられる。
誰も止めない。我さきへの混乱の中、水野は駆け下りる人波に逆らいつつ俺の手を掴む。
「どこ行くんだ」
「屋上。確かめたいんだ」
「馬鹿かお前」
率直な水野の意見に苦笑しながら、階段を上へと駆け上がる。
本当に、馬鹿だ。命が危険に晒されるだろう状況なのに何をやっているんだろう。そう叫ぶ頭の中の声に頷く俺。
反面、細胞から湧き上がる衝動に体は突き動かされていた。確かめなければ。この目で見てみなければ。きっと、この騒動と無関係ではない。確信していた。
何故、いきなり自分の力が変化したのか。脳裏にフラッシュされる光景は何か。
狭い階段を数階駆け上がると、ドアに当たった。屋上だ。
「クソッ。鍵かかってるぞ。どうする」
「ぶち開ける。下がれ」
水野が背後に下がったのを確認して、ドアノブに手をかざす。鋭く吹いた口笛は、再び風を巻き起こした。アルミの安っぽい扉が紙粘土のように凹んで弾き飛ばされていく。
「すげ」
「なんだこりゃ」
目の前に広がった光景に、間抜けた感嘆詞しか出てこない。
夕焼けで赤く染まるビルの谷間を、何十頭もの獣が宙を駆けあがっていく。風と悲鳴を巻き起こし、飛び舞っている。
危険も忘れて、俺たちは屋上に飛び出る。ある意味幻想的な光景に飲み込まれていた。
無機質で人工的なビルという森に、ありえない進化を遂げた動物らしきものが空を飛んでいる。
さらに吹く風に乗って、半透明な小人が飛んでいる。長い髪をなびかせて、中性的な細い顔に微笑みをうかべて飛んでいる。幾人もの小人が俺の周りを回り、笑い声を立てている。
妖精か? だとしたら、俺、妖精まで見えるようになったのか?




