24 記憶の再生
整然と立ち並ぶ巨大な柱の間に、俺達の息遣いが響く。
遺跡のような玉座の間で、呆けたように繁栄の虚像を眺めていた。
俺の傍らで静かに見詰めているミルの心に、どんな感情が渦巻いているんだろう。もし、国が滅びなかったら。もし、両親が生きていたら。もし、もし、もし。
そう、思っているんだろうか。いや、そう思っているに違いない。
俺がいなかったら。クマリの地で生まれようとしなかったら。俺の存在さえなかったら、きっとミルの運命は変っていただろうに。
ミルは、何を失ってしまったんだろう。
『ここは、静かだね』
『うん。もう、だれもいない』
もう、誰も居なくなってしまった国。その国を背負うようなキミは、どこへ行こうとしているのだろう。俺は、何をしてあげられるだろう。
ミルの小さな背中を見て、俯く。俺は、何が出来るんだろう。キミのお荷物になってはしないだろうか。
『なぁ、ミル……』
『……しっ』
俺の問いかけに、ミルは素早く口元で息を切った。
野生の動物のように全神経を研ぎ澄ます気配に、口を閉じる。何か見つけたのだろうか。
木の床を歩くミルの足音が、消えた。
『ハルキ、そばにいる』
言われなくても離れません。
只ならぬ様子に、俺はミルの邪魔にならない距離を保ちつつ後を追う。
人が潜むには、うってつけの場所だ。
太い巨大な柱が立ち並び、沢山の出入り口がある大広間。物陰も逃げ道にも、困る事はない。
ミルは音もなく果物ナイフを取り出して、胸の前で構えた。重心を前に、気配を消し去り鼠に飛び掛る寸前の猫のような動作に、俺の心臓が早撃ちをはじめる。
俺の知っているミルではない。いつも優しく微笑んでいたミルではない。
生死をかけた勝負を駆け抜けてきた者だけがもつ、研ぎ澄まされた動作と精神の使い方をしていた。
「……っ」
俺の吐く息の音が邪魔だ。そう、鼓膜を震わすのは、風が揺らす布の音と相手の気配の音、そして俺の呼吸の音のみ。
この場に、俺は足手まといでしかない。
そのせいでミルが怪我をしたらどうしよう。そう考えた途端だった。
立ち並ぶ柱の影から、足が見えた。横になった人間の足。薄汚れた大きな足。
瞬間、ミルの気配が変る。息遣いが感じられる。押し殺していた気配が、ようやく解き放たれた雰囲気。
そして、ミルにしか判らない何かを確認したんだろう。音を立てて一歩を踏み出し、慌てて踏みとどまる。
まるで、ボールを追いかけて道路に飛び出しかけた幼児のよう。思わず理性で踏みとどまり、素早く柱の影に身を潜め周囲を見渡す。
でも、それも僅かな間だった。一瞬後、耐え切れないように影から飛び出し、その人影に走り寄る。
「テリン……テリン! 」
ミルが素早く抱き起こしたのは、中年の男性だった。
薄汚れ、随分とやせ細った腕が見える。ただ、その腕は後ろ手に縛られていた。
ヒゲが生え、青痣に出血や腫れた顔は、正気なく土色に近い。
『何て事を』
『大丈夫。まだ、いき、してる。「テリン、テリン! しっかりなさい! 何が起きたのですか! 」』
ミルが素早く縄を切り、男の頬を軽く叩く。その刺激で、テリンと呼ばれた男の目が僅かに動いた。
いや、目を見開こうとしたのだが、目蓋が腫れて出来なかったのが正しい。
微かに青が混ざった茶色の瞳が、意思を持って動く。あ、ミルと同じ色の瞳だ……。
その視線は、ミルと背後に立ち尽くしている俺を捕らえた。
腫れた目蓋が、僅かだけ見開かれる。
「姫宮様……ここは危険でございます! 早く、早くお逃げくだされ! 」
テリンの言葉に、空気が蠢いた。
柱の影から無数の気配が動き、強烈なお香のニオイが流れだす。そのニオイがついた風に釣られるように、周辺の妖精のような姿をした小人が引き寄せられていく。
「精霊が……っ! 」
『……せいれい……精霊?! 』
ミルの言葉が、俺の頭の中でピースをはめる。
知っている。これは、この光景を見たことがある。コレに似たような状況に遭った事がある。
いつだ? そう、昔だ。俺が俺でない、遠い昔。
記憶が一瞬で途方もない過去へ戻る。意識が過去の記憶に繋がり、俺の口から見慣れぬ旋律と言葉が流れ出す。
『八百万の神様、いや、……「八百万の神々の 住まう天地 深淵の果て 全てに響かせ 轟かそう……」』
「大祓! 大祓だ! 下がれ! 全員、下がれ! 」
柱の影から、フードを被った人影が次々に出てくる。
その手には小さな香炉だろう。きついニオイのする紫煙を漂わせ、口々に低く寒気のする和音を唄っている。
知っている。これは精霊を呼び寄せ使役する唄。精霊の意思も気持ちも無視し、意のままにしようとする唄。
薄暗い床をよく見れば、淡い光の線が浮かび上がりつつある。
規則性をもち、意匠化された曲線でかかれた円陣は、見事にテリンを中心に描かれており、俺達は円陣の中に誘い込まれた形だ。
これは罠。
こちらが使役できる精霊を気味の悪いその唄で吸い尽くし、俺達を円陣の中に閉じ込める算段なのだろう。
真空パックされてたまるか!
