22 現世の鏡
静寂という意味を、俺は初めて知った。
風がそよぎ、木々の葉を揺らす音。冷たい清流が流れる音。夜の闇の中で蠢く生き物の気配の音。かすかな虫の羽音。そして、満天の星空で震える星の瞬きの音。
時折聞こえていた救急車のサイレンの音も、車やバイクの音も、近所から漏れてくるTVの音も、夕食のニオイも、存在しない世界。
エンジンも、スピーカーも存在しない世界。産業革命以前の世界は、きっとこんな静けさがあったんだろう。
見上げる夜空には、電波も飛んでいないはず。きっと、この星は静寂に包まれている。地球のように電波や衛星で覆われていないこの世界は、真の静寂を湛えて宇宙空間を漂っているんだろう。
『あたたかいもの、ない。ごめんなさい』
『いいよ。今、火を使ったら居場所を教えるようなもんだからね』
『おなか、いっぱい、なった? 』
『大丈夫だよ。オーガニック食品で満腹なんて贅沢な晩ご飯だったよ』
渓流のそばの大岩の上で、俺達はささやかな晩餐を終えた。
あれから、ミルは手際よく森の中を散策しながら木の実を摂ってくれた。本当に、一時ここに住んでいたのだろう。何が食べられるのか、似たモノでも毒があり何に注意が必要なのか、丁寧に俺に教えてくれた。果物ナイフを鮮やかに使いこなし、収穫した果物や木の実やキノコを手の中で切り分けていく。深い森の中でも迷う事なく、的確に安全な道を歩いていく。
慣れているな。そう思わせる動きだった。
『夏でよかったなぁ。冬だったら、野宿もキツイよ……いや、ここって季節あるの? 』
ひんやりと心地よい夜風に吹かれ、慌ててミルに問いかける。地球の常識はどこまで通用するのだろうか。
『いま、なつ。だいじょうぶ。あつさ、さむさ、あまりかわらない』
『そ、そっか。よかった』
とりあえず、破けたYシャツでも過ごせそうなのは助かる。
安堵した俺に小さく笑いかけて、ミルは夜空を見上げた。渓流を挟んでそびえる大樹の森の切れ間から、満天の星空と細い月。そこには、点滅する灯りを点して夜空を横断していく飛行機もない。何も邪魔することのない、本物の星空。飛行機が飛び回っている地球では、絶対にありえない星空。
空気も澄んでいるからか、黒い布に銀の粒をまき散らかしたような星空だ。もはや、星座とか判らないほどの星の量。いや、異世界の星空に夏の大三角形も北極星もないはず。それに星を知らない俺が星を見ても、意味はないか。
そう気づいて苦笑いしてると、ミルが小さく声をあげた。
横で、俺と同じように空を見上げているが、大きく見開いた視線は一点を見つめていた。
『どうしたの? 』
『……ほし、あたらしい、ほし』
煌めく星の中、確かに一際強く輝く星がある。冬のシリウスよりも、強く明るい星。
『見間違いじゃない? 星が簡単に増えるはず……ココはあるの? 』
『ない。でも、ほしやそらは、みらい』
さすがに、いくら異世界でも星が増える事もないらしい。
考えれば当たり前だけど、そんな事に安堵した俺にミルは言葉を続けた。
『あたらしい、あのほし。たぶん、ハルキのほし』
『……はぁ?! 』
ミル、おかしくなってしまったんだろうか。異世界の移動ってものは、脳に激しい衝撃や負担を強いるんだろうか。
恐る恐る見つめたミルの横顔は、紅潮していた。
「この星の配置や月の欠け具合からみて、私が地球へ移動してから数日という所ですね。その短い時間で新しい星が生まれている。これは、ハルキが還った事を現しているんですよ。やっぱり、ハルキはダショーなのですね。この世界にダショーが還って来た事を、星が現しているのですよ! 」
『ミ、ミル、頼むから日本語でお願い。日本語で喋ってくれ』
俺の指摘でようやく異世界語を喋っている事に気づいたらしく、日本語で早口で事のあらましを説明し直してくれた。
この世界では星空は未来を示す事。新しい星は俺の帰還を表している事。
それは、科学を信じてきた俺にとって、到底信じられる事ではない。
くしゃくしゃと前髪をかきあげ、大きく息をつく。
『喜んでいるのに悪いけど、新しい星は超新星だよ。年老いた赤色恒星が爆発した光なんだ。何光年先の星が死んだ時に放つ強烈な光なんだ。偶々、俺がココに来た時期に近かっただでさ。あれは、ただの死んだ星の光なんだ』
『うん。にほん、そういうかんがえ。でも、ちがう』
俺の説明に頷いて、ミルは微笑んだ。
「ハルキの世界の考え方は、そうでしょうね。遠くの世界の事も詳細に判る技がありましたから、事の真相はそうなのかもしれません。『あのひかり、しんだほしのひかり。そうかも。でも、なぜ、いま、ひかりがある? なぜ、ハルキかえった、いま、ひかる? 』」
『それは偶然だよ。偶々、俺がココに来た時に何光年も前に爆発した先からが届いた。それだけさ』
