26 死神の気配
他の玉獣より、一回りは体が大きな玉獣が俺達の前へ歩む。
獅子のようなたてがみをなびかせ、両肩の筋肉を美しく動かし、深淵の男達に向かって低く唸る。
深淵の男達は、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。辺りを囲う玉獣は、牙をむき出し爪を出し、今にも襲い掛からんとしている。
「吾が名と息吹をもって、契約を施行する! 吾が名は昴 ミル! 」
男達が怯んだ瞬間だった。
ミルは素早く、ポケットから取り出した二つの小さな珠に息を吹きかけ宙へ放った。
虹色の光を零す真珠のようなモノが、宙で弾ける。
それは、物理で説明できない光景。炎の竜が飛び出し、吹き荒れる風にのって男達へと襲い掛かった。熱風が頬を撫でていく。肌を焼く熱さで、夢のような光景が現実味を持つ。
「雷光! 」
ミルの叫びに、宙を翔けて麒麟が走り飛んでくる。どこかで呼ばれるのを待っていたんだろう。その忠臣の背に二人がかりで手負いのテリンを乗せる。
ミルも素早く雷光に跨り、俺は肺一杯に息を吸い込む。欄干に足を乗せて風の唄を唄おうとした途端、最前列で威嚇していた玉獣が俺の横へ駆け寄る。
神社の前に置かれた狛犬。ある意味デフォルメされた狛犬を、リアルにさせた動物。で、虎なみにデカくした玉獣に鋭い爪を隠し僅かに前足を折り、恭しく頭を下げられる。その行為に浮かぶ一つの言葉。
『……乗れってことか? 』
思わず口にすると緑の瞳が瞬き、濡れた鼻先が動く。
早く乗れよ。
そんな声が聞こえ、手を引かれるように金色の肢体に跨る。ライオンより大きなコイツは、燃える炎のように長い体毛を逆立て吼えた。背後で絶叫を上げる男達への宣言のように轟かす。
天罰だ。
そう聞こえた。
「行きましょう! 雷光、先達を! 」
『お、うわっ』
ミルの一声で、跨った玉獣も宙へ飛び出す。
いきなり足元に広がった樹海の絶景に、手元のたてがみを思いっきり引っ張りしがみついた。
低い唸り声を上げられたが、俺は手を緩める余裕なんかない。
昨日のようなジェットコースターな逃避行の始まりに、生唾を飲んで覚悟を決めた。
ミルと、この新しい玉獣に全てを任せるほかは、ない。
薬くさいのに微かにトイレの悪臭が混ざった病院の空気が、嫌いだった。
白く塗られた壁も、常に拭き掃除がされて清潔なはずなのに薄汚れた印象がある床も、嫌いだった。
真っ白で糊が張りすぎたシーツも嫌いだった。
小さな窓では、空が見えない。風を感じる事も出来ない。音といえば、誰かの生存を主張する心拍数の音。それと、何かの終了を告げるタイマーの電子音。
こんなんだから、じいちゃんは具合が悪いんだ。
柔らかなお気に入りのシャツに身を包んで、心地よい風が吹く空の下で、大好きなチェロの音で満たしてあげれば、きっと癌も治るに違いない。
そう思ったんだ。
あぁ、俺は夢を見ているんだな。
意識が二つ。
夢を自覚している俺と、じいちゃんが亡くなる前の、うろたえた俺がいる。高校三年生の、夏服を着た自分。
俺と、ばあちゃんは悩んでいた。
俺の不可解な能力を使えば、癌は治るかもしれない。確信はないけど、それで治るなら使いたい。じいちゃんが使うなと言っていた能力だけど、それで治るなら使いたい。
ばあちゃんも、そう思っていたようだった。けど、じいちゃんの意思を尊重していた。あと、俺の安全を。息子夫婦の忘れ形見の孫の俺の身を案じていた。
何度も、何度も相談した。日々、やせ細っていく姿を見て奥歯をかみ締めていた。僅かずつだが確実に侵食してくる絶望に、気力を削られていた。
「唄は唄わない。でも、せめて大好きなチェロは聴かせてあげたい」
悩んだ末に、出した結論。
学校から帰宅して、着替える間も惜しくチェロを担いでばあちゃんと病院へ急いだ。何故だか一刻を争う気がして、タクシーの運転手を急かして。
そして慌ただしく陰気臭いエレベーターを降りた途端、そこに死神がいた。
梅雨が明けたばかりの暑い日だというのに、黒のシャツに短めのタイトスカートに身を包んだ中年の女性。
じいちゃんが倒れてから初めて顔をあわせるようになった、じいちゃんの弟の娘という人が、立っていた。
汗でも滲まないだろう分厚い化粧が塗られた顔が、大きく歪んでいる。悲しみと慎みという仮面を大急ぎで被せた表情の奥で、嘲りの感情が揺らめいている。
「死んだわよ」
ほんの数秒なのに、とても長く終わりないような感覚だった。
ポーンと事務的な電子音と共に、扉が閉まっていく。
動けない俺とばあちゃんの前で、扉が閉まっていく。
ようやく、動くものを見て言葉の意味が染みていく。
死んだのだ。じいちゃんは、死んだのだ。
慌てて、エレベータのボタンを押してドアを開ける。
「さっき、死んだわよ。何担いできてんのよ。そんなんだから死に目に会えなかったのよ。馬鹿じゃないの」
さっきと一寸変らず姿勢で、抑揚なく、突き刺さる言葉を発した。
何故、何故、俺達は哀れみを装った視線を送られなくてはいけないんだ。
何故、遺産目当てに急に現れた親戚にこんな事を言われなくてはいけないんだ。
何故、こんな女に看取られて、じいちゃんは死ななくてはいけないんだ。
世の中というのは、非常に、理解しがたく、絶望に満ちている。