腹に力をこめ、意識を過去へうつし、声を響かせ唄っていく。
細胞が震える。心が歓喜する。全てが震えていく。
『「 天道そびえる十二の宮 巡り巡り六十支 永久の契約の下 吾は叫ぼう 」』
初めてミルと出会った時の唄だ。そう気づいた時に、俺の中の記憶の光景を思い出していた。
《 濡れて重くなった砂浜で唄っている。空には無数の水の精霊。
あぁ、なんてアンバランス。そう思った俺は、朗々と空へ向かい唄っていた。土砂降りの雨の中、両手を広げて唄っていた。
さぁ、戻ろう。君たちが居るべき場所へ。あるべき形へ。美しい、その形へ。研ぎ澄まされた感覚を解き放ち、その響きに震えていこう 》
真っ白な砂浜。視界の殆どが海。背後に迫る急な斜面の山々。
狭い閉ざされた空間が、全ての世界。チッポケな、世界が全てだった。そう、これは、俺の記憶。
そうか……これ、物事の並びを正常に戻す唄だ。
どんな半端な唄よりも、コレに勝る美しさはない。
何て、心地よい響き。体の粒子はもちろん、この振動が響き渡る範囲は全て清める響き。無敵の唄。
思い出していた。そう、これは、大祓。全ての始まりの唄だ。
これは、ハルンツの記憶だ。古い古い、記憶の底で眠っていた思い出。これは、旅立ちの記憶。
『「 これをもって、全ての終わり、全ての始まりとする この拍手は拍手でなく 神の息吹なり 鼓動なり 」』
夏のあの日は、最初の音がとれなかった。大黒丸とミルの奏でた音で、俺の中のイメージが調律された感覚だった。でも、今は違う。
俺は俺の記憶の中から音を生み出していた。最初から音は判っていたんだ。
そう……俺の中の記憶が、鮮やかに蘇っていた。唄い終わり光の粒が広がっていく自分の手を見て、自分が関口晴貴だと確認してから拍手を打つ。
空気が輝くその美しさに、確信。
なんて不思議な感覚だろう。俺は確かに関口晴貴だけど、ハルンツの辿った人生が記憶にある。過去の人物だけど、遥か昔の記憶の断片が鮮やかに蘇ってしまった。
思い出してしまった。判ってしまった。
ハルンツが、その人生で感じた苦悩や喜びや、悲しみの感情まで。きっと、蘇ったのは印象的な場面。それでも、自分と同じ魂の記憶に戸惑う。記憶や感情の蔦は繋がっているけど、それが別人だという事に、ひどく戸惑う。まるで、自分が多重人格になったかのような。それでいて、いとおしい。とても、懐かしい。涙が零れそうな感覚。これを何と表現しよう。
『……あぁ、そうか。俺、ハルンツだったんだ』
漂う紫煙は、光の粒によって清められる。呆然と立ち尽くす男達に、俺は思わず溜息を零していた。
その手にする香炉には、勾玉や蛇をモチーフにデザインされている。
勾玉も、蛇も、深淵の大神殿のシンボル。そして、記憶の底のハルンツは深淵の大神殿の大神官をしていたのを思い出す。
紫の袴、凝った刺繍で重く長い袖で動きづらい紺色の着物。泉湧き出る部屋から見上げる、小さな小さな丸い天井。
『俺を……また閉じ込めるつもりなのか? あの水底へ縛り付けるのか? 』
猛烈な勢いで、過去の光景が蘇る。感情が迸る。
『深淵へは、もう、もう戻らない! 』
「ダ、ダショー様、ダショー様だ! 」
「なんと、本当に光臨なされた! この大祓は、ダショー様の為せる御技! 」
『わ、訳わからん事を叫ぶな! さっさとどけよっ』
フードを被った深淵の神官達の言葉は判らない。それでも、大祓を行った俺に対して、一歩一歩と恭しい仕草をしながら近づく。その姿に悪寒がはしる。
何だ、こいつら。
見えない糸が見える。見えないはずの、蜘蛛の糸。透明で、それでいて確実に獲物を絡め捕らえ、絞め殺していく細い糸。
俺を縛っていた、思念の細い蜘蛛の糸。閉じ込められたように過ごした小部屋に仕掛けられた、無数の蜘蛛。
罪の自覚なく、じわりと絞め殺していく、無邪気な糸。
錯綜する記憶と感情で、足がもたつく。恐怖で、俺は倒れこんでいた。