『ぐうぜん、ない。「偶然というものは、ないのです。どんな事も、大きな力が働いている。夜空の星は、それを現している鏡。私達は夜空の星を見上げて、その予兆を探るのです。そうやって、過ごしてきました」ハルキ、かえったいま、ひかり、とどく。それだけ? なぜ、ぴったり、とどく? そこに、かみさま、いない? 』
『そこに、その偶然に神はいないのかって事? そんなのは、それは、うーん』
俺が思わず口ごもると、ミルは微笑んだ。
それは、幼子を優しく見つめる母親のような微笑。
ミルの世界では、信仰や神という存在が大きいのだろうか。超新星に意味を見出すのは当たり前の事のようだ。そうやって文明を築いてきたんだろう。魔法が存在している世界だ。地球の考えなんか、通用しない。無信仰の国で育った俺からすれば、あまりに非科学的。考え方まで、天と地がひっくり返ったような世界。
『俺、何にも判んないなぁ……ホント、何にも判らないよ』
『だいじょうぶ。ミル、いる』
『そうだな。ミルがいるもんな』
俺、なんて小さいんだろう。
当たり前だけど異世界に来た今、俺は何も知らない事を思い知った。
食べ物も、言葉も、現在位置も、世界事情も、生活習慣も、判らない。俺の知っている常識も、川端康成も伊勢物語も、この世界には意味がない。今までの知識は、役には立たない。
星空で一際眩しく輝く星が俺を現してると言われても、俺はこんなにチッポケな存在。なんて非力。なんて惨め。
自分の小ささを嘆きながら、ミルと星空を見上げていた。
渓流のせせらぎをBGMに、大岩に二人して寝転んでいた。
昨晩のように、手をつないで顔を合わせて、そっと笑いあって。何やら危険な逃走中のはずなのに、二人で居られる事が嬉しくて。
互いの体温を手の平で感じながら、ずっと零れ落ちてきそうな星の煌めきを眺めた。
指先に、軽い感触。細やかに揺らぎながら、その感触は俺の指をゆっくりとなぞっていく。
『……ミル? 』
細い指先でこしょぐるような、甘い甘い感触で意識が夢から起き上がっていく。
右手から、手首へ。手首からゆっくり、じらすように肩へ向かうその感触。甘美な動きに思わずドキドキと興奮してしまう。
ミルってば、なんて大胆な。こんな子だったけ? いや、俺としては大歓迎なんだけど。
そう思ってまどろんでいたら、突如として頬を触れる感触。
思わずキスという単語が浮かび、慌てて目を見開いてしまう。あぁ、勿体無い事した。そう思ったのは男の性。
が、視界一杯に広がるのは白み始めた朝の空。覚醒した耳に、渓流の流れとそよ風が挨拶。
あ、そうか。俺、異世界に来たんだった。そう思い出してから気づく。
さっきの甘い感触は何だ? そう思って頬を撫でると、軽い物体が指先に絡まる。
まだ眠気が残る目を擦り擦り、その指先を鼻先に持ってきた瞬間だった。
目に飛び込んだのは、黒と黄色の縞々模様。細く長い八本の足。微風に乗って、見えない糸が俺の鼻先に引っかかり、ソイツは俺の鼻先へと素早く移動して……。
『ぎゃああああ!』
色気もない俺の断末魔が、静かな朝の森に響き渡った。
『そんなに笑わなくても』
『だって。ハルキ、さけぶ。ぎゃあああ!って』
『苦手なの。蜘蛛は苦手なの。蜘蛛だけは絶対にダメなんだってば。しかも寝起きに蜘蛛だしさ』
俺の顔を見てはクスクス笑い、叫び声を真似されてしまう。
その事に少々の恥ずかしさを感じながらも、ミルが笑っている事に安心する。
本当は過酷な逃避行のはずなんだけど、雰囲気が重くないのはいいかも。
俺の朝の大絶叫は、朝食を探していたミルを大いに慌てさせたらしい。
全速力で戻ってきたミルは、一人で絶叫して腕を振り回す俺の様子を見て、助けを求める叫びを無視して立ち尽くしていた。
そりゃそうだ。蜘蛛と格闘しているなんて,相手が小さすぎて見えないだろう。
とにかく、『蜘蛛、蜘蛛ぉお! 』と腰が抜けて阿鼻叫喚状態の俺を見下ろし、ミルはポカンとした顔でその蜘蛛を指先で摘んで吹き飛ばしてくれた。
『ハルキ、きらいなもの、あった。びっくり』
『俺だって嫌いなものはあるよ。ミルだって、電話もカメラも嫌いだったじゃん』
『……あれ、きゅうに、なる。かお、みえない。でも、ここにはでんわ、ない。カメラ、ない。すごく、うれしい』
『なんで異世界にも蜘蛛がいるんだろうなぁ。反則だってば』
「ふふ……ふふふ」
俺の狂態を思い出したのだろう。ミルはまた肩を震わして、笑いながら先を歩いていく。
あぁ、何で異世界に来てまで蜘蛛がいるんだろう。
『でも、あんしん。うれしい。ハルキも、にがて、あった』
『安心? うれしい?』
「私だけが知っている、ハルキの秘密ですね」
『……? 』
ミルの微笑みと言葉が判らない。
ただミルは、俺を見詰めて微笑んだ。とても、嬉しそうに。