なんて非情で、不可解なんだろう。
ばあちゃんが嗚咽を押し殺すように呻いて座り込むのを、視界の端っこで眺めていた。
再び閉まっていくエレベーターの扉を、俺は呆然と眺めていた。
扉に隠れていく中年女性の姿をした死神を、呆然と眺めていた。
全身の力が抜けていく。
死神というものは、存在する。死と絶望と嘆きを連れてくる死神は、存在する。
大鎌を持っていなくても、ねずみ男のような黒いローブを纏っていなくとも、そこらに存在するのだ。
扉の前に現れたあの女は、死神だ。
「とりあえず薬草もつけたし、これ以上は見守るしかありませんね……ハルキ?」
ミルの言葉に、慌てて顔を上げる。機械的に動かしていた手によって、すり鉢の中の薬草が跡形もなくペーストになっていた。
「大丈夫ですか? 何だか、元気がありませんが……『ハルキ、まだ気持ち悪い? 』」
『あ、あぁ……うん大丈夫。うん、「だいじょうぶ」』
何となく憶えた言葉で返すと、心配げなミルの顔が綻ぶ。
ようやく嬉しそうな表情を見せた事に安堵しながらも、俺は別の事を考えていた。
満身創痍のテリンを見ていたら、何故かじいちゃんの死に際の事を思い出していたようだ。
思い出したくもない、あの死神。忌々しいあの女の記憶が出てきた事に気が滅入る。まったく。
今頃、あんな事を思い出してしまうなんて。余程、疲れが溜まっているのだろう。
そうでなかったら、すり潰したこの薬草が消毒薬のニオイと似てるから、だ。
『テリンさん、助かるかな』
『たすける。かならず』
『そうだな。必ず、助けよう』
病院もないこの世界で、どうやって重傷の人間を助けるというんだろう。
無責任な奴だな。そう言う水野の言葉が聞こえる気がした。あぁ、でも、希望を口にしないと、絶望に喰われそうになるんだよ。
深淵の神官達から逃げて、俺達は森の中に佇む古い木造の建物に倒れこむようにたどり着いた。
まるで江戸時代の旅籠のようだと言ったら、ミルに頷かれて驚いた。
なんでも、後李帝国と国交があった時に使われた街道の宿泊施設らしい。大きな間取り、大きな竈、住居にしては高い天井。
戦が始まった十年前までは使われていたらしい。そうミルが解説しながら、すばやくブーツを脱いで奥へ入っていくのには驚いた。
埃とカビくさい布団を引っ張り出し、窓を全開にしてタンスを物色して、大きな樽を転がし裏へと飛び出していく。
俺といえば、例の玉獣酔いでへばっていた。板間に横にされたテリンの横で座り込んでいた。
ミルは、たった一人で水を汲み生活空間の確保に働き、両手に薬草を抱えて戻ってきた。例の赤い木の実を齧ってから、俺はミルの手伝いを慌てて申し出たのだけれども。
あぁ、情けない事この上ない。
「今日はここで休みましょう。僅かですが、米がありました。今から脱穀して食べられる分を用意しましょう」
『ここで、休めるのか? あぁ、なら、食べ物を集めてこようか』
何となく、ミルの言っている異世界語を理解して返事をする。さっき、『ハルンツ』の記憶を本格的に思い出したからだろうか。それに日本にいた時からミルの言葉を聴いて異世界語に馴染んでいたから、聴き取る耳は出来ていたのだろう。超スピードで洋画を字幕なしで聴き取っている感覚で、曖昧に大体な感覚で、少しだけ理解出来るようになっていた事にさっきの騒動で気づいた。
あてずっぽうに言ってみたが、見当はずれではなかったらしくミルが微笑んでくれた。
「そうですね。教えた木の実や果物を取ってきて頂けますか? わかる分でいいですよ」
『木の実と、果物だね。でも間違えてたらマズイから、ミルが確認してくれるかな』
『わかりました。でも、きけんあるとだめ。玉獣といっしょに、いく』
『こいつと? 』
思わず、指差してしまった。
土間のような、板間の下の場所で寝そべっていた獅子もどき。俺に指差されると、不服そうな顔をしてから大あくびをしている。
雷光は、ミルが何か唱えて命じると、ミルの足元に消えていく。こいつは野良だから、消えることなく土間に居座っていたのだろうか。というか、存在を忘れていた。
「この子、ハルキが好きみたいですね。どうですか? 双子星になりますか? 」
『……は? 』
ミルの言葉が、理解できなかった。いや、こいつが俺を好きだとか、そう言った気がしたけど、まさか。
聞き間違いだ。
『このこ、ハルキがすきみたい。こんなにつよいこ、ひとのそばにいたがる、めずらしい。すごく、めずらしい。このこ、ハルキがすき。たぶん』
『そ、それは、どうも』
『だから、わたしの雷光みたいに、いっしょ、いいとおもう』
『えぇ? 』
『きょうだいになる。ちからづよい。きっと、ハルキたすけてくれる』
ちょっと待て。
犬とか猫を飼うみたいに、簡単に言わないでほしい。
こいつが口をあけたら、おそらく俺なんか軽く食べちゃう存在だ。それを、兄弟になるとは、どういう事なんだ。
でも。
『助けてくれる、か』
もう、こいつには助けてもらっている。
確かに、神官達を退けさせたうえに、ここまで乗せてもらった。
こいつに、懐かれてるのかな。
戸惑っていると、緑色の瞳に睨まれているのに気づいた。
のっそりと起き上がり、俺から視線を外すことなく傍らまで来てペロリとざらついた舌で手の甲を舐める。
いや。サイズが違うだけで、犬や猫と変わらないのか?